第45話 外にいるから、言えること
戸籍の話をしてから、俺は少しだけ書類を見る目が変わった。
嫌いではなくなった。好きとも違う。
だが、怖いだけではなくなった。
紙は、俺を閉じ込めるものではない。少なくとも、榊原さんの紙はそうではない。
俺を生活に入る大きさに畳むもの。他人が俺を乱暴に扱わないためのもの。飯を食い、寝て、掃除する俺に、あとから追いついてくるもの。
そう思うと、書類も少し人間に近い気がした。
いや、書類は人間ではない。榊原さんに言うと訂正される。
その朝、神社へ向かう車の中で、榊原さんが言った。
「今日は、山辺先生と神父様が来ます」
「二人で?」
「はい」
「神学と教会ですね」
「はい」
「胃は大丈夫でしょうか」
「おそらく大丈夫ではありません」
「それでも来る」
「必要なので」
また必要。強い言葉だ。
「何のために」
「伊佐留神の仮設置について、教会側と神学側の最低限の整理を確認します」
「正式に認めるんですか」
「そこまでは行きません」
「では」
「否定しすぎず、肯定しすぎないための確認です」
「かなり難しいですね」
「非常に」
神社へ着くと、爺さんはいつも通り掃除していた。
俺も箒を受け取り、参道を掃いた。
今日は来客がある。神父様と山辺先生。
俺は少し緊張していた。
山辺先生は、きっと胃に優しいうどんを食べたくなるだろう。神父様は、たぶん祈りたくなる。
だが、ここでは祈祷会はしない。ミサもしない。告解もしない。お茶代も、今日はどうなるか分からない。
「外来種」
爺さんが言った。
「はい」
「今日は掃除を丁寧にしすぎるな」
「なぜ」
「客が来るからって張り切ると、場所がよそ行きになる」
「よそ行き」
「そうだ」
「よそ行きはだめですか」
「少しならいい。やりすぎると、いつもの場所じゃなくなる」
「はい」
「ここは、いつもの神社として迎える」
「はい」
「事件にするな」
「はい」
教皇様の時と同じだ。
事件にしない。場所のままにする。そのために、掃除も普段通り。
かなり難しい。俺は力を抜いた。
午前の終わり頃、神父様と山辺先生が来た。
神父様は黒い服。山辺先生は、少し顔色が悪い。やはり胃が痛そうだった。
「お久しぶりです」
俺が言うと、山辺先生は小さく頭を下げた。
「お元気そうで、少し安心しました」
「少し」
「完全に安心できる状況ではないので」
「そうですね」
神父様は、鳥居の前で頭を下げた。前より少し慣れている。
榊原さんが確認する。
「写真、録音、投稿は」
「しません」
「宗教行為は」
「行いません」
「金銭は」
「本日は持参しておりません」
神父様は、少しだけ笑った。
「お茶代で困らせないように」
「ありがとうございます」
榊原さんは真面目に頷いた。
山辺先生が、そこで少しだけ疲れた顔をした。
「教皇様までお茶代で止められる時代なんですね」
「必要です」
榊原さんが言った。
「はい。必要だと思います」
山辺先生は、もう諦めたように頷いた。
社務所で茶を出した。今日は爺さんが少しまともな湯呑みを使った。
「客だからな」
「俺たちはもう客ではないんですね」
俺が言う。
「見習いだろ」
「はい」
神父様が少し笑った。
「掃除見習い、なのですね」
「はい」
「とても良いと思います」
「評価ですか」
「評価です」
神父様まで評価を使うようになった。
榊原さんが少しだけ困った顔をした。
社務所の机に、資料が並ぶ。
榊原さんの由緒案。来訪者対応方針。教会関係者の訪問条件。山辺先生の神学的注意メモ。神父様の教会側非公式見解。
かなり硬い。
茶と書類。もう見慣れた光景になりつつある。
山辺先生が、まず口を開いた。
「率直に言うと、これは神学的にはかなり危険です」
「はい」
榊原さんが答える。
「ただし、危険であることを前提に、危険を限定する設計になっている」
「はい」
「伊佐留神を、イエス・キリストの再定義とはしない」
「はい」
「キリスト教の神格として認めるわけでもない」
「はい」
「しかし、完全な無関係とも言い切らない」
「はい」
「その曖昧さが危険であり、同時に保護にもなっている」
山辺先生は、そこで胃のあたりに手を置いた。
「胃が痛いです」
「すみません」
俺が言うと、山辺先生は首を振った。
「あなたが謝る話ではありません」
「でも」
「むしろ、あなたを教会の内側だけで処理しようとする方が、もっと危険だったと思います」
神父様が静かに頷いた。
「教会は、あなたを愛していると言うでしょう」
神父様は俺を見た。
「ですが、その愛は、あなたを重くしすぎるかもしれません」
俺は何も言えなかった。
愛が重い。それは、かなり痛い言葉だった。
「教会の中にいると」
神父様は続けた。
「あなたは、主になります。救い主になります。キリストになります。誰も、あなたを掃除見習いとは呼べません」
「はい」
「でも、あなたには今、その呼ばれ方が必要なのだと思います」
「はい」
「それを、教会の外にいるから言える」
外にいるから、言えること。
その言葉が、胸に残った。
俺は教会に入れなかった。入らなかった。
それは逃げのようにも思えた。
だが、外にいることで言えることもある。外にいることで守れる距離がある。
教会の内側に戻れば、俺はすぐに大きくなりすぎる。
外にいるから、ナザレさんでいられる。掃除見習いでいられる。伊佐留神候補でいられる。
「神父様」
「はい」
「教会の外にいる俺を、教会はどう扱えばいいんでしょう」
神父様は、すぐには答えなかった。山辺先生も黙った。
榊原さんは、ペンを持ったままこちらを見ている。爺さんは茶を飲んでいる。
「今は」
神父様は言った。
「急いで扱わないことだと思います」
「扱わない」
「はい。定義しない。回収しない。宣言しない。奇跡として利用しない。教義の勝利にしない」
「はい」
「あなたが外にいるという事実を、痛みとして受け取る」
「痛み」
「はい。教会があなたを抱えきれないことの痛みです」
山辺先生が、静かに言った。
「そして、外にいるあなたから見えるものを、必要な時に聞く」
「俺から?」
「はい」
「俺は、教会に言えることがありますか」
「あります」
山辺先生は、はっきり言った。
「内側にいる人間には、言いにくいことがあります。信仰が組織を守る言葉になりすぎる時。愛が所有になる時。正統性が人を潰す時。救いが回答義務になる時」
「はい」
「あなたは外にいるから、それを見られる」
かなり重い。でも、少し分かる。
俺は教会を否定したいわけではない。むしろ、教会にいる人たちの祈りを乱暴に扱いたくない。
でも、教会の内側に戻ると、俺はその祈りに押し潰される。
外にいるから、祈りを見ることができる。
「外から批判するんですか」
俺が聞くと、山辺先生は首を振った。
「批判だけではありません」
「では」
「距離を置いた証言です」
「証言」
「はい。ただし、福音書のようなものではありません」
榊原さんがすぐに言った。
「文書化する場合、公開範囲は極めて慎重に管理する必要があります」
「また書類ですね」
「必要です」
爺さんが笑った。
「こいつの言葉、すぐ大きくなるからな」
「はい」
山辺先生も神父様も同時に頷いた。
俺は少し困った。
「そんなに危ないですか」
「危ないです」
四人の声が重なった。
爺さん、榊原さん、山辺先生、神父様。かなり強い合唱だった。
「分かりました」
俺は小さく言った。
「言葉も掃除みたいに、力を入れすぎないようにします」
爺さんが頷いた。
「それでいい」
榊原さんが記録した。
「重要です」
神父様は、少し笑った。
「あなたが掃除で神学を学んでいる」
「神学ですか」
「いえ」
山辺先生がすぐに言った。
「今日は掃除の話です」
社務所が少しだけ笑いに包まれた。
山辺先生まで使い始めた。かなり浸透している。
午後、山辺先生と神父様は、社の裏の箱を見た。
もちろん、開けない。榊原さんがそう決めた。
箱の前に立ち、少し離れて見るだけ。
神父様は頭を下げた。山辺先生は、しばらく箱を見ていた。
「これは、神学的には変です」
「はい」
俺は答えた。
「でも、構造的にはかなり誠実です」
「誠実」
「はい。あなたを祀るのではなく、あなたを祀りすぎないための約束を置いている」
「はい」
「信仰というより、制御です」
「はい」
「でも、信仰には制御が必要です」
山辺先生は、胃のあたりを押さえた。
「それを教会の外で見せられるのは、かなり胃に悪い」
「すみません」
「でも、必要です」
また必要。本当に強い言葉だ。
神父様は、箱の前で何も祈らなかった。ただ、静かに立っていた。
それから言った。
「教会の中にも、この箱のようなものが必要なのかもしれません」
「書類箱ですか」
俺が聞く。
「比喩として」
「はい」
「人が神を扱いすぎないための箱。願いを神に押し付けすぎないための箱。祈りを勝利に変えすぎないための箱」
榊原さんがメモを取った。
「重要です」
爺さんが言った。
「教会にも箱を置くか」
「本当に置くと大変です」
山辺先生が即答した。
「比喩にしておきましょう」
「詳しいことは答えません、でいいだろ」
「それも教会では大変です」
「大変ばかりだな」
「はい」
神父様は少し笑った。
「でも、学べると思います」
その後、社務所で少しだけ話を続けた。
教会側からの来訪者は、今後も厳しく制限する。神父様が窓口になる。教皇様の直接訪問は、当面不可。
山辺先生は、由緒の文面が神学的に踏み込みすぎないか確認する。榊原さんは、法務と生活支援の線を引く。爺さんは、詳しいことは答えない。俺は掃除中。
かなり良い分担だった。
帰り際、神父様が俺に言った。
「ナザレさん」
「はい」
「あなたが外にいることを、教会は痛みとして受け取るべきだと思います」
「はい」
「でも、あなたが外にいることを、拒絶とは受け取らないようにします」
俺は、少しだけ胸が熱くなった。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
山辺先生も言った。
「外から見えることを、いつか教えてください」
「俺の言葉は危ないんですよね」
「危ないです」
「では」
「だから、少しずつ。書類にして。榊原さんに止められながら」
「それなら可能かもしれません」
「はい」
榊原さんが頷いた。
「私が確認します」
「強いですね」
「必要です」
神父様と山辺先生が帰ったあと、神社はまた静かになった。
来客が帰ると、場所は少し疲れる。
爺さんが言った。
「今日はもう祈るな」
「はい」
「箱も疲れた」
「はい」
「お前も疲れた」
「はい」
「法務さんも疲れた」
「はい」
「茶飲んで帰れ」
「はい」
社務所で茶を飲む。
榊原さんは珍しく、少し黙っていた。
「疲れましたか」
俺が聞くと、彼女は頷いた。
「はい」
「重かったですね」
「はい」
「でも、必要でした」
「はい」
「今日は、必要ばかりでした」
「そうですね」
俺は湯呑みを見た。茶は少し冷めていた。
「榊原さん」
「はい」
「外にいることは、逃げではないんですね」
「はい」
「拒絶でもない」
「はい」
「距離」
「はい」
「距離があるから、言えることがある」
「はい」
「でも、言いすぎない」
「はい」
「掃除中なので」
「はい」
榊原さんは、少しだけ笑った。
「かなり整理できています」
「評価ですか」
「評価です」
「嬉しいです」
帰りの車で、田村さんからメッセージが来た。
今日は来ていなかったのに、また早い。
榊原さんが読む。
「『胃薬足りたか』」
「山辺先生のことですね」
「はい」
続きが来た。
「『教会にも箱いるな』」
俺は少し笑った。
「同じことを」
「田村さんの情報網は危険です」
榊原さんは返信しなかった。
さらに来た。
「『ナザレは外にいるから見えるものを見とけ。ただし飯は食え』」
俺は黙った。
田村さんは、時々かなり良いことを言う。そのあと、必ず飯に戻す。かなり強い。
「返事しますか」
「はい」
「何と」
「『見ます。食べます』」
榊原さんは、少し笑って入力した。送信。
すぐに返ってきた。
「『上出来』」
夜、宿でノートを開いた。
今日は長くなりそうだった。でも、短くする。
外にいるから、言えることがある。
教会を拒絶しているわけではない。
外にいることを、痛みとして受け取る。
外から見えるものを、少しずつ言う。
でも、言いすぎない。
俺は掃除中。
教会にも箱が必要かもしれない。
田村さんに、見ます、食べます、と返した。
明日も掃く。
以上。
ノートを閉じる。
赤い鶴は、今日も少し歪んで立っている。
神の子、家なき子。
伊佐留神候補。
掃除見習い。
今日は、教会の外にいる意味を少し知った。
外にいるから、見えるものがある。外にいるから、言えることがある。
ただし、俺はまだ掃除見習いだ。
言葉より先に、明日も葉っぱを掃く。




