第40話 教皇様、お茶代は困ります
詳しいことは答えません。
その言葉は、思ったよりよく効いた。
もちろん、万能ではない。
詳しいことを答えないと言うと、余計に聞きたがる人もいる。隠していると思う人もいる。都合が悪いのかと疑う人もいる。
だが、それでも効く。少なくとも、答えすぎて燃えるよりはいい。
爺さんは短く言う。
「ここは願いを叶える場所じゃねえ。祈りを置く場所だ。詳しいことは答えん」
榊原さんは補足する。
「当神社では、宗教的解釈や個別事情に関する回答は行っておりません」
俺は箒を持って言う。
「私は掃除中です」
かなり分担ができてきた。
俺は、答えない。爺さんは、短く止める。榊原さんは、線を引く。田村さんは、だいたい茶化す。奥さんは、飯を食べさせる。
かなり良い体制だと思う。
たぶん、世界宗教の案件を処理する体制としては、かなり変だ。
だが、俺には合っていた。
その朝、神社へ行く前に、榊原さんの端末が鳴った。
メールだった。榊原さんの表情が、少し固まった。
俺は、その表情を覚えている。教皇様である。
「教皇様ですか」
「はい」
「件名は」
榊原さんは、画面を見たまま少し黙った。
「訪問について」
かなり直接だった。
「訪問」
「はい」
「誰の」
「教皇様の」
部屋が静かになった。ホテルの冷蔵庫が小さく鳴った。
「教皇様が、来るんですか」
「まだ確定ではありません」
「でも、訪問について」
「はい」
「日本に?」
「文面を確認します」
榊原さんは、まず一人で読んだ。俺にはまだ見せない。
これはもう慣れた。
教皇様のメールは、重い。重いものは、榊原さんが先に読む。
保護対象者の安全確保。かなり強い。
榊原さんは読み進める。表情が少しずつ険しくなる。
「重いですか」
「重いです」
「いつもですね」
「はい」
「内容は」
「要約します」
「お願いします」
榊原さんは端末を伏せた。
「教皇様は、伊佐留神の試行について、非公式に報告を受けています」
「はい」
「神父様からも、茶を飲んだこと、あなたが苦しんでいないように見えたこと、約束が置かれていることを聞いています」
「はい」
「そのうえで、可能なら、自分も一度、茶を飲みに行きたい、と」
「茶を」
「はい」
「教皇様が」
「はい」
「ここへ」
「はい」
俺は少し黙った。
やはり来た。田村さんの予想通りだ。
いや、爺さんもたぶんそう思っていた。榊原さんだけが「来ないでください」と言い続けていた。
だが、来たいらしい。
「榊原さん」
「はい」
「止めますか」
「止めます」
即答だった。
「来る前から」
「はい」
「教皇様でも」
「はい」
「理由は」
「危険が大きすぎます」
「はい」
「警備、報道、外交、宗教的影響、教会内外の反応、神社側への負荷、地元への影響、あなたへの精神的負荷」
「多いですね」
「非常に」
「でも、茶を飲みに来たいだけかもしれません」
「教皇様が茶を飲みに来る、というだけで世界的事件になります」
「そうですね」
「お茶代の問題もあります」
「そこですか」
「そこもです」
かなり榊原さんらしい。
世界宗教の最高権威が神社に来る。その危険の中に、きちんとお茶代が入っている。
かなり強い。
「教皇様がお茶代を出したら、どうなるんですか」
「非常に困ります」
「玉串料ではない」
「はい」
「献金でもない」
「はい」
「奉納でもない」
「はい」
「お茶代」
「ですが、教皇様から金銭を受け取ること自体が象徴化します」
「領収書を出しても?」
「領収書も象徴化します」
「聖遺物に」
「されかねません」
「教皇様のお茶代領収書」
「絶対に避けたいです」
俺は少し想像してしまった。
教皇様。爺さんの社務所。欠けていない湯呑み。お茶代。榊原さんの領収書。
それが世界中で回る。
かなり危険だ。面白いが、危険だ。
面白いと言ってはいけない。
「返信しますか」
「します」
「何と」
「まず、訪問は現時点では受け入れ困難であることを伝えます」
「はい」
「代替として、非公式な書面、または神父様経由の確認に留めることを提案します」
「はい」
「お茶代は受け取れないと明記します」
「そこも」
「重要です」
榊原さんは返信を書き始めた。
俺は横で待った。
文章はかなり硬い。だが、硬い文章は必要だ。
教皇様を止めるには、柔らかい気持ちだけでは足りない。
榊原さんが読み上げる。
「現在、伊佐留神に関する試行は、地域・神社関係者・本人の安全を最優先に、極めて限定的に実施しています。貴下の直接訪問は、意図にかかわらず、報道・宗教的象徴化・地域負荷・本人負荷のいずれも過大となるため、現時点では受け入れ困難です」
「かなり強いですね」
「必要です」
「続けてください」
「また、仮に非公式訪問であっても、金銭授受は名目を問わず象徴化する恐れがあるため、お茶代を含めて受領できません」
「教皇様、お茶代は困ります」
「その表現は使いません」
「はい」
「ただし、意味としてはその通りです」
「強い」
「必要です」
榊原さんはさらに続けた。
「ご懸念やご質問がある場合は、神父様を通じた非公式照会、または書面での確認に留めていただければ幸いです。なお、ナザレさん本人への直接質問は、内容により精神的負荷が大きいため、引き続き事前確認制とさせてください」
「かなり丁寧です」
「丁寧に止めます」
「教皇様は止まりますか」
「止まっていただきます」
送信。
いつものように、音は軽かった。
世界宗教の最高権威に対して、神社訪問とお茶代を断る音としては、かなり軽い。
「神社へ行きます」
榊原さんが言った。
「このまま?」
「はい」
「教皇様の返信は」
「待ちながら通常予定を実施します」
「教皇様より掃除」
「はい」
「強い」
「生活を止めないことも重要です」
「はい」
俺たちは神社へ向かった。
車の中で、俺はあまり話さなかった。
教皇様が来たいと言った。
それは、少し嬉しくもあった。怖くもあった。
会いたい気持ちもある。来てほしくない気持ちもある。
教会の人たちに、俺が苦しくないことを見てほしい。でも、見られた瞬間に、ここが壊れるかもしれない。
かなり難しい。
「ナザレさん」
「はい」
「考えていますね」
「はい」
「訪問についてですか」
「はい」
「会いたいですか」
榊原さんは、まっすぐ聞いた。
俺は少し考えた。
「会いたくないわけではありません」
「はい」
「ただ、来ると重くなります」
「はい」
「俺だけではなく、この神社も、爺さんも、田村さんたちも、地元の人も」
「はい」
「だから、今は来ない方がいいと思います」
「はい」
「でも、少し寂しいです」
「はい」
「教皇様を止めるのは、教会を拒むようで」
「はい」
「少し痛いです」
榊原さんは、すぐには答えなかった。
車は山道を進んでいる。
「痛いまま、止める必要があることもあります」
「はい」
「拒絶ではなく、保護です」
「はい」
「教会を否定するためではなく、ここを壊さないためです」
「はい」
「あなたを守るためでもあります」
「はい」
俺は、少し息を吐いた。
「ありがとうございます」
「評価ではありません」
「感謝です」
「どういたしまして」
神社に着くと、爺さんはすでに話を知っていた。
おそらく田村さんからではない。榊原さんが来る前に、神父様か誰かから連絡があったのかもしれない。
いや、爺さんはなぜか知っている。分からないまま置く。
「おう」
「おはようございます」
「教皇、来たがってるんだってな」
「早いですね」
榊原さんが言った。
「山は耳が早い」
「情報管理上、非常に困ります」
「まあ、来させるな」
「止めました」
「よし」
爺さんは、あっさり言った。
「爺さんは、会いたくないんですか」
俺が聞く。
「会ったら面倒だろ」
「はい」
「茶も出しにくい」
「そこですか」
「そこもだ」
「お茶代は受け取れません」
榊原さんが言った。
「だろうな」
「象徴化します」
「法務さんの言う通りだ」
爺さんは、珍しく素直に頷いた。
「教皇が来たら、ここは神社じゃなくて事件になる」
「事件」
「そうだ」
「かなり嫌な表現ですね」
「でも、そうなる」
爺さんは社の方を見た。
「ここは、事件になるには小さすぎる」
その言葉は、かなり良かった。
ここは事件になるには小さすぎる。
確かにそうだ。
この神社は、祈りを置く場所として少しずつ形になっている。掃除見習いがいる。爺さんがいる。茶がある。書類の木箱がある。
それだけの小さな場所だ。
そこに教皇様が来ると、場所ではなく事件になる。
それは避けたい。
「では、今日は掃除ですか」
俺が聞くと、爺さんは箒を渡した。
「当然だ」
「教皇様の返信が来ても」
「掃け」
「はい」
俺は参道を掃いた。
教皇様より掃除。かなり強い。
でも、今日はそれが必要だった。
落ち葉を掃く。通る場所を整える。全部を完璧にはしない。力を入れすぎない。
教皇様が来たいと言っても、落ち葉は落ちる。
なら、掃く。それが生活だ。
午前中の作業が終わる頃、榊原さんの端末が鳴った。
社務所の中で、空気が止まった。
「教皇様ですか」
「はい」
榊原さんが画面を見る。読む。長くないらしい。
表情が少しだけ変わった。
「何と」
俺が聞く。
「短いです」
「はい」
榊原さんは読み上げた。
「『承知しました。お茶代は、困らせないことにします』」
俺は、思わず笑いそうになった。
爺さんは普通に笑った。
「分かってるじゃねえか」
榊原さんは、少しだけ肩の力を抜いた。
「続きがあります」
「はい」
「『私は行きません。ただ、祈りがほどける場所があることを、遠くから感謝します』」
社務所が静かになった。
今度は誰も笑わなかった。
俺は、少しだけ目を閉じた。
行かない。でも、感謝する。遠くから。
それは、かなり優しい距離だった。
「教皇様は、来ないんですね」
「はい」
「止まりました」
「はい」
「よかった」
俺は言った。
それは、本心だった。
少し寂しい。でも、よかった。
爺さんが茶を飲んだ。
「いい教皇だな」
「はい」
「茶を飲ませてもいいかもしれん」
「来ないでください」
榊原さんが即答した。
「冗談だ」
「冗談でも危険です」
「法務さん、戻ったな」
「はい」
俺は笑った。榊原さんも、少しだけ笑ったように見えた。確認はしない。
「返信しますか」
俺が聞く。
「短く返します」
「俺も何か」
「内容によります」
「では」
俺は少し考えた。
「遠くからで、十分届きました」
榊原さんは、俺を見た。
「良いと思います」
「評価ですか」
「評価です」
「嬉しいです」
榊原さんは文面に入れた。
「ナザレさんより、『遠くからで、十分届きました』とのことです。ご理解に感謝します」
送信。また、軽い音。
爺さんが言った。
「祈りが届くってのは、来ることじゃねえんだな」
「はい」
俺は答えた。
「たぶん」
教皇様は来ない。
それでも、言葉は届いた。俺の言葉も、向こうへ届いた。
距離があるから、届くこともある。近づきすぎると壊れるものがある。
それを、俺はこの二年で何度も学んだ。
昼前、田村さんからメッセージが来た。情報が早すぎる。
榊原さんが読んだ。
「『教皇様、お茶代断られたらしいな』」
「田村さん」
「続きがあります」
「はい」
「『法務さん、世界一強い茶番管理者だな』」
榊原さんは端末を伏せた。
「返信を終了します」
「茶番管理者」
「不適切です」
「でも、お茶の番という意味なら」
「言葉遊びしないでください」
「はい」
爺さんは笑っていた。
「茶番管理者、悪くねえな」
「悪いです」
「茶を出すか出さないかで、世界が少し落ち着くんだからな」
「それは否定しませんが」
「ほら」
「返信はしません」
その日の午後は休みだった。
午前中だけの作業。試行条件を守る。続けるために、やめる。
俺は、社の裏の木箱の前に少しだけ立った。
手は合わせない。声にも出さない。
ただ、思った。
教皇様の祈りが、遠くからでもほどけますように。
そして、この場所が、事件にならず、場所のままでありますように。
それだけだった。
帰りの車で、榊原さんが言った。
「今日は、重要な日でした」
「教皇様が来なかった日」
「はい」
「来ないことも、出来事なんですね」
「はい」
「来なかったから、守れた」
「はい」
「お茶代も発生しなかった」
「非常に重要です」
「そこも」
「そこもです」
俺は少し笑った。
「榊原さん」
「はい」
「今日は、かなり助かりました」
「職務です」
いつもの言葉。
でも、俺は少しだけ聞き返した。
「今も、職務だけですか」
榊原さんは、すぐには答えなかった。
車は山道を下っている。夕方の光がフロントガラスに入る。
「今日は」
彼女は言った。
「職務として、止めました」
「はい」
「でも、個人的にも、来ないでくださってよかったと思っています」
かなり珍しい言葉だった。
「個人的に」
「はい」
「記録しますか」
「私のことは記録しません」
「そうですか」
「はい」
俺は窓の外を見た。
今日は、教皇様が来ないことが決まった。お茶代は発生しなかった。神社は事件にならなかった。
俺は、午前中だけ掃除をした。
それでよかった。
神の子、家なき子。
伊佐留神候補。
掃除見習い。
教皇様は来なかった。
だが、遠くからで、十分届いた。
そして、榊原さんはお茶代を守った。
かなり強い日だった。




