第44話 神の子、戸籍はまだありません
試行期間が延びても、俺の身分は相変わらず曖昧だった。
神社では掃除見習い。田村家では飯を食う厄介な客。爺さんからは外来種。榊原さんの書類では、保護対象者。神父様からはナザレさん。教皇様からは、たぶん、もっと重い何か。
だが、行政上は、まだかなり困った存在だった。
戸籍がない。国籍がない。出生記録がない。パスポートもない。在留資格も普通の形では説明できない。
現代では、人として暮らすには、書類がいる。
俺の存在は、そこにかなり弱い。
その日、榊原さんは朝からかなり硬かった。
いつもの法務さんより、さらに法務さんだった。
机の上には、神社関係の書類ではなく、身分関係の資料が並んでいる。
「今日は神社へ行かないんですか」
「午後からです」
「午前中は」
「行政関係の整理です」
「行政」
「はい」
「重いですね」
「非常に」
榊原さんは、紙を一枚こちらに向けた。
そこには、大きくこう書かれていた。
身分・滞在・生活基盤整理案。
「かなり現実ですね」
「はい」
「俺は、神社の箱よりこちらの方が苦手です」
「分かっています」
「でも必要」
「必要です」
榊原さんは、ペンを持った。
「現時点での大きな課題は三つです」
「はい」
「一つ目。あなたの法的身分」
「はい」
「二つ目。日本に滞在する根拠」
「はい」
「三つ目。生活費と労務の扱い」
「はい」
「どれも曖昧なままだと、長期的な生活はできません」
「はい」
かなり地上の話だった。
神として祀るか。祈りがほどけるか。願いを聞きすぎないか。
そういう話とは別に、俺には滞在する根拠がいる。食べる金がいる。働くなら、その扱いを決めなければならない。
人として暮らすには、かなりたくさんの線が必要だった。
「戸籍を作るんですか」
俺が聞くと、榊原さんはすぐには答えなかった。
「簡単ではありません」
「はい」
「あなたは、日本で出生した記録がありません」
「はい」
「親族関係も証明できません」
「はい」
「生年月日も確定できません」
「はい」
「二千年前の出生という主張は、行政手続き上、採用できません」
「そうですね」
「はい」
かなり当然だった。
役所の窓口で、二千年前に生まれましたと言っても、たぶん処理できない。処理できないというより、処理してはいけない。
「では、難民申請ですか」
「候補には入ります」
「俺は難民なんですか」
「一般的な意味では難民とは言い切れません」
「はい」
「ただし、特定の宗教的・社会的事情により、元の共同体に戻ることが著しく困難であり、身の安全や自由な生活が脅かされる可能性がある、という整理は検討できます」
「教会に戻れない」
「はい」
「ローマにも」
「はい」
「田村家にも」
「定住は困難です」
「神社には」
「試行中です」
「試行中、強いですね」
「便利ですが、限界があります」
榊原さんは、別の資料を出した。
「もう一つは、特別在留許可に近い整理ですが、これも通常の手続きとは異なります」
「俺は、どこへ行っても通常ではないですね」
「はい」
「少しは迷ってください」
「事実です」
「はい」
俺は、少し笑った。笑わないと重すぎる。
身分がない。家がない。国もない。教会にも戻れない。
かなり深刻な話なのに、俺は神社で掃除見習いをしている。
現代は難しい。
「榊原さん」
「はい」
「神の子でも、戸籍がないと困りますね」
「困ります」
「かなり」
「非常に」
「奇跡で作るわけには」
「絶対にいけません」
「はい」
即答だった。
「身分証を奇跡で作ると、偽造です」
「はい」
「戸籍を奇跡で発生させると、公文書管理上の大問題です」
「はい」
「関係者全員が困ります」
「はい」
「神の子でも」
「神の子でもです」
かなり強い。
俺は頷いた。
「では、正規の方法で」
「はい」
「時間がかかりますね」
「かかります」
「終わりますか」
「正直に言うと、見通しは不透明です」
榊原さんは、はっきり言った。その正直さがありがたかった。
「ただし、完全に手がないわけではありません」
「はい」
「教会側の協力、医療的確認、本人の継続的生活実態、保護の必要性、支援者の存在、神社での限定的な受け入れ体制」
「はい」
「これらを積み上げていきます」
「積み上げ」
「はい」
「奇跡ではなく」
「書類です」
「強いですね、書類」
「強いです」
榊原さんは、少しだけ疲れた顔をした。
「ただ、時間はかかります」
「はい」
「その間、あなたが焦らないことも重要です」
「はい」
「焦ると、奇跡に逃げる可能性があります」
「ありますか」
「あります」
「はい」
「特に、身分証や戸籍は、存在証明に関わります」
「存在証明」
「はい」
「あなたは、他人に証明してもらうことが苦手です」
「そうかもしれません」
「自分で示したくなる」
「はい」
「そこが危険です」
俺は黙った。
かなり当たっている。
自分がここにいること。自分が誰であること。自分が嘘ではないこと。
それを、誰かに分かってほしくなる。証明したくなる。
奇跡は、その誘惑になる。
でも、奇跡で証明すると、また壊れる。
存在証明を奇跡に頼ると、俺は人として暮らせない。
「俺は、書類で証明される必要があるんですね」
「はい」
「それは少し怖いです」
「なぜですか」
「俺が紙より弱い気がします」
榊原さんは、少しだけ黙った。
「弱いというより」
「はい」
「現代で人として扱うためには、紙が必要です」
「はい」
「紙があなたより偉いわけではありません」
「はい」
「でも、紙がないと、他人があなたを扱えません」
扱う。
またその言葉だ。
神を扱う人間を制限する。祈りを扱う。お茶代を扱う。俺を扱う。
現代では、書類もその一部なのだろう。
「書類は、俺を小さくするんですね」
「はい」
「人間サイズに」
「はい」
「シャツを畳むように」
「かなり詩的ですが、近いです」
「榊原さんの仕事ですね」
「はい」
榊原さんは、少しだけ笑った。
「あなたを、生活に入る大きさに畳む」
「はい」
「ただし、小さくしすぎない」
「はい」
「消さない」
「はい」
「重くしすぎない」
「はい」
俺は頷いた。
「俺は、書類も少し好きになったかもしれません」
「それは良かったです」
「ただし、戸籍はまだありません」
「はい」
「神の子、戸籍はまだありません」
「外では絶対に言わないでください」
「はい」
午前中は、ずっとその話だった。途中で少し疲れた。
榊原さんはそれに気づいた。
「休憩します」
「はい」
「お茶にしましょう」
「お茶代は」
「ホテルの部屋なので不要です」
「はい」
電気ケトルで湯を沸かす。
水が湯になる。ワインにはならない。湯気が立つ。
茶を淹れる。榊原さんは、いつもよりゆっくり飲んだ。
「榊原さん」
「はい」
「この話は、榊原さんも疲れますか」
「疲れます」
「はい」
「あなたの身分を整えることは、非常に難しいです」
「はい」
「失敗したら、あなたの生活が不安定になります」
「はい」
「だから、疲れます」
彼女は、少しだけ視線を落とした。
「ただし、必要です」
「いつもの言葉ですね」
「はい」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
午後、神社へ向かった。
今日は掃除ではなく、短時間の確認だけだった。
午前中にかなり重い話をしたので、作業は控えるらしい。
爺さんは、俺を見てすぐに言った。
「顔が書類だな」
「顔が書類」
「硬い」
「午前中、身分の話をしていました」
「ああ」
爺さんは頷いた。
「戸籍か」
「はい」
「まだねえのか」
「ありません」
「神の子、戸籍なし」
「外では言わないように言われています」
「そりゃそうだ」
爺さんは笑ったが、すぐに真面目な顔になった。
「でも、いるんだろ。そういうの」
「はい」
榊原さんが答えた。
「長期的な生活には必要です」
「だろうな」
「神社側としても、責任範囲を明確にする必要があります」
「はい」
「住み込みや作業継続の可能性が出るなら、なおさらです」
「だろうな」
爺さんは、社の方を見た。
「神さまは曖昧でもいいが、人間の飯と寝床は曖昧じゃ困る」
かなり分かりやすい。
「神さまは曖昧でもいい」
俺は繰り返した。
「人間の飯と寝床は曖昧じゃ困る」
「そうだ」
「戸籍も」
「いるんだろ」
「はい」
「じゃあ、作れ。法務さんが」
「簡単に言わないでください」
榊原さんが言った。
「難しいのはそっちの仕事だろ」
「そうですが」
「じゃあ、やれ」
「やります」
榊原さんは、はっきり答えた。その声は、少し強かった。
俺はそれを聞いて、少し安心した。
戸籍はまだない。身分もまだ曖昧。でも、やりますと言ってくれる人がいる。
それは大きい。
「外来種」
爺さんが俺を呼んだ。
「はい」
「今日は掃くな」
「なぜ」
「顔が書類だからだ」
「はい」
「書類の顔で掃くと、葉っぱまで硬くなる」
「それは」
「掃除の話だ」
「はい」
今日は掃除しない。代わりに、社務所で茶を飲むことになった。
田村さんも遅れて来た。爺さんが、午前中の話を雑に説明した。
「こいつ、戸籍がまだない」
「知ってる」
田村さんが言った。
「知ってるんですか」
「そりゃそうだろ」
「神の子、戸籍なし」
「外では言わないでください」
榊原さんが言った。
「言わねえよ」
「田村さんは少し信用が」
「低い?」
「はい」
「正直だな」
田村さんは笑った。だが、すぐに真面目な顔になった。
「でも、身分はいるよな」
「はい」
「病院行くにも、働くにも、住むにも、困るだろ」
「はい」
「神さま部分は箱に置いて、人間部分は書類に置くしかねえな」
かなり雑だが、また分かりやすい。
神さま部分は箱に置く。人間部分は書類に置く。
「田村さん」
「何だ」
「かなり整理がうまいですね」
「雑なだけだ」
「雑は強い時があります」
「そうだろ」
榊原さんも、少しだけ頷いた。
「構造としては有効です」
「法務さんにも褒められたぞ」
「評価です」
「それでいい」
その日の社務所は、かなり現実的な話になった。
生活費。作業時間。保険。医療。緊急連絡先。滞在場所。支援者。神社の責任範囲。田村家の関与範囲。榊原さんの役割。爺さんの役割。教会側の連絡先。山辺先生の相談範囲。奥さんが持ってくるおむすびの扱い。
「おむすびにも扱いがいるんですか」
俺が聞くと、榊原さんは真面目に答えた。
「継続的な食事提供になる場合は、生活支援の一部として把握します」
「奥さんの愛情では」
「それもあります」
「それも」
「はい。ただし、記録上は生活支援です」
「愛情と生活支援」
「混ぜると壊れます」
「本当に何でも混ぜると壊れますね」
「はい」
田村さんが笑った。
「うちの奥さんのおむすびまで書類にされるぞ」
「必要な範囲です」
「奥さんに言ったら笑うな」
「怒られる可能性もあります」
「あるな」
夕方前、俺たちは社の裏の箱を見に行った。
今日は開けない。点検もなし。ただ、少し離れて見るだけ。
箱の中には、神としての扱い方を書いた書類がある。
でも、人間としての俺の書類は、まだ整っていない。
そのことが、今日は少し胸に残った。
「爺さん」
「何だ」
「神さま部分は、少し置けました」
「仮にな」
「はい」
「でも、人間部分はまだ置けていない」
「そうだな」
「人間の俺は、どこに置けばいいんでしょう」
爺さんは、すぐには答えなかった。田村さんも黙った。榊原さんも黙った。
少し風が吹いた。
「飯食う場所と、寝る場所と、掃除する場所だろ」
爺さんが言った。
「まずはそれでいい」
「戸籍ではなく」
「戸籍もいる」
「はい」
「でも、紙ができるまで、お前が浮いてるわけじゃねえ」
「はい」
「飯を食った場所に少し置かれる。寝た場所に少し置かれる。掃除した場所に少し置かれる」
「はい」
「紙は後から追いつかせろ」
榊原さんが静かに言った。
「良い整理です」
「評価か」
「評価です」
「よし」
俺は、少しだけ楽になった。
戸籍はまだない。でも、完全にどこにもいないわけではない。
田村家で飯を食った。宿で寝た。神社で掃除した。ノートを書いた。
その事実はある。紙は後から追いつく。
そう考えると、少し呼吸が楽だった。
帰りの車で、榊原さんが言った。
「今日の話は、かなり重要です」
「戸籍ですか」
「はい」
「正直、少し怖かったです」
「はい」
「俺が、書類上どこにもいない感じがして」
「はい」
「でも、爺さんの言葉で少し楽になりました」
「飯を食った場所、寝た場所、掃除した場所」
「はい」
「記録します」
「はい」
「ただし、法的整備は別途必要です」
「はい」
「紙は後から追いつかせます」
「お願いします」
宿に戻り、俺はノートを開いた。
今日は、かなり書くことが多かった。でも、短くする。
神の子、戸籍はまだない。
奇跡で作ると偽造。
神さま部分は箱に置く。
人間部分は書類に置く。
でも、紙ができるまで、どこにもいないわけではない。
飯を食った場所。
寝た場所。
掃除した場所。
紙は後から追いつく。
明日も掃く。
以上。
ノートを閉じた。
赤い鶴は、少し傾いていた。俺は直さず、そのままにした。
少し傾いていても、立っているならいい。
神の子、家なき子。
伊佐留神候補。
掃除見習い。
戸籍はまだない。
だが、今日も飯を食い、茶を飲み、神社に行った。
紙は、いつか追いつく。
その日まで、俺は掃除をする。




