第43話 願いは叶わず、祈りは残る
箱を置いた翌日、俺は少し緊張していた。
正式ではない。御神体ではない。鎮座でもない。書類箱の仮設置。
榊原さんは何度もそう言った。俺も、ノートにそう書いた。
だが、箱は置かれた。
社の裏の小さな空き地に、木の箱がある。中には、奉納前整理書の控えが入っている。
俺を神にしすぎないための書類。俺を人にしすぎないための書類。願いを聞きすぎないための書類。お茶代をお茶代にするための書類。水をワインにしないための書類。
御神体ではない。だが、かなり大事な箱だった。
神社へ着くと、爺さんはいつも通り参道を掃いていた。
「おう、箱の翌日」
「おはようございます」
「落ち着いてるか」
「少し緊張しています」
「だろうな」
「箱が気になります」
「だろうな」
「見に行ってもいいですか」
「掃除が先だ」
「はい」
かなり正しい。
箱が気になる。祈りが気になる。伊佐留神が気になる。
でも、掃除が先。
俺は箒を受け取った。参道を掃く。
昨日と同じ落ち葉。昨日と同じ石段。昨日と同じ朝の空気。
箱が置かれても、落ち葉は落ちる。だから掃く。
少しだけ安心した。
榊原さんは、いつもより俺をよく見ていた。
「ナザレさん」
「はい」
「箱の方を見すぎです」
「すみません」
「気になること自体は自然です」
「はい」
「ただし、作業中は作業に集中してください」
「はい」
「箱は逃げません」
「確かに」
箱は逃げない。それはかなり良い。
教会の問いは逃げる。噂は逃げる。人の願いも、気を抜くとどこかへ行く。
だが、箱は逃げない。なら、掃除を先にできる。
午前の掃除が終わってから、俺たちは社の裏へ行った。
箱は、昨日と同じ場所にあった。小さく、静かに。雨も降っていない。扉も閉まっている。
何も変わっていない。なのに、俺は少し息を吐いた。
「ありました」
「あるだろ」
爺さんが言った。
「少し安心しました」
「なくなってたら困る」
「はい」
榊原さんが箱の状態を確認した。
湿気。傾き。扉。中の防湿袋。問題なし。
「開けるんですか」
俺が聞く。
「確認のためです」
「俺は」
「少し離れていてください」
「はい」
俺は少し離れた。
榊原さんが箱を開ける。爺さんが隣で見る。中の書類を確認する。すぐに閉じる。
それだけ。儀式ではない。点検。
かなり現代的な神事、いや、神事ではない。点検だった。
「問題ありません」
榊原さんが言った。
「評価ですか」
「点検結果です」
「そうでした」
その日、最初の来訪者は昼前に来た。
若い男性だった。見た目は普通の参拝者に見える。スマホは手に持っていない。写真を撮る様子もない。
ただ、社の前で長く手を合わせていた。かなり長い。
爺さんが少し見ている。榊原さんも気づいている。
俺は箒を持ったまま、離れていた。
やがて男性は社務所へ来た。
「ここは、祈りを置く場所だと聞きました」
男性は言った。
爺さんが答える。
「そう言ってる」
「願いを叶える場所ではないんですよね」
「そうだ」
「それでも、置いていっていいんですか」
「置くだけならな」
男性は少し黙った。
「願いが叶わなかったんです」
その言葉で、俺の手が少し止まった。
まただ。叶わなかった願い。
ここには、叶った願いより、叶わなかった願いが来るのかもしれない。
それは、この場所に合っているのだろうか。それとも、危険なのだろうか。
榊原さんが小さく俺を見た。俺は頷いた。動かない。俺は掃除中。
「何を願ってた」
爺さんが聞いた。
男性は少し迷った。
「兄と仲直りしたかったんです」
病気ではなかった。死でもなかった。だが、軽くはなかった。
「喧嘩か」
「はい」
「会えたのか」
「会えませんでした」
「そうか」
「兄が、亡くなりました」
空気が少し止まった。俺は箒を握った。
男性は続けた。
「仲直りしたかったんです。でも、できませんでした」
「はい」
「謝りたかった。でも、意地を張っていたら、間に合いませんでした」
爺さんは、黙って聞いていた。榊原さんも黙っていた。俺も黙っていた。
「だから、もう叶わないんです」
男性は言った。
「でも、まだ毎日、謝りたいと思うんです」
願いは叶わなかった。でも、祈りは残る。
それが、目の前に立っていた。
「それは、ここに置けますか」
男性が聞いた。
爺さんは、少し考えてから言った。
「置ける」
「本当ですか」
「ただし、兄貴の返事はここでは出ない」
「はい」
「赦されたかどうかも、ここでは決めない」
「はい」
「お前が悪かったかどうかも、ここでは裁かない」
「はい」
「でも、謝りたいって気持ちが重いなら、少し置いてけ」
男性は、目を伏せた。
「はい」
「箱の方へ行くか」
「いいんですか」
「騒がず、撮らず、短くならな」
「はい」
爺さんが案内しようとした。榊原さんが確認する。
「事前申請はありませんが、通常参拝の範囲として、短時間の案内であれば可能です」
「法務さんの許可が出たぞ」
爺さんが言った。
「許可というより、条件付き対応です」
「出たぞ」
「はい」
男性は少しだけ笑った。
その笑いは、疲れていたが、少しだけ力が抜けていた。
俺はついていかない。そう決めた。
だが、爺さんが俺を見た。
「外来種」
「はい」
「少し離れて来い」
「いいんですか」
「今日は見て学べ」
榊原さんが少し考えた。
「直接対応しない範囲であれば可です」
「はい」
俺は少し離れてついていった。
箱の前に、男性が立つ。
小さな箱。御神体ではない。でも、祈りを置く場所の候補。
男性は手を合わせなかった。
ただ、箱の前に立った。そして、小さく頭を下げた。
声は聞こえない。何かを言ったのかもしれない。言わなかったのかもしれない。
しばらくして、男性は顔を上げた。
泣いてはいなかった。ただ、少し疲れた顔をしていた。
「何か変わるわけじゃないですね」
男性が言った。
爺さんが答えた。
「変わらんこともある」
「はい」
「でも、今ここに置いたことは、なくならん」
「はい」
「持って帰る分が少し減ったなら、それでいい」
男性は、ゆっくり頷いた。
「少し、減った気がします」
「なら、茶を飲んで帰れ」
「お茶代は」
男性が聞く。
榊原さんが言った。
「本日は不要です」
「いいんですか」
「通常参拝の範囲です」
「そうですか」
お茶代が発生しないこともある。それも大事らしい。
社務所で、爺さんが茶を出した。
男性は静かに飲んだ。俺は少し離れて座っていた。直接話しかけない。
しかし、男性が俺を見た。
「あなたは」
来た。榊原さんが少し動いた。
男性は、すぐに言い直した。
「すみません。詳しいことは聞きません」
「はい」
俺は答えた。
「私は掃除中です」
男性は少し笑った。
「そう聞いています」
「はい」
「掃除、頑張ってください」
「ありがとうございます」
それで終わった。かなり良かった。
彼は俺に救いを求めなかった。俺も救いを返さなかった。
ただ、掃除を頑張ってくださいと言われた。
それは、かなり人間らしいやり取りだった。
男性が帰ったあと、社務所は少し静かだった。
爺さんが茶を飲む。榊原さんが記録を取る。俺は箒を見ている。
「願いは叶わず、祈りは残る」
俺は言った。
榊原さんの手が止まった。爺さんもこちらを見る。
「今の方を見て、そう思いました」
「はい」
榊原さんが言った。
「かなり重要です」
「記録しますか」
「します」
「俺も、ノートに書きます」
「よいと思います」
願いは叶わず、祈りは残る。
願いが叶ったら、祈りは消えるのだろうか。分からない。
でも、叶わなかった願いは、祈りとして残ることがある。
謝りたかった。会いたかった。治ってほしかった。戻ってほしかった。
それは、もう叶わない。でも、祈りだけが残る。
その残った祈りを、人はどうすればいいのか。
捨てられない。叶えられない。説明しても救われない。
だから、置く。少しだけ。
「爺さん」
「何だ」
「この場所は、叶わなかった願いが来る場所になってしまいませんか」
「なるかもな」
「重すぎませんか」
「重い」
「では」
「だから全部受けるな」
「はい」
「ここに置ける分だけ置く」
「はい」
「置けないものは、専門家に回す」
「専門家」
「医者、弁護士、役所、坊主、神父、家族、友達」
「はい」
「神社だけで抱えるな」
榊原さんが頷いた。
「非常に重要です」
「また書類か」
「はい」
「書いとけ」
「書きます」
ここは、祈りを置く場所。だが、すべての祈りを引き受ける場所ではない。
それも決めなければならない。受けすぎると壊れる。
願いを聞きすぎるな。爺さんの言葉が、また戻ってくる。
「俺も、聞きすぎない」
「そうだ」
「神社も、受けすぎない」
「そうだ」
「榊原さんも、一人で処理しすぎない」
「はい」
榊原さんが答えた。
「田村さんも、試しすぎない」
「それは本人に言え」
「はい」
少しだけ笑いが出た。
重い話のあとに、少し笑える。それは、かなりありがたい。
午後、田村さんが来た。
爺さんが、さっきの件をかなり短く説明した。
田村さんは黙って聞いていた。茶化さなかった。珍しい。
「そういうの、来るよな」
田村さんは言った。
「はい」
「叶わなかったやつは、行き場がないもんな」
「はい」
「でも、お前が全部聞くなよ」
「聞きません」
「法務さんも」
「はい」
「爺さんも」
「俺は聞きすぎねえ」
「一番怪しいだろ」
「失礼だな」
田村さんは社の裏の箱を見に行った。
少し離れて立ち、腕を組んだ。
「箱にしておいてよかったな」
「なぜですか」
俺が聞く。
「箱なら、置ける感じがする」
「はい」
「像だと拝む感じが強い」
「はい」
「石だと神さま感が強すぎる」
「はい」
「書類箱なら、まあ、置く感じだ」
かなり雑だが、分かりやすい。
榊原さんも少し頷いた。
「その感覚は重要かもしれません」
「評価か」
田村さんが聞く。
「評価です」
「やったな」
田村さんは少し嬉しそうだった。
その日の作業は、箱の周りの動線を少し整えるだけにした。
田村さんが小さな石を動かし、爺さんが位置を決め、俺が落ち葉を掃き、榊原さんが記録を取る。
箱に続く道を、はっきり作りすぎない。でも、迷わない程度にする。
難しい。
爺さんが言う。
「道を作りすぎると、みんな行く」
「はい」
「分かりにくすぎると、危ない」
「はい」
「ほどほどだ」
「ほどほどは難しいです」
「だから見習いなんだろ」
「はい」
夕方、神社を出る前に、俺は箱の前に立った。
今日は手を合わせたくなった。
だが、爺さんが言った。
「今日はやめとけ」
「なぜ」
「もう一人置いていった」
「はい」
「お前がすぐ上から重ねるな」
「はい」
俺は手を下ろしたまま、少し離れた。
その方がいいのだろう。
祈りが置かれたばかりの場所に、俺がさらに祈る。
それは、もしかすると上書きになる。
今日は、置かれた祈りをそのままにする。
何もしない。掃除もしない。手も合わせない。
ただ、離れる。
「何もしないことが増えますね」
俺が言うと、榊原さんが答えた。
「はい」
「でも、それが必要な時がある」
「はい」
「今日も評価は」
「良好です」
「何もしなかったのに」
「何もしなかったからです」
俺は少し笑った。
「かなり難しい評価です」
「必要な評価です」
帰りの車で、俺はずっと考えていた。
願いは叶わず、祈りは残る。
残った祈りは、誰のものなのか。
置いた人のものか。受け取った場所のものか。神のものか。
分からない。分からないまま、置いておく。
そのための箱。そのための掃除。そのためのお茶。そのための書類。
宿に戻って、ノートを開く。今日は少しだけ長く書いた。
願いは叶わず、祈りは残る。
兄に謝りたかった人が来た。
俺は答えなかった。
掃除を頑張ってくださいと言われた。
箱は、像より置きやすいらしい。
今日は箱の前で祈らなかった。
明日も掃く。
以上。
ノートを閉じた。
赤い鶴は、まだ立っている。
神の子、家なき子。
伊佐留神候補。
掃除見習い。
今日は、叶わなかった願いをもう一つ見た。
俺は何も叶えなかった。何も説明しなかった。
ただ、祈りが残る場所の近くで、箒を持っていた。




