第42話 伊佐留神、仮鎮座
伊佐留神の話は、少しずつ形になっていた。
まだ正式ではない。まだ試行中。まだ候補。
榊原さんは、そこを何度も確認する。
「仮です」
「はい」
「試行です」
「はい」
「正式鎮座ではありません」
「はい」
「宗教法人上の正式な祭神追加でもありません」
「はい」
「地元合意も、まだ限定的です」
「はい」
「教会側との整理も、完全ではありません」
「はい」
「あなたの法的身分も、未解決です」
「はい」
毎朝のように確認される。
だが、それでも話は進んでいた。
爺さんは、社の裏の空き地を少し整え始めた。田村さんは、小さな祠の試作品を作ると言い始めた。奥さんは、あまり派手にするなと言った。神父様は、教会側の見学希望者を止めているらしい。教皇様は来ない。
山辺先生は、由緒案を読んで胃を痛めながら、神学的に危険だが、危険であることを自覚している分だけ危険を下げている、というかなりややこしい感想を送ってきた。
榊原さんは、それを見て言った。
「山辺先生らしいです」
「胃は大丈夫でしょうか」
「大丈夫ではないと思います」
「申し訳ないですね」
「ただ、先生は必要な役割を果たしています」
「はい」
その日の朝、神社に着くと、社の裏に小さな木材が並んでいた。
田村さんの軽トラックもある。爺さんは腕を組んで立っている。田村さんは、木材を前にしゃがんでいた。
「おう、掃除見習い」
「おはようございます」
「今日は祠の仮組みだ」
「祠」
俺は少し緊張した。榊原さんがすぐに言う。
「正式設置ではありません」
「はい」
「試作品の仮置きです」
「はい」
「祠といっても、現時点では収納箱に近いものです」
「収納箱」
「はい」
「御神体ではなく書類を入れるからですか」
「御神体ではありません」
「はい」
田村さんが笑った。
「法務さん、反応が速いな」
「必要です」
「でも、今回は本当に書類の箱だぞ」
「だからこそ、言葉に注意が必要です」
爺さんが木材を見た。
「でかすぎるな」
「そうか?」
田村さんが言う。
「でかい」
「小さくすると見えにくいだろ」
「見えにくいくらいでいい」
「祠なのに?」
「仮だ」
榊原さんが頷いた。
「爺さんの意見に同意します」
「法務さんが爺さん側に」
俺が言うと、榊原さんは少しだけ眉を寄せた。
「側ではありません。リスク評価上、目立たない方が適切です」
「それを爺さん側と言うのでは」
「違います」
爺さんは少し得意そうだった。
「見ろ。俺が正しい」
「調子に乗らないでください」
榊原さんが言った。かなり馴染んでいる。本人は認めないだろうが。
田村さんは、木材を一部外した。
「じゃあ、小さくするか」
「お願いします」
「ナザレ、手伝うか」
俺は反射的に動きかけた。榊原さんが見る。俺は止まった。
「今日は午前中の作業範囲に含まれますか」
自分で聞けた。
榊原さんが、少しだけ表情を緩めた。
「軽微な補助であれば可。ただし、切断作業は田村さんが行い、あなたは保持と清掃のみです」
「はい」
「手袋をしてください」
「はい」
「怪我をしたら」
「報告します」
「怪我をしないことが前提です」
「はい」
田村さんが小さく笑った。
「だいぶ教育されてるな」
「はい」
俺は素直に答えた。
「助かっています」
「それが一番だ」
小さな祠、いや、書類箱の仮組みが始まった。
田村さんが寸法を調整する。俺は木材を支える。爺さんは口を出す。榊原さんは安全確認と記録をする。
かなりいつもの形になってきた。
木の香りがした。削ったばかりの木材。少し湿った土。朝の空気。
俺は、手元の木を見ながら思った。
昔、俺は木を扱っていた。それが、二千年後の日本の神社で、小さな祠の仮組みに繋がるとは思わなかった。
いや、二千年前の俺は、日本も知らない。神社も知らない。宗教法人法も知らない。お茶代も知らない。榊原さんも、田村さんも、爺さんも知らない。
だが、木は知っていた。木を合わせる感覚は、少し分かる。
「顔が遠いぞ」
爺さんが言った。
「すみません」
「昔に行くな」
「はい」
「今はここの木だ」
「はい」
「ここで使う箱だ」
「はい」
「二千年を持ち込むな」
かなり鋭い。
俺は、手元の木に意識を戻した。
今の木。ここの木。仮の箱。
それだけを見る。
田村さんが釘を打つ。音がする。小さな箱が少しずつ形になる。
派手ではない。立派でもない。でも、丁寧だ。
昼前には、仮の書類箱ができた。
小さな屋根があり、前に開く扉がある。中には、防湿袋に入れた奉納前整理書の控えを入れられる。
榊原さんは、中の寸法を確認した。
「書類が折れません」
「そこ大事か?」
田村さんが聞く。
「重要です」
「神さまより書類が大事だな」
「御神体ではありません」
「まだ言ってねえ」
「言いそうでした」
「当たりだ」
爺さんが笑った。
「じゃあ、仮に置くか」
俺は少し息をのんだ。
仮に置く。それだけのことなのに、胸が少し重くなる。
榊原さんがこちらを見た。
「ナザレさん」
「はい」
「これは正式な鎮座ではありません」
「はい」
「仮置きです」
「はい」
「今日の目的は、場所との相性、動線、管理性、心理的負荷の確認です」
「はい」
「過度に意味づけないでください」
「はい」
「でも、少し意味があることは否定しません」
俺は顔を上げた。
「否定しないんですか」
「はい」
「珍しいですね」
「事実なので」
榊原さんは、淡々としていた。
でも、その淡々さが少し柔らかい。
「少し意味がある。ただし、意味を大きくしすぎない」
「はい」
「それが今日の目標です」
「分かりました」
社の裏の空き地へ行く。
古い石。木。湿った土。
そこに、小さな書類箱を置く。
田村さんと俺で持った。軽い。だが、軽くない。
またそう思った。
扱い方を入れる箱。祈りを置く場所の、さらに仮の中心。
田村さんが言う。
「ここでいいか」
爺さんが少し見る。
「少し右」
「こっちか」
「行きすぎ」
「細かいな」
「場所は細かいんだよ」
爺さんが、足元を見ながら言う。
「人が来て、立って、手を合わせて、帰る。その時に邪魔にならない場所がある」
「はい」
「木の根を踏まない」
「はい」
「雨が当たりすぎない」
「はい」
「目立ちすぎない」
「はい」
「でも、忘れられすぎない」
「難しいですね」
「場所は難しい」
榊原さんが記録している。
「忘れられすぎない、も書きますか」
俺が聞くと、彼女は頷いた。
「重要です」
場所が決まった。仮の箱を置く。
田村さんが水平を確認する。爺さんが少し離れて見る。榊原さんが写真を撮る。位置情報なし。共有範囲限定。
俺は少し離れて立つ。
「ナザレ」
田村さんが呼んだ。
「はい」
「お前が扉を開けるか」
俺は榊原さんを見た。彼女は少し考えた。
「可です。ただし、中の書類には触れないでください」
「はい」
俺は、書類箱の前に立った。
小さな扉に手をかける。木の感触。開く。
中は空だ。まだ何もない。空の箱。
そこへ、榊原さんが防湿袋に入れた書類を持ってきた。
「私が入れます」
「はい」
彼女は、ゆっくり書類を入れた。
奉納前整理書の控え。御神体ではない。約束。扱い方。禁止事項。願いを聞きすぎないための線。俺を大きくしすぎないための文。
榊原さんが入れ終える。
俺は扉を閉じた。
小さな音がした。それだけだった。
光もない。風も変わらない。鳥も鳴かなかった。
だが、そこに何かが置かれた。仮に。とても小さく。
「伊佐留神、仮鎮座」
田村さんが言った。
榊原さんがすぐに言う。
「正式な鎮座ではありません」
「だから仮って言っただろ」
「仮でも、鎮座という言葉には注意が必要です」
「じゃあ、仮仮鎮座」
「悪化しています」
爺さんが笑った。
「でも、まあ、仮鎮座だな」
「爺さんまで」
榊原さんが額に手を当てた。
「記録上は、『書類箱仮設置』とします」
「硬いな」
「必要です」
俺は箱を見ていた。
伊佐留神、仮鎮座。書類箱仮設置。
どちらも、たぶん正しい。
神としての言葉と、法務としての言葉。混ぜると壊れる。
だから、両方を分けて持つ。
「俺は、何と呼べばいいですか」
俺が聞くと、爺さんが言った。
「箱」
「箱」
「まだ箱だ」
「かなり軽いですね」
「軽くしとけ」
榊原さんも頷いた。
「私も、箱でよいと思います」
「伊佐留神ではなく」
「まだです」
「仮鎮座ではなく」
「箱です」
「書類箱」
「はい」
俺は少し笑った。
「では、箱ですね」
そう言うと、胸の重さが少し軽くなった。
箱。祠ではなく、箱。御神体ではなく、書類。鎮座ではなく、仮設置。
だが、少し意味はある。
それくらいがちょうどよかった。
昼は、社務所で食べた。
田村さんが持ってきたパンと、爺さんの茶。
パン。神社。書類箱。
かなり不思議な組み合わせだった。
「今日はおむすびじゃないんですね」
「奥さんが忙しかった」
田村さんが言った。
「なら、パンで十分です」
「コンビニのだぞ」
「現代のパンは強いです」
「まだ言ってるのか」
「何度でも言えます」
榊原さんが少し笑った。
「パンは食べ物です」
「今日はパンの話」
爺さんが言った。
「便利に使いすぎです」
榊原さんが言った。
でも、誰も止めなかった。
午後は作業なし。
だが、箱の動線確認だけ行った。
人が来た時、どこに立つか。雨の日はどうするか。写真を撮りたがる人をどう止めるか。箱の中を見せるか。見せない。開けるのは誰か。
原則、榊原さんまたは爺さん。
俺は開けない。理由は重くなるから。
俺が開けると、何かの儀式になる。それは避ける。
「俺が箱を開けるだけで、儀式になりますか」
「なる可能性があります」
榊原さんが言った。
「さっき開けました」
「関係者のみ、仮設置時の作業としてです」
「外では」
「不可です」
「はい」
爺さんが言った。
「外来種は、戸を開けるだけでも面倒だな」
「はい」
「でも、まあ、そういうもんだ」
「はい」
「だから普段は掃け」
「はい」
また掃除に戻る。かなり安心する。
帰る前、箱の前で爺さんが言った。
「外来種」
「はい」
「今日は何も祈るな」
「なぜ」
「置いたばかりのものに、すぐ願いを乗せるな」
「はい」
「箱も疲れる」
「箱も」
「そうだ」
俺は頷いた。
今日は祈らない。箱を置いた。それだけでいい。
意味を乗せすぎない。
祈りを置く場所にも、休む時間が必要なのかもしれない。
榊原さんが小さく言った。
「良い指示だと思います」
「評価か」
爺さんが聞く。
「評価です」
「よし」
夕方、神社を出た。
車に乗る前、俺は少しだけ振り返った。
社の裏は見えない。箱も見えない。
だが、そこにある。仮に。小さく。箱として。
「ナザレさん」
榊原さんが言った。
「はい」
「今日の状態はどうですか」
「少し、胸が重いです」
「はい」
「でも、悪い重さではありません」
「はい」
「ただ、祈らない方がいい気がします」
「はい」
「今日は、箱を置いた日です」
「はい」
「それで十分です」
榊原さんは頷いた。
「非常に良い整理です」
「評価ですか」
「評価です」
「嬉しいです」
帰りの車で、田村さんからメッセージが来た。
さっき別れたばかりなのに早い。
榊原さんが読む。
「『箱、悪くなかったな』」
「短いですね」
「続きがあります」
「はい」
「『御神体ではありません箱』」
榊原さんは端末を伏せた。
「返信を終了します」
「田村さん、かなり気に入っていますね」
「困ります」
「でも、少し合っています」
「困ります」
俺は少し笑った。
宿に戻り、ノートを開いた。
今日は書くことが多い。でも、長くしすぎない。
箱を置いた。
書類を入れた。
御神体ではない。
正式でもない。
でも少し意味がある。
今日は祈らない。
パンを食べた。
明日も掃く。
以上。
ノートを閉じる。
机の上の赤い鶴は、まだ歪んでいる。だが、立っている。
神の子、家なき子。
伊佐留神候補。
掃除見習い。
今日は、伊佐留神が仮鎮座した。
いや、書類箱を仮設置した。
いや、箱を置いた。
今は、それでいい。




