第38話 試行期間、延長です
翌朝、神社へ行くと、爺さんは参道の真ん中に立っていた。
箒を持っている。いつも通りだった。
ただ、足元の落ち葉はいつもより多い。
昨日、俺が休んだからだろうか。
「おう、休日明け」
「おはようございます」
「休めたか」
「はい」
「寂しかったか」
「少し」
「なら、まあいい」
「いいんですか」
「来たくもないやつに掃除させてもしょうがねえ」
「はい」
「でも、来たすぎるやつも危ねえ」
「榊原さんにも言われました」
「だろうな」
爺さんは、箒を俺に渡した。
「今日は多いぞ」
「はい」
「休日分だ」
「俺が休んだからですか」
「葉っぱはお前に合わせて落ちるわけじゃねえ」
「はい」
「でも、休めば溜まる」
「はい」
「だから、休んだあとは掃く」
「はい」
「それだけだ」
かなり分かりやすい。
休むと、落ち葉は溜まる。だから、あとで掃く。
休んだから悪いわけではない。溜まったものを見て、また掃けばいい。
それは、かなり救いに近い気がした。
いや、今日は掃除の話だ。
俺は箒を持った。
昨日休んだ分、少し体が軽い。だが、その分、力が入りそうになる。
「力を入れすぎるな」
爺さんが言った。
「まだ何もしていません」
「顔で分かる」
「そんなに出ますか」
「出る」
榊原さんも頷いた。
「出ています」
「評価ですか」
「観察です」
「厳しい」
俺は、いつもの手順で掃き始めた。
奥から手前。人が通る場所を先に。全部を完璧にはしない。湿った葉は無理に動かさない。石の隙間の葉は、あとで。
休日明けの参道は、少し手強かった。
でも、悪くない。
昨日ここに来なかったのに、今日また掃ける。
それは、少し安心することだった。
午前中の作業が終わる頃、榊原さんは社務所で試行記録を確認していた。
机の上には、薄いファイルがある。表紙にはこう書かれていた。
伊佐留神社内作業・滞在試行記録。
かなり正式だ。
「榊原さん」
「はい」
「そのファイル、また厚くなりますか」
「なると思います」
「俺は、だんだん書類になりますね」
「なりません」
「御神体も書類ではない」
「御神体ではありません」
「はい」
爺さんが茶をすすりながら言った。
「書類の神さまの弟子みたいになってるな」
「その表現は不適切です」
榊原さんが即座に言った。
「何が不適切なんだ」
「書類の神さま、弟子、どちらも不適切です」
「全部か」
「全部です」
俺は黙って茶を飲んだ。今日は茶の話にしておく。
午前の記録が終わると、榊原さんは少し姿勢を正した。
「試行期間について、一次評価をします」
俺は湯呑みを置いた。
「もうですか」
「開始から一週間です」
「二週間では」
「中間評価です」
「試行期間にも中間評価があるんですね」
「あります」
「神の子、試用期間中間評価」
「言わないでください」
「はい」
爺さんは楽しそうにしている。
田村さんがいたら、絶対に茶化しただろう。今日はまだ来ていない。
少し安心したような、少し物足りないような気がした。
榊原さんは、紙を一枚出した。
「作業面」
「はい」
「掃除については、手順理解が進んでいます。力の入れすぎは継続課題ですが、爺さんの指示に従い修正できています」
「評価ですか」
「評価です」
「嬉しいです」
「修理作業については、軽微な木工作業に適性が見られます。ただし、安全管理者の立会いが必要です」
「田村さんですね」
「主に田村さん、または爺さん。ただし、作業内容によります」
「はい」
「来訪者対応については、原則として抑制できています。『私は掃除中です』の使用は有効です」
「強いですね、掃除中」
「強いです」
「生活面については、神社作業後の疲労はありますが、睡眠と食欲に大きな問題はありません」
「そこまで」
「記録しています」
「はい」
「感情面については、神社への安心感が高まっています」
「はい」
「同時に、依存傾向について継続観察が必要です」
「やはり」
「ただし、休日を設定し、寂しさを言語化できました」
「折り紙もしました」
「はい。休養日の過ごし方として良好です」
俺は少しだけ嬉しくなった。
掃除だけではなく、休むことも評価される。かなり現代的だ。
「総合すると」
榊原さんは、紙を置いた。
「現時点では、試行継続が妥当です」
俺は、少しだけ息を止めた。
「継続」
「はい」
「続けていいんですか」
「はい。ただし、条件付きです」
「条件」
「作業時間は引き続き午前中中心」
「はい」
「週に一日は休養日」
「はい」
「来訪者対応は原則不可」
「はい」
「宗教的質問には答えない」
「はい」
「写真撮影は拒否」
「はい」
「無理な修理はしない」
「はい」
「体調不良や精神的負荷がある場合は即時中断」
「はい」
「困ったら」
「困っていますと言います」
「よろしいです」
爺さんが頷いた。
「まあ、延長でいいだろ」
「爺さんの評価は」
「掃除見習いとしては、継続」
「嬉しいです」
「喜びすぎるな」
「はい」
「でも、まあ、よくやってる」
かなり珍しく、爺さんが少しだけ褒めた。
俺はそれが嬉しかった。かなり嬉しかった。
榊原さんがこちらを見た。
「高揚に注意してください」
「はい」
「でも、嬉しいこと自体は」
「問題ありません」
「はい」
その時、外から軽トラックの音がした。
田村さんだった。遅れて来たらしい。
「おう、やってるか」
「中間評価が終わりました」
俺が言うと、田村さんは笑った。
「神の子の人事考課か」
「違います」
榊原さんが即座に言った。
「試行期間の一次評価です」
「似たようなもんだろ」
「違います」
「で、どうだった」
「継続です」
俺は言った。自分でも、声が少し弾んでいた。
田村さんは、にやりとした。
「よかったな。契約更新」
「契約ではありません」
榊原さんが言う。
「試行継続です」
「じゃあ、試行更新」
「更新ではなく、継続です」
「細かいな」
「必要です」
田村さんは俺の肩を叩こうとして、榊原さんを見た。手を止めた。かなり学習している。
「触らない方がいいんだよな」
「不用意な接触は避けてください」
「はいはい」
「はいは一回」
榊原さんが言う前に、田村さんが自分で言った。
「はい」
かなり奥さんに鍛えられている。
「じゃあ、祝うか」
田村さんが言った。
「祝う?」
「試行継続祝い」
「祝いにすると重くなります」
榊原さんが言った。
「じゃあ、昼飯」
「それなら問題ありません」
「うちの奥さんが弁当作ってる」
「強いですね」
俺が言うと、田村さんは笑った。
「強いだろ」
田村さんが持ってきた弁当は、かなり立派だった。
おむすび。卵焼き。唐揚げ。煮物。漬物。小さな果物。
社務所の机に広げると、少しだけ祭りのようになった。
「これは祝いでは」
「昼飯です」
田村さんが言った。
「昼飯ですね」
榊原さんも言った。
「今日は昼飯の話です」
爺さんが言った。
「みんな、使いこなしていますね」
俺は言った。
全員、少しだけ笑った。
昼飯はおいしかった。奥さんの卵焼きは、相変わらず強い。
俺は、おむすびを食べながら、ふと聞いた。
「榊原さん」
「はい」
「試行期間が続くということは、俺は少しここにいていいんですね」
「午前中の作業時間を中心に、一定期間は」
「はい」
「ただし、まだ住むわけではありません」
「はい」
「正式に祀るわけでもありません」
「はい」
「神社側の関係者として外部に案内する段階でもありません」
「はい」
「でも、ここへ来る予定は続きます」
「はい」
俺は頷いた。
「それで十分です」
今は、本当にそう思った。
住む場所が決まったわけではない。神として置かれたわけでもない。戸籍ができたわけでもない。法的身分の問題も残っている。教会との関係も、完全には整理されていない。
でも、明日も来られるかもしれない。明後日も。休養日を挟みながら。午前中だけでも。
それは、かなり大きい。
昼飯のあと、爺さんが田村さんを連れて社の裏へ行った。
木箱の場所を確認するらしい。
俺も行こうとしたが、榊原さんに止められた。
「休憩してください」
「でも」
「午前の作業は終わっています」
「はい」
「試行条件を守ってください」
「はい」
「続けるために、やめる必要があります」
続けるために、やめる。
それもかなり大事だった。
俺は社務所に残った。榊原さんも残った。
机の上には、弁当の包みと、試行記録の紙がある。
「榊原さん」
「はい」
「続けるために、やめる、は良い言葉ですね」
「はい」
「記録しますか」
「しました」
「早い」
「重要です」
しばらく静かだった。
外から、田村さんと爺さんの声が聞こえる。何か雑な話をしている。内容は聞こえない。
でも、安心する音だった。
「榊原さん」
「はい」
「俺は、少しずつ普通になれていますか」
聞いてから、少し曖昧な質問だと思った。
普通。かなり危険な言葉だ。
榊原さんは、すぐには答えなかった。
「普通、という言葉は難しいです」
「はい」
「あなたは、普通の意味では普通ではありません」
「はい」
「戸籍も国籍も身元も、まだ整っていません」
「はい」
「宗教的にも、歴史的にも、非常に特殊です」
「はい」
「ただ」
「はい」
「日々の行動は、少しずつ生活に近づいています」
生活に近づく。
普通になる、よりずっと良い言葉だった。
「生活に近づく」
「はい」
「掃除、修理、食事、休養、買い物、記録、断ること」
「はい」
「その範囲では、かなり安定してきました」
「評価ですか」
「評価です」
「嬉しいです」
俺は、窓の外を見た。
神社の木々が見える。風が少し吹いている。葉が揺れる。
また落ち葉が落ちる。明日には、また掃く必要がある。
それが、とてもよかった。
午後、田村さんは社務所の古い椅子を修理すると言い出した。
俺も手伝いたかった。だが、榊原さんが止めた。
「今日は午前中のみです」
「少しだけ」
「だめです」
「見ているだけなら」
「見るだけなら可。ただし、手を出さない」
「はい」
田村さんが笑った。
「見習い、今日は見学だな」
「はい」
「手出したら法務さんに怒られるぞ」
「分かっています」
「俺も怒られる」
「はい」
俺は、少し離れて見ていた。
田村さんが椅子を裏返し、緩んだところを直す。
爺さんが横から口を出す。
榊原さんが、安全に問題がないか見る。
俺は見ているだけ。少しもどかしい。
だが、見ているだけも学習だ。
昔の俺は、見ているだけが苦手だったかもしれない。
困っている人がいれば、動く。壊れているものがあれば、直す。足りないものがあれば、満たす。
でも、今日は見ている。
俺がやらなくても、田村さんが直す。俺が動かなくても、世界は少し直る。
それを見ている。これも練習だ。
「ナザレ」
田村さんが言った。
「はい」
「手、出したそうだな」
「はい」
「我慢してるか」
「はい」
「偉い」
「評価ですか」
「評価だ」
「嬉しいです」
榊原さんも頷いた。
「手を出さない判断は良好です」
「二重評価です」
「よかったな」
田村さんが笑った。
夕方前、俺たちは神社を出た。
試行期間は継続。今日の作業は終了。明日は午前中にまた来る。休養日は週に一度。
俺は鳥居の前で頭を下げた。
声には出さない。祈らないわけではない。だが、詳しくは祈らない。
今日ここで掃除できたこと。明日も来られるかもしれないこと。
それだけを、静かに置いた。
帰りの車の中で、榊原さんが言った。
「今日の日記には、何を書く予定ですか」
「見せなくていいんですよね」
「はい」
「では、秘密です」
「適切です」
「評価ですか」
「評価です」
その夜、宿の机でノートを開いた。
灰色の表紙の、俺のノート。
俺は短く書いた。
試行期間、継続。
嬉しかった。
昼飯がおいしかった。
続けるために、やめる。
田村さんが椅子を直した。
俺は手を出さなかった。
明日も掃く。
以上。
ノートを閉じる。
机の上には、前に折った赤い鶴がある。
少し歪んだまま、立っている。
神の子、家なき子。
伊佐留神候補。
掃除見習い。
今日、試行期間が延長された。
まだ何も決まっていない。
だが、明日も掃く。
それだけで、今日は十分だった。




