第15話 キリスト教の方ですか
朝、ホテルの窓を開けると、町はもう動き始めていた。
昨日の夜、空に花火が咲いた場所も、朝になると普通の町に戻っている。道路には車が走り、コンビニには人が入り、どこかの家のベランダには洗濯物が揺れていた。
人間は、夜に火薬で花を咲かせても、朝には洗濯をする。
それが少し面白かった。
俺は身支度をした。
カードキーは財布に入っている。スマホはない。榊原さんが管理している。危険な表現リストは鞄に入っている。ナザレ・ヨシュアとしての宿泊控えもある。
かなり現代人に近づいてきた気がする。
ただし、戸籍はない。パスポートもない。国籍もない。
現代人としては、かなり根元が怪しい。
ロビーへ降りると、榊原さんはすでに待っていた。
「おはようございます」
「おはようございます」
「カードキーは」
「財布に入れています」
「よろしいです」
「朝の挨拶より先に確認されると思っていました」
「さすがに挨拶が先です」
「社会生活ですね」
「はい」
朝食は、ホテルの一階にある小さな会場だった。
旅館の朝食とは違う。
大きな皿に、各自が食べ物を取る形式らしい。パン。ご飯。味噌汁。卵。焼き魚。サラダ。ウインナー。ヨーグルト。コーヒー。オレンジジュース。
「これは、自分で選ぶんですね」
「はい。バイキング形式です」
「バイキング」
「食べ放題の形式です」
「北の海の人たちとは関係ありますか」
「名称の由来はありますが、今は朝食です」
「今は朝食」
「はい」
俺はトレーを持った。
選択肢が多い。ここでも選べる。
ご飯にするか、パンにするか。味噌汁にするか、スープにするか。卵は焼くか、茹でるか。ヨーグルトに果物を入れるか。
教会に入るかどうかは選べない。
だが、朝食のパンは選べる。
現代は、変なところで自由だった。
「何を取ればいいんでしょう」
「食べたいものを」
「またそれですね」
「ここでは選べます」
榊原さんは、昨日と同じようなことを言った。俺は少し笑った。
「では、パンにします」
「理由は」
「懐かしいので」
「なるほど」
パンを取った。
だが、昔のパンとはかなり違う。白く、柔らかく、均一で、薄く切られている。横に小さな袋のバターとジャムが置いてある。
「パンが、とても整っています」
「食パンです」
「人間、パンまで四角くするんですね」
「日本では一般的です」
「日本、米だけでなくパンにも強い」
「はい」
榊原さんは、ご飯と味噌汁を取っていた。
「榊原さんはパンではないんですね」
「今日はご飯です」
「選べるのは良いですね」
「はい」
席に着く。俺は手を合わせた。
「いただきます」
榊原さんも手を合わせる。
「いただきます」
パンを食べる。やわらかい。
昔のパンとは違う。歯ごたえがない。だが、これはこれでおいしい。バターを塗ると、さらにおいしい。ジャムを塗ると甘い。
「パンが、かなり優しいです」
「食パンです」
「昔のパンは、もっと強かったです」
「強いパン」
「噛む必要がありました」
「現代の食パンは柔らかいですからね」
「人間は、パンまで癒しにしたんですね」
「たぶん、そこまでは考えていません」
榊原さんは味噌汁を飲んだ。
その姿は普通だった。法務さんではなく、朝食を食べる榊原さんだった。
見すぎると不自然なので、俺はパンに戻った。
食事を終えて、ホテルを出る。今日は電車で移動するらしい。
駅まで歩く。
朝の町は、昨日の夜と違っていた。花火の人混みはもうない。屋台も片付いている。歩道には通勤の人がいる。学校へ向かう学生がいる。
昨日、夜空を見上げていた人たちが、今日はそれぞれの場所へ向かっている。
祭りは終わる。生活は続く。
かなり強い。
「駅までは歩きます」
榊原さんが言った。
「はい」
「手はつなぎません」
「人混みではないからですか」
「はい」
「少し寂しいですね」
言ってから、俺は足を止めそうになった。
榊原さんも、ほんの少しだけ歩調を乱した。
「今の発言は」
「不適切ですか」
「やや」
「すみません」
「ただし」
「はい」
「記録には残しません」
「ありがとうございます」
昨日から、記録に残らないことが少し増えている。
それは良いことなのか、危険なことなのか、まだ分からない。
駅は小さかった。
改札。券売機。時刻表。待合室。売店。ベンチ。
人は多くない。
榊原さんは券売機の前に立った。
「切符を買います」
「知っています」
「では、見ていてください」
「はい」
画面を操作する。行き先を選ぶ。料金を入れる。切符が出る。
「少し奇跡に近いですね」
「発券機です」
「現代は、だいたい名前を変えると奇跡ではなくなる」
「仕組みがあるからです」
「仕組みがある奇跡」
「奇跡とは呼びません」
何度も聞いたやり取りだった。
だが、何度聞いても少し納得できない。
仕組みがあるから奇跡ではない。
なら、奇跡とは仕組みを知らない時の呼び名なのか。
それとも、仕組みがあってもなお人を驚かせるものなのか。
考え始めると、また神学になりそうだった。
危険な表現リストを思い出し、考えるのを少し止めた。
ホームで電車を待つ。
風が吹いた。レールの向こうに山が見える。
「電車も、知識としては知っています」
「乗ったことは」
「ありません」
「では、乗り方を説明します」
「お願いします」
「乗る人が降りてから乗ります」
「はい」
「車内では大きな声を出さないでください」
「はい」
「電話もしません」
「スマホは榊原さんが持っています」
「はい」
「祈りは」
「声に出さないでください」
「はい」
「奇跡は」
「起こしません」
「よろしいです」
電車が来た。
音と風が近づいてくる。銀色の車体。ドアが開く。人が降りる。乗る。
俺たちも乗った。
車内は静かだった。席に座る。窓の外が動き出す。
道を歩くのとも、車で走るのとも違う。自分は座っているのに、景色が流れていく。
「これは、かなり不思議ですね」
「電車です」
「知っています」
「はい」
「でも、乗ると違います」
「そうでしょうね」
しばらく景色を見ていた。
田んぼ。住宅。川。踏切。小さな駅。人。
すると、向かい側に座っていた年配の男性が、こちらを見ていた。
俺と目が合うと、男性は少し笑った。
「外国の人かい」
来た。
榊原さんが、わずかに姿勢を整えた。
「はい」
俺は答えた。
「日本語うまいねえ」
「勉強しました」
天啓とは言わない。学習している。
「どちらから?」
男性が聞いた。
少し難しい。
古代ユダヤ。ローマ帝国支配下のガリラヤ。現代国家で言うとどうなるのか。帰る国はない。
答えは、かなり危険だ。
榊原さんが先に言った。
「中東の方です」
「へえ。じゃあ、イスラム?」
その言葉に、俺は少しだけ考えた。
イスラム。俺の死後の宗教だ。
だが、俺はその中でも名前を持っている。イーサー。預言者。マリアの子。キリスト教とは違う形で、俺はそこにもいる。
人間は、俺のいない間に本当にいろいろ作った。
「その文脈でも、少し関係はあります」
俺が言うと、榊原さんの目がこちらを向いた。
男性は首をかしげた。
「ん?」
榊原さんがすぐに言った。
「宗教には詳しいんです」
「ああ、そうなの」
男性は納得したような、していないような顔をした。
「じゃあ、キリスト教の方?」
今度は、さらに近いところへ来た。
俺は、正直に答えかけた。
はい、キリスト教です。
かなり正確な答えだと思った。
だが、その直前に、榊原さんの手が俺の袖を軽く押さえた。
止められた。
俺は口を閉じた。
榊原さんが答える。
「関心はあります」
「関心」
男性が言う。
「まあ、外国の人はいろいろあるもんな」
「はい」
男性はそれ以上聞かなかった。窓の外へ視線を戻す。
俺は小さく息を吐いた。
榊原さんが、低い声で言った。
「今、何と答えようとしましたか」
「はい、キリスト教です、と」
「やめてください」
「でも、かなり正確では」
「正確すぎるので不自然です」
「正確すぎる」
「はい」
「では、キリスト教徒です、なら」
「それも避けてください」
「キリスト教に関心があります」
「そのくらいでお願いします」
「関心はかなりあります」
「かなり、も不要です」
「関心があります」
「はい」
「俺は、俺に関心がある」
「哲学にしないでください」
「はい」
電車は次の駅に停まった。
人が少し乗ってくる。制服の学生が数人。買い物袋を持った女性。小さな子ども連れの母親。
誰も俺を見ていない。さっきの男性も、もうこちらを見ていない。
たぶん、それでいい。
「見た目で、宗教を聞かれるんですね」
「可能性は高いです」
「中東の顔をしていると」
「はい」
「人は、顔で祈りの方向を推測する」
「言い方に注意してください」
「はい」
「ただ、実際にそういう推測はあります」
「榊原さんは、俺を最初に見た時、何だと思いましたか」
聞いてから、少し踏み込みすぎた気がした。
榊原さんは、すぐには答えなかった。
電車の揺れが続く。
「変な外国人です」
彼女は言った。
「やはり」
「はい」
「宗教は?」
「宗教施設で発生したトラブルだと思いました」
「かなり事務的ですね」
「そう処理する必要がありました」
「今は?」
「今も、宗教施設で発生したトラブルではあります」
「そこは変わらない」
「はい。ただし、かなり特殊な保護案件です」
「特殊」
「非常に」
榊原さんは、窓の外を見た。
「そして、あなたは放っておいてよい人ではありません」
前にも聞いた言葉だった。
だが、少しだけ聞こえ方が違った。
電車の中で、周囲の人に聞こえないように低く言われると、それはほとんど秘密のようだった。
「ありがとうございます」
「感謝されることではありません」
「職務ですか」
「はい」
「それ以外は」
「今は、職務です」
今は。
まただ。
俺は、その言葉を胸のどこかにしまった。
しまう場所が増えている。
イエスという名前。キリストという称号。主と呼ばれた時の重さ。榊原さんの下の名前。今は、職務です、という言葉。
人は、言葉をしまうことで距離を保つのかもしれない。
電車を降りると、そこは少し大きな駅だった。乗り換えらしい。人が多い。
榊原さんは、自然に俺の手を取った。
「人混みです」
「はい」
「迷子防止」
「はい」
手をつないで歩く。
昨日の花火の時より、少しだけ自然だった。
俺が慣れたのか。榊原さんが慣れたのか。両方かもしれない。
改札を抜け、駅ビルに入る。
昼食を取ることになった。
飲食店が並んでいる。ラーメン。寿司。パスタ。定食。カフェ。カレー。
「選択肢が多い」
「はい」
「ここでも選べる」
「はい」
「何がおすすめですか」
「今日は、あまり目立たない店がいいです」
「味ではなく」
「安全です」
「安全な昼食」
「はい」
榊原さんは、比較的空いている定食屋を選んだ。
席に案内される。店員が水を持ってきた。
「ご注文がお決まりになりましたら」
メニューを見る。
焼き魚定食。唐揚げ定食。生姜焼き定食。カツ丼。親子丼。
「親子丼」
俺は言った。
「はい」
「これは、親と子を」
「鶏肉と卵です」
「名前が重いですね」
「深く考えないでください」
「分かりました」
「何にしますか」
「親子丼にします」
「深く考えないのでは」
「名前は重いですが、おいしそうです」
「それなら良いです」
榊原さんは焼き魚定食を頼んだ。
料理が来るまで、俺は周囲を見た。会社員らしき人。旅行者。学生。高齢の夫婦。
誰も、俺に救いを求めていない。ただ昼食を食べている。
それは、やはりありがたい。
親子丼が来た。卵がとろりとしている。鶏肉。玉ねぎ。甘い匂い。ご飯。
「これは、かなり優しいですね」
「食べる前からですか」
「見た目です」
食べる。甘い。温かい。やわらかい。
「名前は重いですが、味は優しいです」
「よかったです」
榊原さんは焼き魚を食べている。
「榊原さん」
「はい」
「日本では、食べ物の名前に親子を使っても大丈夫なんですね」
「料理名です」
「現代では、言葉の重さを場面で変えるんですね」
「はい」
「それができれば、かなり揉め事が減りそうです」
「できない場合も多いです」
「そうですか」
「はい」
食後、店を出る時、店員が俺たちに言った。
「旅行ですか?」
榊原さんが答える。
「はい」
「いいですね。どちらまで?」
「少し、北の方へ」
「お気をつけて」
「ありがとうございます」
俺も頭を下げた。
「ありがとうございます」
今度は、余計なことを言わなかった。
榊原さんが、店を出てから言った。
「今の対応は適切でした」
「評価ですか」
「評価です」
「嬉しいです」
「ただし、親子丼への解釈は少し重かったです」
「料理名ですからね」
「はい」
「今日は料理の話」
「はい」
俺は少し笑った。
この旅で、俺は何度も言われる。
今日は金魚の話。今日は花火の話。今日は料理の話。
それは、かなり大切な制限だった。
何でも救いの話にしない。何でも罪の話にしない。何でも神の国の話にしない。
今日のことは、今日のこととして置く。
それが、人として生きるために必要なのかもしれない。
午後、俺たちは別の電車に乗った。今度は少し長い移動だった。
車窓の外に、海が見えた。
青い水が広がっている。湖とは違う。ガリラヤの湖とは違う。もっと広い。
「海です」
榊原さんが言った。
「知っています」
「見たことは?」
「あります」
「日本の海は?」
「初めてです」
海の向こうに、雲がある。船が小さく見える。
水の上を歩くな、と言われたことを思い出した。
歩かない。今は、見ているだけでいい。
「ナザレさん」
「はい」
「何か考えていますね」
「水上歩行はしません」
「よろしい」
「ただ、海は大きいですね」
「はい」
「人間は、海を越えて来たんですね」
「あなたも、ある意味では」
「俺は、かなり変な越え方をしました」
「はい」
榊原さんは否定しなかった。
電車は海沿いを走る。俺は窓の外を見続けた。
中東の顔をしている俺は、日本の電車に乗り、日本の海を見ている。
キリスト教ですか、と聞かれたら、関心がありますと答える。
イエスという名前は使わない。キリストとも名乗らない。主でもない。
ナザレ・ヨシュア。旅行者。偽装上は榊原さんの恋人。実務上は保護対象者。
そして、たぶん少しずつ、人として日本を歩いている。
夕方、目的地に着いた。
駅前には、小さな商店街があった。海風が少し強い。カモメの声が聞こえる。遠くに港が見える。
「今日は、ここに泊まります」
「はい」
「明日は」
「まだお答えしません」
「聞くと思いましたか」
「はい」
「学習されていますね」
「お互いに」
俺たちは駅前を歩いた。
すると、道端に小さな教会があった。
白い壁。小さな十字架。古い看板。扉は閉まっている。
俺は足を止めた。榊原さんも止まった。
「入りたいですか」
彼女が聞いた。
俺はしばらく教会を見ていた。
小さな教会だった。
ローマとは違う。歴史の重さも、巨大な石もない。たぶん、地元の信徒が集まる場所だ。誰かが掃除し、誰かが花を飾り、誰かが祈る。
俺は、そこに入りたいと思った。
同時に、入ってはいけないと思った。
「入ると、ここも重くなります」
俺は言った。
榊原さんは、何も言わなかった。
「小さな教会です」
「はい」
「たぶん、地元の人たちの場所です」
「はい」
「俺が入ると、俺の場所になってしまうかもしれません」
「その可能性があります」
「それは、だめです」
「はい」
俺は教会を見たまま、小さく頭を下げた。
中には入らない。扉には触れない。
ただ、その場所がその場所でありますようにと、声に出さずに思った。
「行きましょう」
俺は言った。
「はい」
俺たちは歩き出した。教会が後ろに遠ざかる。
少し寂しかった。だが、正しい寂しさだと思った。
榊原さんが隣で言った。
「先ほどの判断は、適切でした」
「評価ですか」
「評価です」
「嬉しいですが、少し寂しいです」
「はい」
「榊原さん」
「はい」
「いつか、俺は教会に入れるでしょうか」
彼女はすぐには答えなかった。
海風が吹く。
「分かりません」
「そうですか」
「ただ」
「はい」
「入らないことで守れる教会もあります」
俺は頷いた。
小さな教会。俺が入らないことで守れる場所。
それも、少しだけ救いなのかもしれない。
ホテルへ向かう道で、地元の子どもが俺を見て言った。
「外国人だ」
母親が慌てて言った。
「こら」
俺は笑って手を振った。子どもも、少し驚いてから手を振った。
それだけだった。
キリスト教の方ですか、とは聞かれなかった。
外国人だ。
そのくらいの距離が、今はちょうどよかった。
夜、ホテルの部屋で、俺は今日のことを思い返した。
イスラムですか。キリスト教の方ですか。関心があります。
正確すぎる答えは、不自然になる。
小さな教会には入らなかった。入らないことで、守れるものがある。
俺は、だんだん、何もしないことの意味を覚えている。
奇跡を起こさない。名前を名乗らない。教会に入らない。断定しない。手を離さない。
それは、昔の俺からすれば、ずいぶん不自由な生き方かもしれない。
だが、今の俺には必要だった。
人として生きるとは、何かをすることだけではない。
しないことを選ぶことでもある。
少なくとも、今日のところは。
俺はベッドに横になった。
カードキーは財布の中。スマホは榊原さんの手元。名前はナザレ。宗教は、関心があります。
かなり変な人生になってきた。
でも、悪くはなかった。




