エピローグ
夕方の社務所には、俺と榊原さんだけが残っていた。
爺さんは帰った。田村さんも、奥さんに呼ばれて帰った。
箱は社の裏にある。御神体ではない。今日も箱だった。
榊原さんは、書類を閉じた。
「今日はここまでです」
「はい」
「明日も掃除です」
「はい」
「水を」
「ワインにしません」
いつもの確認だった。
俺は頷いた。
それから、湯呑みに水を少し注いだ。
榊原さんの目が細くなる。
「ナザレさん」
「はい」
「だめです」
「はい」
「分かっていて、やっていますね」
「はい」
「許可しません」
「はい」
「なら、やめてください」
「それはできません」
榊原さんは黙った。
「なぜですか」
「俺が、渡したいからです」
「理由になっていません」
「はい」
湯呑みの水が、静かに色を変えた。
夕方の光を少し閉じ込めたような、淡い葡萄の色だった。
榊原さんは、それを見つめていた。
「受け取りません」
「はい」
「受け取るべきではありません」
「はい」
「でも」
榊原さんは、湯呑みを受け取った。
「飲み物は、飲むものです」
「はい」
彼女は少しだけ飲んだ。
「おいしいです」
「よかった」
「腹が立つくらいに」
「すみません」
「怒っています」
「はい」
「でも、ありがとうございます」
榊原さんは、残りを飲み干した。
飲み物は飲む。残して、記念品にしない。
湯呑みはすぐに洗った。水で洗った。水は水のままだった。
「これで終わりです」
「はい」
「明日から、また掃除です」
「はい」
社務所の外は、もう薄暗かった。
俺たちは何も記録しなかった。
明日から、また掃除をする。
水は水のままにする。
ただ一杯だけは、許されたようだ。
ここまでお疲れ様でした。長い話にお付き合いくださりありがとうございます。




