第16話 俺の墓を見に行きます
翌朝、榊原さんはいつもより少しだけ言いにくそうだった。
朝食を終え、ホテルのロビーで合流した時点で、それは分かった。
榊原さんは、確認事項を話す時に迷わない。
カードキー。移動経路。人混み。写真。発言。奇跡。
そういうものは、淡々と処理する。
だが、今日は少し違った。
「ナザレさん」
「はい」
「今日は、少し特殊な場所へ行きます」
「特殊」
「はい」
「教会ですか」
「違います」
「神社ですか」
「違います」
「役所ですか」
「それも違います」
「では」
榊原さんは、端末を一度見てから言った。
「あなたの墓です」
俺は、少し黙った。
ロビーの自動ドアが開く音がした。外から、朝の空気が入ってくる。
「俺の」
「はい」
「墓」
「はい」
「ここに?」
「日本にあります」
俺は、しばらく榊原さんを見た。
榊原さんは、冗談を言う顔ではなかった。
「俺の墓が、日本にあるんですか」
「はい」
「俺、ここでは死んでいません」
「承知しています」
「死んだのは事実です」
「はい」
「でも、ここではありません」
「承知しています」
「なのに、墓がある」
「はい」
「現代日本、かなり自由ですね」
「正確には、伝承です」
「伝承」
「はい」
榊原さんは、端末の画面をこちらに少し向けた。
「青森県に、いわゆる『キリストの墓』と呼ばれる観光地があります」
「観光地」
「はい」
「俺の墓が」
「はい」
「観光地」
「はい」
かなり処理に困る。
ローマでも処理に困った。教会でも処理に困った。
でも、自分の墓が観光地になっているというのは、また別の困り方だった。
「そこへ行くんですか」
「はい」
「なぜ」
「移動経路上、立ち寄り可能です。また、人目があり、観光地として処理できます」
「俺の墓参りが、安全確保になるんですね」
「表現に注意してください」
「はい」
「それと」
「はい」
「現地で不用意な否定をしないでください」
「俺の墓ではない、と?」
「はい」
「でも、俺の墓ではありません」
「事実としてはそうでも、現地の伝承や観光に対して不用意な発言をすると、別の炎上が発生します」
「俺の墓なのに」
「だからです」
俺は、少しだけ天井を見た。
現代では、自分の墓にも不用意な発言をしてはいけないらしい。
「分かりました」
「ありがとうございます」
「墓を見て、俺は何と言えばいいですか」
「感想を求められた場合は、『興味深いです』程度でお願いします」
「興味深い」
「はい」
「俺の墓に対して」
「はい」
「便利な言葉ですね」
「便利です」
車に乗る。今日は榊原さんが運転する。
町を出て、道は少しずつ北へ向かっていった。
海が見える区間もあれば、山の中へ入る区間もある。途中で高速道路に乗り、サービスエリアで休憩し、また走る。
移動時間は長かった。
その間、榊原さんは、今回の伝承について説明してくれた。
「その伝承では、処刑されたのはあなたではなく、弟のイスキリという人物だったとされています」
「弟」
「はい」
「イスキリ」
「はい」
「俺に、そういう弟がいる設定なんですか」
「伝承上は」
「かなり初耳です」
「でしょうね」
「弟が身代わりに」
「はい」
「それで、俺が日本へ」
「はい」
「青森で暮らした」
「はい」
「何歳まで」
「伝承では、百六歳までとされています」
「長生きですね」
「はい」
「俺の知らない俺の後半生が、かなり足されていますね」
「そうなります」
俺は、窓の外を見た。山が流れていく。
人間は、本当にいろいろ作る。
俺の死後、俺の言葉は大きくなった。
俺の死後、俺の名で教会が建った。
俺の死後、俺の像が作られた。
俺の死後、俺の教えが解釈された。
そして日本では、俺の墓まで作られていた。
しかも、俺は処刑されておらず、弟が身代わりになったことになっている。
弟。いない弟。
少し申し訳ない気持ちになった。
「榊原さん」
「はい」
「イスキリさんにも、墓があるんですか」
「あるとされています」
「弟の墓も」
「はい」
「俺の知らない弟なのに」
「はい」
「会った方がいいですか」
「墓です」
「そうでした」
榊原さんは、少しだけ口元を押さえた。
榊原さんは、少しだけ口元を押さえた。
笑いをこらえたのかもしれない。
確認すると、問題行動になりそうだったので、確認しないことにした。
「ナザレさん」
「はい」
「念のためですが、現地で『イスキリは誰ですか』と大きな声で言わないでください」
「言いそうですか」
「言いそうです」
「気をつけます」
「また、『俺の弟ではありません』も控えてください」
「でも、弟では」
「控えてください」
「はい」
現地に着いたのは、昼過ぎだった。
そこは、想像していたより静かな場所だった。
大きな宗教施設ではない。観光地ではあるが、派手ではない。
案内板があり、駐車場があり、少し歩いた先に、墓とされる場所があった。
山の中というほどではないが、都会ではない。木々があり、土があり、風があった。
ローマとはまったく違う。
ローマでは、歴史が石になってこちらを見ていた。
ここでは、伝承が看板になって立っている。
榊原さんは周囲を確認した。
「人は少ないですね」
「はい」
「安全ですか」
「相対的には」
「相対的は便利ですね」
「はい」
俺たちは歩いた。
案内板に、伝承の説明が書かれている。
俺は立ち止まり、それを読んだ。
自分の知らない自分の話が、丁寧に説明されている。
俺は日本へ渡ったらしい。この地で暮らしたらしい。妻を持ち、子をもうけ、百六歳で亡くなったらしい。
「榊原さん」
「はい」
「俺、かなり別の人生を歩んでいます」
「伝承です」
「便利ですね、伝承」
「便利というより、強いです」
「強い」
「はい。根拠より先に、場所に根付いてしまうことがあります」
「それは、かなり神学にも近いですね」
「危険な方向へ行かないでください」
「はい」
墓の前に立つ。
そこには、俺の墓とされるものがあった。
自分の墓。
正確には、自分の墓ではない墓。
だが、俺の名前に結びつけられた場所。
俺は、しばらく何も言えなかった。
「ナザレさん」
榊原さんが静かに言った。
「無理に何か言わなくて大丈夫です」
「はい」
死んだことはある。それは事実だ。
十字架は、記憶としてある。痛みも、息苦しさも、人々の声も、空の色も、遠ざかっていく感覚も、ある。
だが、墓を見ることは、また違った。しかも、それが自分の知らない土地にある。
俺は、ここでは死んでいない。ここには眠っていない。
だが、ここに誰かが物語を置いた。誰かが俺を、この土地に置いた。
それは間違いかもしれない。だが、まったく何もないとも言い切れなかった。
人は、いないものを置くことで、何かを保つことがある。
祈りも、墓も、少し似ているのかもしれない。
「どうですか」
榊原さんが聞いた。
感想を求められたら、興味深いです。そう言う予定だった。
だが、ここには榊原さんしかいない。
俺は少し考えた。
「変です」
「はい」
「かなり変です」
「はい」
「でも」
俺は墓を見た。
「いつか俺も、また死ぬのかもしれませんね」
榊原さんは、すぐには答えなかった。
風が木々を揺らした。遠くで、鳥の声がした。
「今回の俺は、今、人として生きています」
「はい」
「人として生きるなら、終わりもある」
「……はい」
「その時、どこに眠るんでしょう」
榊原さんは、何か言おうとして、やめた。
法務さんなら、手続きの話をするところだと思った。
死亡届。身元確認。宗教者の手配。埋葬。火葬。法律。戸籍。国籍。全部、問題になる。
でも、榊原さんはすぐには言わなかった。
しばらくして、ようやく口を開いた。
「その時は」
「はい」
「手続きを確認します」
俺は少し笑った。
「榊原さんらしいですね」
「はい」
「でも、少し安心しました」
「手続きで?」
「はい」
「変な人ですね」
「榊原さんに言われると、少し重いです」
榊原さんは、小さく息を吐いた。
「まだ先の話です」
「そうですね」
「先に、今の生活の手続きを整えます」
「そちらが先」
「はい」
「死ぬ前に、生きる手続き」
「はい」
かなり現代らしい。
だが、その順番は正しいと思った。
俺はまだ、どこに眠るかより、どこで生きるかを決めていない。
家なき子のまま、墓の心配をするのは少し早い。
墓の前で、俺は手を合わせるべきか迷った。
ここは日本だ。墓の前では手を合わせる人が多い。
だが、俺が俺の墓に手を合わせるのは、かなり変ではないだろうか。
「榊原さん」
「はい」
「俺は、手を合わせるべきですか」
「無理に合わせる必要はありません」
「合わせてもいいですか」
「問題はありません」
「俺の墓ではないけれど」
「はい」
「でも、誰かが祈った場所ではある」
「はい」
俺は、ゆっくり手を合わせた。
何を祈ればいいのかは分からなかった。
俺がここに眠っているわけではない。
だが、ここに来た誰かが、何かを思ったのだろう。
不思議だと思った人。面白いと思った人。信じた人。笑った人。首をかしげた人。観光で来た人。祈った人。
そのすべてに、どうか乱暴な扱いがありませんように。
俺の名前で、また誰かが誰かを殴りませんように。
この変な伝承が、ただ変なまま、静かに置かれていますように。
声には出さなかった。榊原さんに止められなかった。
祈り終えて、顔を上げる。
「今のは、記録しますか」
俺が聞くと、榊原さんは首を振った。
「しません」
「なぜ」
「観光中なので」
「便利ですね、観光」
「便利です」
近くに、小さな売店のような場所があった。土産物が並んでいる。
俺は少し見てみた。
キリスト関係の土産物。説明冊子。絵はがき。不思議な文字。
かなり自由だった。
「俺、土産物になっています」
「はい」
「ローマでも土産物になっていましたが、日本でも」
「はい」
「人間、どこでも土産物を作りますね」
「観光地なので」
「観光地、強い」
「はい」
売店の人が、俺たちに声をかけた。
「観光ですか」
榊原さんが答える。
「はい」
「キリストの墓、珍しいでしょう」
「はい」
俺は答えた。
「興味深いです」
榊原さんが、わずかに頷いた。合格らしい。
「外国の方?」
「はい」
「キリスト教の方?」
来た。ここで。
俺は、昨日学んだ答えを思い出した。
「関心があります」
「へえ。じゃあ、ちょうどいいねえ」
「はい」
ちょうどいい。
自分の墓を見るのに、関心があります。
かなり変だ。
だが、会話はそれで通った。売店の人は、特に深く聞かなかった。
ありがたい。
土産物は買わなかった。自分の墓の土産を買うのは、少し難しかった。
駐車場へ戻る途中、榊原さんが言った。
「対応は適切でした」
「評価ですか」
「評価です」
「ありがとうございます」
「ただし、伝承についての発言は、少し危険でした」
「便利ですね、伝承、のところですか」
「はい」
「便利ではなく、強い」
「それも少し危険です」
「では」
「興味深いです」
「興味深い、万能ですね」
「万能ではありませんが、安全です」
車に戻る。
ドアを閉めると、少しだけ空気が変わった。外の伝承と、車内の現実が分かれる。
榊原さんはエンジンをかけた。
「大丈夫ですか」
「はい」
「疲れましたか」
「少し」
「予定を調整します」
「いいんですか」
「必要です」
「観光では」
「保護移動です」
「そうでした」
車がゆっくり動き出す。
俺は窓の外を見た。俺の墓とされる場所が、少しずつ遠ざかっていく。
変な場所だった。でも、嫌ではなかった。
誰かが勝手に作った俺の後半生。俺の知らない弟。俺の知らない妻子。俺の知らない老後。俺の知らない墓。
普通なら、否定したくなるのかもしれない。
だが、今の俺は少し違った。
ここにあるのは、教義ではなかった。正統性でもなかった。誰かを縛るための言葉でもなかった。
ただ、変な伝承として、土地に置かれていた。
それは、少し不思議で、少し滑稽で、少し優しかった。
「榊原さん」
「はい」
「俺の知らない俺の話が、まだ世界にはたくさんあるんでしょうね」
「あると思います」
「全部、確認する必要はありますか」
「ありません」
「よかった」
「ただし、危険なものは確認します」
「法務さんですね」
「はい」
俺は少し笑った。
「今日の俺は、何を学んだんでしょう」
「伝承との距離感です」
「距離」
「はい」
「教会とも距離。期待とも距離。伝承とも距離」
「そうです」
「距離ばかりですね」
「今は必要です」
「いつか、近づけますか」
「近づいてよいものには」
「そうでないものには」
「距離を保ちます」
「難しい」
「はい」
車は山道へ入った。
木々の間を抜ける。午後の光が、葉の間から落ちてくる。
俺は、墓の前で考えたことを思い出していた。
いつか俺も、また死ぬのかもしれない。
だが、今は生きる手続きを先にする。
それは、かなり法務さんらしい順番だった。
そして、たぶん正しい。
神の子、家なき子。
今日は、自分の墓を見た。
そこに俺は眠っていなかった。
でも、誰かの祈りは少し眠っていた気がした。




