第34話 ワインがなくなりました
その日は、田村家で小さな集まりがあった。
集まり、と言っても、大きなものではない。
田村さん。奥さん。榊原さん。爺さん。そして俺。
場所は田村家だった。神社ではない。教会でもない。ホテルでもない。田村家の居間だった。
「神社でやると重くなる」
田村さんが言った。
「教会関係者が来るともっと重くなる」
奥さんが言った。
「ホテルの会議室だと業務になります」
榊原さんが言った。
「じゃあ、うちで飯だ」
田村さんが言った。
それで決まった。かなり雑だが、かなり正しい。
田村家の居間には、いつもの座卓が出ていた。料理が並んでいる。
煮物。焼き魚。鶏肉。サラダ。漬物。味噌汁。
そして、前にワイナリーから送ったワインが置かれていた。
「あれ、まだ残っていたんですか」
俺が聞くと、田村さんは笑った。
「最後の一本だ」
「一本だけ?」
「お前から来たやつは、妙に扱いに困るんだよ」
「普通のワインです」
「分かってる」
「水から作っていません」
「それも分かってる」
「榊原さんが選びました」
「だから普通なんだろ」
田村さんは、そう言いながら瓶を持ち上げた。
「でもな、普通のワインでも、お前から来るとちょっと変な記念品になる」
「それは困ります」
「だから今日、飲み切る」
「いいんですか」
「飲むためのもんだろ」
奥さんが頷いた。
「そう。飾るものじゃないの」
「はい」
「飲み物は飲む。食べ物は食べる。祀りすぎない」
「かなり大事ですね」
「大事よ」
爺さんは、居間の端で座布団に座っていた。
神社にいる時とあまり変わらない。作業着ではなく、少しだけ外向きの服だった。
だが、やはり爺さんだった。
「ワインか」
「飲みますか」
田村さんが聞く。
「少しでいい」
「爺さん、酒いけるのか」
「昔はな」
「昔」
「今は茶の方がいい」
「妖怪っぽいな」
「誰が妖怪だ」
「自分で言ってただろ」
「分からんと言っただけだ」
田村さんと爺さんは、かなり相性がいい。
雑さが似ている。だが、雑な方向が少し違う。
田村さんは生活へ戻す雑さ。爺さんは場所へ置く雑さ。
どちらも、俺を大きくしすぎない。かなりありがたい。
榊原さんは、今日も少しだけ書類を持ってきていた。
田村家での集まりなのに、鞄の中には資料が入っている。
伊佐留神の由緒案。来訪者対応案。金銭名目一覧。教会関係者訪問時の受け入れ条件。お茶代処理記録。
たぶん、全部入っている。
「今日は仕事じゃないぞ」
田村さんが言った。
「完全に私的な集まりとは言い切れません」
榊原さんが言った。
「言い切れ」
「言い切れません」
「固いな」
「必要です」
「でも今日は飯だ」
「はい」
奥さんが、榊原さんの前に小鉢を置いた。
「玲子さんも、今日はちゃんと食べて」
「はい」
「資料はあと」
「はい」
榊原さんは素直に頷いた。奥さんは強い。
俺は手を合わせた。
「いただきます」
みんなも手を合わせる。食事が始まった。
田村家の食事は、やはり強い。特別な料理というわけではない。
だが、食べると落ち着く。
味噌汁を飲むと、神学が少し遠くなる。煮物を食べると、教皇様のメールも少し遠くなる。焼き魚を食べると、俺が外来種であることも少し薄れる。
食卓は、かなり強い。
「最近どうだ」
田村さんが聞いた。
「神社ですか」
「お前が」
「俺は、少し落ち着いています」
「そうか」
「掃除をしています」
「知ってる」
「棚も直しました」
「知ってる」
「願いを聞きすぎない練習をしています」
「それも聞いた」
「情報が多いですね」
「爺さんが喋る」
爺さんは茶を飲みながら言った。
「必要なことしか言ってない」
「かなり喋ってるぞ」
「必要なことが多い」
「法務さんみたいなこと言うな」
「一緒にするな」
榊原さんが少しだけ困った顔をした。
「私も巻き込まれています」
「いつも巻き込んでる側だろ」
田村さんが言った。
「巻き込まれてもいます」
「そうだな」
俺はそのやり取りを聞きながら、煮物を食べた。
里芋が柔らかい。とても地上の食べ物だった。
しばらくして、田村さんがワインを開けた。音がした。栓が抜ける。
赤いワインがグラスに注がれる。田村さん。奥さん。爺さん。
榊原さんには少しだけ。俺にも、少しだけ。
「運転は」
俺が聞くと、榊原さんが言った。
「今日は泊まります」
「田村家に?」
「近くの宿です」
「そうでした」
「飲酒量は管理します」
「はい」
ワインを口に含む。
前にワイナリーで飲んだものより、少し柔らかい気がした。時間が経ったからなのか、場所が違うからなのか、田村家で飲んでいるからなのかは分からない。
「おいしいです」
「普通にうまいだろ」
田村さんが言った。
「はい」
「それでいいんだよ」
「はい」
「神の子からのワイン、じゃなくて、普通にうまいワイン」
「はい」
俺はグラスを見た。
赤い液体。水から作ったものではない。ぶどうから作られたもの。人の手で作られたもの。
榊原さんが選び、配送され、田村家に届き、今、みんなで飲んでいる。
それで十分だった。
食事が進む。話も進む。
爺さんは、神社の古い祭りの話を少しした。田村さんは、昔、祭りで屋台の手伝いをした話をした。奥さんは、その時の田村さんがいかに役に立たなかったかを話した。田村さんは反論した。榊原さんは少し笑った。俺も笑った。
かなり普通だった。普通であることが、かなりありがたい。
ワインの瓶は、少しずつ空いていった。俺はそれを見ていた。
少し寂しいような気がした。
このワインは、俺が水から作らなかったことの証拠のようなものだった。奇跡ではなく、買って、送って、飲む。その普通さが、俺には大事だった。
だが、飲めばなくなる。当たり前だ。飲み物だから。
なくなることが、正しい。それでも、少し寂しい。
「ナザレ」
奥さんが言った。
「はい」
「瓶ばかり見てる」
「すみません」
「なくなるのが寂しい?」
かなり鋭い。
「少し」
「飲み物だからね」
「はい」
「飲んだらなくなるの」
「はい」
「でも、なくならないと困るのよ」
「困る」
「ずっと残してたら、記念品になるでしょう」
俺は黙った。
「飾るために送ったんじゃないでしょう」
「はい」
「飲んでもらうためでしょう」
「はい」
「なら、なくなっていいの」
奥さんは、かなり優しく、かなり強く言った。
「むしろ、なくなった方がいいの」
「なくなった方が」
「そう。ちゃんと使われたってことだから」
ちゃんと使われた。それは、かなり良い言葉だった。
食べ物は食べる。飲み物は飲む。書類は読む。箒は掃く。棚は物を置く。
神さまも、置かれるなら、置かれた場所でちゃんと役割を持つ。
ただ飾られるだけでは、たぶん違う。
「俺も」
俺は言った。
「飾られるより、使われた方がいいんでしょうか」
部屋が少し静かになった。
しまった。重くした。
俺はすぐに言い直そうとしたが、田村さんが先に言った。
「使われるって言うと、また変な話になるぞ」
「はい」
「利用されるのは違う」
「はい」
「でも、何もしないで飾られるのも違う」
「はい」
「お前の場合は、掃除して、棚直して、茶飲んで、飯食う。それでいいんじゃねえの」
「はい」
「神さま部分は、書類の横に置いとけ」
「御神体ではありません」
榊原さんが即座に言った。
「分かってるよ」
「分かっていません」
「奉納前整理書だろ」
「はい」
「長いんだよ」
爺さんが笑った。
「神さまは扱える重さにしろって言っただろ」
「はい」
「飾るだけにすると、重くなる」
「はい」
「便利に使いすぎると、壊れる」
「はい」
「掃除くらいがちょうどいい」
俺は頷いた。
「掃除くらい」
「そうだ」
「棚の修理くらい」
「そうだ」
「お茶を飲むくらい」
「そうだ」
「願いがほどけるまで、少し待つくらい」
爺さんは、少しだけ目を細めた。
「それくらいだな」
それくらい。かなり小さい。
でも、俺にはそれくらいが必要なのかもしれない。
世界を救う。罪を背負う。教会を裁く。祈りに応える。奇跡を起こす。
そういう大きすぎる言葉から、俺は少しずつ離れている。
掃除する。棚を直す。茶を飲む。祈りを置く場所にいる。
それくらい。
「ワイン、最後だぞ」
田村さんが瓶を持ち上げた。
中には、少しだけ残っている。全員のグラスに少しずつ注ぐほどはない。
田村さんは瓶を傾けた。自分のグラスに入れかけて、止まった。
そして、俺を見た。
「どうする」
「どうする、とは」
「最後の一杯」
来た。かなり危険な言葉だった。
最後の一杯。婚礼の席。酒がなくなった。水をワインにした。
その記憶が、自然に浮かぶ。
俺は、空になりかけた瓶を見た。食卓には水がある。湯飲みもある。コップもある。
もし俺が望めば。
いや、考えるな。
榊原さんが、俺を見ていた。爺さんも見ていた。奥さんも見ていた。
田村さんは、にやりとしているが、目は少し真面目だった。
「ワインがなくなりました」
田村さんが言った。かなりわざとだった。
俺は水の入ったグラスを見た。そして、榊原さんを見た。
「法務さんに怒られるので」
「はい」
榊原さんが答えた。
「水をワインにしません」
「よろしいです」
田村さんが笑った。
「合格だな」
「試したんですか」
「少しな」
「危険です」
榊原さんが言った。
「悪かった」
田村さんは、素直に言った。
「でも、今のは見たかった」
「見たかった?」
「お前が、なくなったものをなくなったままにできるか」
俺は黙った。
なくなったものを、なくなったままにできるか。
かなり大事だった。
ワインがなくなった。だから、水をワインにする。昔はそれでよかったのかもしれない。
だが今は、なくなることを受け入れる練習も必要だった。
飲み物は飲めばなくなる。食事は食べればなくなる。人の時間も進む。祈りも、いつかほどける。命も、いつか終わる。
全部を戻してはいけない。
「なくなって、いいんですね」
俺は言った。
奥さんが頷いた。
「いいの」
爺さんも言った。
「いい」
榊原さんも言った。
「はい」
田村さんは、最後のワインを自分のグラスに注いだ。
「じゃあ、これは俺が飲む」
「そこは普通に自分なんですね」
「俺が開けたからな」
「雑ですね」
「最後まで残すとまた記念品になるだろ」
田村さんは、最後の一口を飲んだ。
「うまかった」
それで終わった。
ワインはなくなった。水は、水のままだった。
俺は、少しだけ息を吐いた。思ったより、緊張していたらしい。
「ナザレさん」
榊原さんが言った。
「はい」
「今の対応は、非常に良好でした」
「非常に」
「はい」
「評価ですか」
「評価です」
「嬉しいです」
「ただし、田村さんの試し方は不適切です」
「悪かったって」
田村さんが言った。
「本当に危険でした」
「分かってる」
「次は事前に相談してください」
「次はないだろ」
「次がないようにしてください」
「はいはい」
奥さんが田村さんを見た。
「はいは一回」
「はい」
田村さんが素直に言った。奥さんは本当に強い。
食事が終わると、俺は皿を運ぶのを手伝った。
ワインの空き瓶も持った。軽かった。
中身がなくなった瓶。それでも、瓶としては残る。
「これは捨てますか」
俺が聞くと、奥さんが言った。
「資源ごみね」
「資源」
「洗って、分別するの」
「祀らない」
「祀らない」
「飾らない」
「飾らない」
「資源ごみ」
「そう」
俺は少し笑った。
「かなりいいですね」
「そう?」
「はい。空き瓶が資源ごみになるのは、かなり安心します」
「変な感想ね」
「でも、大事です」
奥さんは笑った。
「じゃあ、ちゃんと洗って」
「はい」
俺は瓶を洗った。
水を入れる。振る。流す。水は水のまま。
赤い色が少しずつ薄くなっていく。最後に透明になる。
それを見ていると、少し心が落ち着いた。
ワインはなくなった。瓶は洗われた。資源ごみになる。
それでよい。奇跡はいらない。
食後、居間で茶を飲んだ。田村さんは少し眠そうだった。爺さんは普通に茶を飲んでいた。
榊原さんは資料を出しかけて、奥さんに止められた。
「今日はもう仕事しない」
「ですが」
「今日は終わり」
「はい」
榊原さんは資料をしまった。強い。
俺はその様子を見て、少し笑った。
「榊原さんも、奥さんに止められますね」
「はい」
「評価ですか」
「違います」
「安心しました」
「なぜ」
「榊原さんを止める人もいるので」
榊原さんは、少し黙った。
「それは」
「はい」
「たしかに、必要かもしれません」
珍しい答えだった。
田村さんが半分眠そうに言った。
「法務さんを止めるのは、うちの奥さんだな」
「余計なことを言わない」
奥さんが言った。
「はい」
また止められた。
その夜、俺たちは近くの宿へ戻った。
田村家に泊まることはしなかった。
聖地化を避けるため。過度な依存を避けるため。そして、田村家を田村家のままにするため。
車の中で、榊原さんが言った。
「今日は、重要な確認になりました」
「ワインですか」
「はい」
「なくなったものを、なくなったままにできるか」
「はい」
「俺は、できましたか」
「できました」
「非常に良好?」
「はい」
俺は少し笑った。
「嬉しいです」
「ただし、今後も同様に注意が必要です」
「はい」
「特に、誰かが意図的に試す場合」
「田村さんですね」
「はい」
「悪気はないんですが」
「悪気の有無と危険性は別です」
「法務さんですね」
「はい」
宿に着き、部屋に入る。俺は手を洗い、椅子に座った。
ワインの味が少し残っている気がした。だが、もうワインはない。
空き瓶は洗われ、田村家で資源ごみになる。
それが、とてもよかった。
神の子、家なき子。
伊佐留神候補。
今日はワインがなくなった。そして、水はワインにならなかった。
なくなったものを、なくなったままにする。
それは、奇跡を起こすより難しいことだった。
でも、少しできた。
俺はそれを、田村家の空き瓶で学んだ。




