最終話 外来の神にも、朝の掃除があります
評価の日の朝、俺は寝坊しなかった。
それだけで、まず少し安心した。
顔を洗う。歯を磨く。朝食を食べる。
宿の部屋に戻って、持ち物を確認する。
ハンカチ。財布。ノート。ペン。水。
そして、折り紙の赤い鶴。
鶴は持っていかない。机の上に置いておく。少し歪んだまま、立っている。
「行ってきます」
俺は小さく言った。
誰に言ったのかは分からない。
鶴にかもしれない。部屋にかもしれない。昨日までの俺にかもしれない。
榊原さんは、いつもより少し早く来た。表情は落ち着いている。だが、手元の書類は少し多い。
「おはようございます」
「おはようございます」
「体調は」
「悪くありません」
「睡眠は」
「眠れました」
「食欲は」
「ありました」
「緊張は」
「あります」
「記録します」
「はい」
いつもの確認。それだけで少し落ち着く。
今日は評価の日だ。だが、いつもの確認から始まる。
それがありがたかった。
「今日は、神社で最終評価を行います」
「はい」
「ただし、最終と言っても、この試行期間についての評価です」
「はい」
「人生の最終評価ではありません」
「それは怖いです」
「神としての最終判断でもありません」
「はい」
「今後のすべてが今日決まるわけでもありません」
「はい」
「今日決めるのは、神社での掃除・修理補助を、より安定した形で継続するかどうかです」
「はい」
「大きくしすぎないでください」
「はい」
大きくしすぎない。今日は、それが一番難しい。
俺はすぐ大きくする。
逃避行の終わり。居場所の決定。神としての置き場所。人としての生活。榊原さんとの関係。教会との距離。
全部を今日に乗せたくなる。
でも、今日決めるのは、掃除・修理補助の継続。
それだけ。それだけが、とても大事だった。
車で神社へ向かう。山道は、いつもと同じだった。
木々。細い道。少し古い看板。遠くの山。
鳥居が見えてくる。俺は少し息を吐いた。
「ほっとしましたか」
榊原さんが聞いた。
「はい」
「記録します」
「はい」
「ただし、過度な依存としてではなく、安定した場所への反応としても見ます」
「少し評価が柔らかいですね」
「今日は評価の日なので」
「そうですか」
「はい」
車を降りる。
爺さんは、いつものように参道にいた。箒を持っている。
評価の日でも、爺さんは爺さんだった。
「おう、評価の日」
「おはようございます」
「硬いな」
「はい」
「まず掃け」
「評価の前に?」
「評価の前だからだ」
爺さんは箒を差し出した。
「掃除見習いを評価するんだろ」
「はい」
「なら、掃除しろ」
「はい」
かなり正しい。
俺は箒を受け取った。
参道を見る。落ち葉がある。
昨日も掃いた。でも、今日もある。
落ち葉は遠慮しない。
評価の日でも落ちる。教皇様が来なくても落ちる。戸籍がなくても落ちる。職務だけではないと言われても落ちる。箱を置いても落ちる。
だから、掃く。
俺は掃き始めた。
奥から手前。人が通る場所を先に。力を入れすぎない。評価されようとしない。
葉っぱを見る。石を見る。土を見る。箒の先を見る。
すると、胸の重さが少しずつ地面に落ちていくようだった。
爺さんが言った。
「今日はいいな」
「そうですか」
「余計なことを考えながら、掃いてない」
「少し考えています」
「少しならいい」
「評価ですか」
「評価だ」
「嬉しいです」
「喜びすぎるな」
「はい」
午前中、いつもの地元の人たちが少し来た。
野菜の女性。犬を連れた男性。犬は今日も吠えた。
「まだ吠えますね」
「今日は少し短かったです」
榊原さんが言った。
「犬も改善傾向ですか」
「判断は保留します」
「厳しい」
野菜の女性は、俺を見て言った。
「見習いさん、今日もいるね」
「はい」
「もうだいぶ慣れた?」
「少し」
「そう。じゃあ、これ爺さんに渡して」
袋を渡された。俺は受け取って、爺さんに渡した。
それだけ。かなり自然だった。
地元の人から受け取り、爺さんに渡す。神の子としてではなく、掃除見習いとして。
それが嬉しかった。
午前の掃除が終わる頃、田村さんと奥さんが来た。
田村さんは軽トラック。奥さんはお弁当の包みを持っている。
「評価の日だからって、飯はいるでしょ」
奥さんが言った。
「はい」
「ちゃんと食べてから話すの」
「はい」
山辺先生と神父様も、少し遅れて来た。
神父様は手ぶらだった。榊原さんが確認する前に言った。
「お茶代はありません」
「ありがとうございます」
「写真も撮りません」
「ありがとうございます」
「泣き崩れません」
「助かります」
山辺先生は、小さく胃のあたりを押さえていた。
「今日は胃薬を持参しました」
「すみません」
「いえ。必要経費です」
「経費」
「精神的には」
少しだけ笑いが起きた。
評価の日なのに、社務所は少し普段通りだった。
それがよかった。
爺さんの茶。奥さんのおむすび。田村さんの雑な発言。榊原さんの書類。山辺先生の胃。神父様の静かな祈らなさ。
そして、俺の箒。
全部が揃っていた。
昼前、社務所で評価会が始まった。榊原さんが進行する。
「本日は、ナザレさんの神社内作業・滞在試行について、継続可否と今後の条件を確認します」
「硬いな」
田村さんが言う。
「必要です」
榊原さんが返す。
「まあ、今日は硬くていい」
爺さんが言った。
「決めるところは硬くしろ」
「はい」
榊原さんは資料を読み上げた。
「作業面。掃除については、手順を理解し、爺さんの指示に従って修正できています。力の入れすぎは残りますが、初期より大幅に改善」
「はい」
「修理補助については、木工作業への適性があり、軽微な修理では安定しています。ただし、安全管理者の立会いを継続」
「はい」
「来訪者対応。宗教的質問に対し、原則として回答を控え、『私は掃除中です』を使用できています」
「はい」
「感情面。神社への安心感は高い。ただし、過度な依存を避けるため、休養日と作業時間制限を継続」
「はい」
「地域反応。現時点では、限定的ながら受容傾向あり。『掃除見習い』としての呼称が自然に使われています」
「はい」
「宗教的リスク。伊佐留神との混同、本人神格化、教会関係者の流入、報道化のリスクは継続。よって、外部発信は行わず、来訪者制限を維持」
「はい」
「法的身分。未解決。生活基盤整備と並行して、長期対応を継続」
「はい」
「総合評価」
榊原さんは、そこで一度紙を置いた。
社務所が静かになった。
俺は膝の上の手を見た。
箒は今、壁に立てかけてある。手元にない。少し落ち着かない。
だが、逃げない。
「総合評価として」
榊原さんは言った。
「神社内での掃除・軽微な修理補助について、条件付きで継続可能と判断します」
俺は、すぐには声が出なかった。
継続可能。条件付き。それでも、可能。
神社へ通い、掃除し、修理を手伝う。続けられる。
俺は息を吸った。
「嬉しいです」
言えた。まず、それだけ。
「はい」
榊原さんが頷いた。
「ただし、条件があります」
「はい」
「作業は午前中中心」
「はい」
「週一日の休養日」
「はい」
「参拝者対応は原則不可」
「はい」
「宗教的質問には答えない」
「はい」
「箱の開閉はしない」
「はい」
「水をワインにしない」
「はい」
「水上歩行しない」
「神社で?」
「念のためです」
「はい」
「願いを聞きすぎない」
「はい」
「困ったら困っていますと言う」
「はい」
「嬉しい時は、嬉しいと言う」
「はい」
「榊原だけに頼りすぎない」
「はい」
「榊原も一人で背負わない」
少しだけ場が静かになった。
榊原さんが、自分の条件を入れた。
俺は頷いた。
「はい」
爺さんが言った。
「よし」
田村さんも言った。
「よし」
奥さんも言った。
「よし」
神父様は静かに頷いた。山辺先生は、胃を押さえながらも頷いた。
「では」
榊原さんは、もう一枚の紙を出した。
「名称についてです」
「名称」
「はい」
「掃除見習いでは」
「外向きには、当面それで継続します」
「はい」
「伊佐留神については、正式祭神とはしません」
「はい」
「ただし、社の裏の書類箱を、祈りを置く場所として、限定的に維持します」
「はい」
「由緒文は外部掲示しません。必要な相手にのみ、短く説明します」
「はい」
「爺さんの定型文を継続します」
爺さんが少し得意そうにした。
「ここは願いを叶える場所じゃねえ。祈りを置く場所だ。詳しいことは答えん」
「はい」
「短いだろ」
「短いです」
榊原さんは頷いた。
「有効です」
「評価か」
「評価です」
「よし」
田村さんが言った。
「じゃあ、掃除する神さまは?」
「外では使いません」
榊原さんが即答した。
「内でも慎重に」
「はい」
「でも、置いておく言葉としては」
彼女は少し間を置いた。
「否定しません」
俺は驚いた。
「否定しないんですか」
「はい」
「危険では」
「危険です」
「では」
「危険なので、外には出しません。ただ、この場で、あなたが掃除を続ける意味を表す言葉として、少し置いておくことはできます」
少し置いておく。
この神社で何度も学んだことだ。
分からないものを、乱暴に決めず、置く。
危ない言葉も、外に出さず、ここに置く。
「掃除する神さま」
俺は小さく言った。
「俺は、神さまになりたいかは、まだ分かりません」
「はい」
「でも、掃除は続けたいです」
「はい」
「なら、今は掃除見習いでいいです」
「はい」
「掃除する神さま、は」
「はい」
「少し置いておきます」
爺さんが頷いた。
「それでいい」
山辺先生が言った。
「神学的には、非常に曖昧です」
「はい」
「ですが、曖昧なまま置くことに意味がある場面だと思います」
「胃は」
「痛いです」
「すみません」
「でも、必要です」
神父様は静かに言った。
「教会にも、この曖昧さを怒らずに受け取る練習が必要だと思います」
「はい」
「あなたがここで掃除をしていることを、教会の敗北にも、勝利にも、奇跡にも、異端にも、すぐ変えない」
「はい」
「ただ、外にいるあなたが息をしている」
「はい」
「それを、まず受け取ります」
俺は、少しだけ胸が熱くなった。
「ありがとうございます」
奥さんが言った。
「難しい話はそこまで」
全員が少し止まった。
「お昼にしましょう」
かなり強い。かなり正しい。
評価の後は、昼飯。世界宗教より、おむすび。
今日も、それでよかった。
社務所の机に、奥さんのお弁当が広げられた。
おむすび。卵焼き。唐揚げ。煮物。漬物。果物。
神父様も食べた。山辺先生も食べた。爺さんは茶を飲んだ。田村さんは唐揚げを多めに取ろうとして、奥さんに止められた。榊原さんは、今日はちゃんと食べた。
俺は、それを見て少し安心した。
「ナザレさん」
榊原さんが言った。
「はい」
「私も食べています」
「言う前に」
「言いそうだったので」
「見抜かれていますね」
「はい」
昼食のあと、社の裏へ行った。
全員で行くと重くなるので、少人数ずつ。
まず爺さんと榊原さん。次に山辺先生と神父様。最後に、俺と田村さんと奥さん。
箱は静かにあった。御神体ではない。正式でもない。
でも、続けることになった。
田村さんが箱を見て言った。
「よかったな」
「はい」
「ここに住むわけじゃない」
「はい」
「正式な神さまになったわけでもない」
「はい」
「戸籍もまだない」
「はい」
「でも、掃除は続けられる」
「はい」
「まずはそれで十分だろ」
「はい」
奥さんも言った。
「焦らないこと」
「はい」
「ご飯は食べること」
「はい」
「休むこと」
「はい」
「玲子さんに全部背負わせないこと」
「はい」
「でも、頼ること」
「はい」
「上出来」
俺は少し笑った。
「評価ですか」
「評価」
「嬉しいです」
箱の前で、俺は手を合わせなかった。今日は、手を合わせなくていい気がした。
評価が通った。嬉しい。だからこそ、祈りにしすぎない。
今日は、ただ見る。
箱がある。場所がある。掃除が続く。
それで十分だった。
午後は作業しない予定だった。
だが、爺さんが言った。
「最後に、少しだけ掃け」
榊原さんが反応する。
「午後作業は原則なしです」
「今日は五分だけだ」
「理由は」
「評価が終わったあと、地面に戻す」
榊原さんは少し黙った。それから頷いた。
「五分だけなら可です」
「よし」
爺さんは箒を俺に渡した。
「掃除する神さま候補、五分だ」
「はい」
俺は箒を受け取った。
社の裏ではなく、参道。いつもの場所。
落ち葉は少ない。それでも、少しある。
俺は掃いた。五分だけ。ゆっくり。力を入れず。
評価が通ったことも。嬉しいことも。怖いことも。教会の外にいることも。戸籍がまだないことも。榊原さんとの線が変わったことも。
全部を、少し地面に戻すように。
葉っぱを掃いた。
五分経つ前に、爺さんが言った。
「そこまで」
「はい」
俺は箒を止めた。
もっと掃きたかった。でも、止めた。
続けるために、やめる。それも学んだ。
「よく止まった」
爺さんが言った。
「評価ですか」
「評価だ」
「嬉しいです」
榊原さんも言った。
「非常に良好です」
「嬉しいです」
神父様も言った。
「私も、そう思います」
山辺先生も言った。
「神学的ではありませんが、非常に良いです」
田村さんも言った。
「上出来」
奥さんも頷いた。
「よくできました」
評価が多すぎる。少し恥ずかしい。
でも、嬉しかった。
夕方、みんなが帰る時間になった。
神父様は、鳥居の前で頭を下げた。
「また、お茶を飲みに来てもいいでしょうか」
榊原さんが言った。
「事前申請のうえ、条件を守っていただけるなら」
「はい」
山辺先生は、胃薬を鞄にしまった。
「次は、胃に優しいものを食べてから来ます」
「うどんですね」
「はい」
田村さんと奥さんも帰った。
「明日も掃けよ」
田村さんが言う。
「はい」
「でも休めよ」
奥さんが言う。
「はい」
最後に、爺さんが鳥居のところで言った。
「外来種」
「はい」
「明日も朝から掃除だ」
「はい」
「神さまになった気になるなよ」
「なっていません」
「人間だけになった気にもなるなよ」
「はい」
「掃除見習いだ」
「はい」
「それでいい」
「はい」
榊原さんと車に乗る。神社が少しずつ遠ざかる。
俺は振り返った。
鳥居の前に、爺さんが立っている。箒を肩に担いでいる。
その姿は、神さまか妖怪か人間か、やはりよく分からない。
でも、掃除するやつであることは分かる。
それで十分だった。
車の中で、榊原さんが言った。
「継続になりました」
「はい」
「嬉しいです」
「はい」
「怖くもあります」
「はい」
「でも、今は、嬉しいの方が少し大きいです」
「記録します」
「はい」
「私も」
榊原さんは、少しだけ間を置いた。
「嬉しいです」
俺は、彼女を見た。
「感想ですか」
「感想です」
「危険では」
「場合によります」
「便利ですね」
「便利です」
俺は笑った。
その夜、宿に戻って、ノートを開いた。
最終評価ではない。だが、試行期間の評価は通った。
書くことは多い。でも、短く。
条件付きで継続。
嬉しかった。
怖かった。
掃除する神さま、は外では使わない。
今は掃除見習い。
名前は後から追いつく。
箱は今日も箱だった。
午後に五分だけ掃いた。止まれた。
榊原さんも嬉しいと言った。
明日も掃く。
以上。
ノートを閉じた。
赤い鶴は、まだ歪んで立っている。
俺は、今日は少しだけそれを直した。ほんの少し。完全には直さない。
歪んだままでも、立っている。それでいい。
翌朝。
俺は、また神社へ向かった。
評価の翌日だからといって、特別なことはなかった。
鳥居がある。参道がある。落ち葉がある。爺さんがいる。箒がある。
「おう、掃除見習い」
「おはようございます」
「昨日のこと、引きずってるか」
「少し」
「なら掃け」
「はい」
箒を受け取る。落ち葉を掃く。
奥から手前。人が通る場所を先に。力を入れすぎない。全部を完璧にしない。通れるくらいに整える。
朝の光が、参道に落ちる。
箱は社の裏にある。教会は遠くにある。田村家も、宿も、まだある。
戸籍はまだない。紙はまだ追いついていない。
でも、俺は今、ここで掃いている。
外来の神にも、朝の掃除があります。
そう言うと、少し大げさかもしれない。だが、今の俺には、それくらいがちょうどいい。
神の子、家なき子。
伊佐留神候補。
掃除見習い。
掃除する神さま、という危ない言葉は、まだ外へは出さない。
ただ、ここに置いておく。
社の裏の箱のように。少し歪んだ赤い鶴のように。叶わなかった願いのように。職務だけではない関係のように。
詳しいことは答えない。
今は掃除中です。
そして、明日もたぶん、葉っぱは落ちる。
神という重すぎる立場の青年が、何も壊さず座れる椅子を探す物語はこれでおしまい。




