第33話 祈りが届きますように
「私は掃除中です」は、思ったより強かった。
神社へ来る人が少し増えた。急激に増えたわけではない。
榊原さんと爺さんが、かなり絞っているからだ。
地元の人。たまたま来た観光客。田村さん経由で事情を知っている数人。そして、事前申請をした教会関係者が、少し。
そのくらいだった。
それでも、来る人が増えると、願いも増える。
社の前で手を合わせる人。木箱のある裏の空き地を、遠くから見る人。爺さんに話しかける人。俺を見て、何か言いたそうにする人。
そういう人が、少しずつ増えた。
俺は、基本的に掃除をしていた。
箒を持っていると、話しかけられにくい。それでも話しかけられたら、言う。
「こんにちは」
「写真はご遠慮ください」
「詳しいことは神社側にお願いします」
「私は掃除中です」
かなり短い。だが、効く。
神学に入らない。救いに入らない。奇跡に入らない。掃除に戻る。
爺さんは言った。
「箒は結界みたいなもんだな」
「結界」
「お前が神さまになりすぎるのを止める」
「箒が?」
「そうだ」
榊原さんは少し考えてから言った。
「比喩としては有効です」
「法務さんのお墨付きだ」
「お墨付きではありません」
「評価か」
「限定的評価です」
爺さんは笑った。
俺は箒を見た。
ただの箒。竹と枝でできた、掃くための道具。
だが、確かにこれを持っていると、俺は少し人間に戻る。
救い主ではなく。奇跡を起こす者ではなく。掃除するやつ。
それで済む。
その日、朝から雨が降っていた。
強い雨ではない。細かく、静かな雨だった。
参道の落ち葉は濡れていて、掃きにくい。
爺さんは、無理に掃くなと言った。
「濡れた葉は重い」
「はい」
「乾いてからの方がいい」
「はい」
「何でも今すぐ動かそうとするな」
「掃除の話ですよね」
「掃除の話だ」
榊原さんが横でメモを取った。
「記録します」
「掃除の話ですよ」
「掃除の話です」
最近、掃除の話はだいたい掃除だけでは終わらない。
だが、それを言うと重くなるので、俺は黙った。
午前中、社務所に女性が来た。
地元の人ではない。年齢は三十代くらい。黒っぽい服を着ている。
傘を丁寧に畳み、鳥居の前で頭を下げ、社に手を合わせてから、社務所へ来た。
榊原さんがすぐに対応する。
「ご用件を伺います」
女性は少し緊張した顔をしていた。
「あの、事前に問い合わせた者です」
「お名前を確認します」
榊原さんが確認する。
事前申請済みの来訪者だった。
教会関係者ではない。研究者でもない。報道でもない。
ただ、来たい理由の欄に、こう書いてあったらしい。
祈りを置きたい。
榊原さんは、その申請をかなり慎重に見ていた。今日、許可された。ただし条件付き。
写真なし。録音なし。宗教的質問なし。俺への直接接触なし。相談対応ではない。祈願成就を約束しない。滞在時間は短く。
かなり細かい。女性は、それをすべて了承していた。
社務所の中に入ると、爺さんが茶を出した。
「お茶代は」
女性が言いかけた。
榊原さんが言った。
「本日は不要です」
「いいんですか」
「はい。今日は面談ではなく、参拝です」
「参拝」
「はい」
「ただし、祈願受付ではありません」
「はい」
女性は、少しだけうなずいた。
俺は少し離れた場所で、箒を持っていた。掃除中ではない。雨で掃除はできない。
だが、箒は持っている。結界らしいからだ。
女性は、ちらりと俺を見た。そして、すぐに視線を下げた。かなり礼儀正しかった。
「祈りを置く場所だと聞きました」
女性が言った。
爺さんが答えた。
「そうだな」
「願いを叶える場所ではない、と」
「そうだ」
「それでいいんです」
女性は小さく言った。
「叶えてほしいわけでは、もうないんです」
社務所が静かになった。榊原さんは、何も言わなかった。爺さんも茶を飲まなかった。
「何かを願っていたんですか」
爺さんが聞いた。
女性は少し黙った。
「子どもが病気でした」
俺の手に力が入った。箒の柄が、少し鳴った。
榊原さんが、俺を見た。
止まれ。その目だった。
俺は、止まった。
女性は続けた。
「いろんな神さまにお願いしました。病院にも行きました。できることは、たぶんしました」
「はい」
爺さんが静かに言った。
「でも、亡くなりました」
言葉が、部屋に落ちた。
雨の音がした。
俺は、動かなかった。動いてはいけない。
もう、治せない。過去を変えられない。奇跡でどうにかできる話ではない。
それに、俺が触れてはいけない。
女性は淡々としていた。泣いてはいなかった。だが、泣くよりもずっと疲れているように見えた。
「叶わなかったのに、まだ祈りだけが残っていて」
女性は言った。
「それをどこに置けばいいのか、分からなくて」
爺さんは、しばらく黙った。それから言った。
「ここに置いていけばいい」
「いいんですか」
「置くだけならな」
「叶えてもらうわけでは」
「ない」
「意味がありますか」
「知らん」
爺さんはあっさり言った。
「だが、持って帰るのが重いなら、少し置いてけ」
女性は、少しだけ顔を歪めた。それでも泣かなかった。泣かないようにしているのが分かった。
爺さんは続けた。
「神さまが叶えなかった理由は、ここでは説明しない」
「はい」
「誰が悪かったかも決めない」
「はい」
「信仰が足りなかったとも言わない」
女性の肩が、少し震えた。
「はい」
「ただ、重いなら置いてけ」
それは、かなり強かった。
俺は、箒を握っていた。
助けたい。何か言いたい。あなたの祈りは聞かれていた、と言いたい。
でも、言えない。
俺が言えば、重くなる。俺が言えば、その言葉は教義になりかねない。俺が言えば、届かなかったすべての祈りが、俺に向かってくる。
だから、黙る。
榊原さんが、静かに俺の方へ来た。小さな声で言った。
「ナザレさん」
「はい」
「今は、爺さんが対応しています」
「はい」
「あなたは、掃除中です」
「雨で掃除できません」
「それでも、掃除中です」
「はい」
俺は息を吐いた。
そうだ。俺は掃除中だ。
神ではない。答えではない。奇跡ではない。
箒を持っている。
爺さんが女性を社の裏へ案内した。
木箱のある空き地。伊佐留神の候補地。御神体ではない書類が置かれた場所。
女性は、そこで少し立ち止まった。
傘を閉じ、雨に少し濡れながら、手を合わせた。声は出さなかった。
俺たちは少し離れて見ていた。
かなり長い時間だった。でも、誰も急かさなかった。
やがて女性は、手を下ろした。顔を上げた。
泣いていた。静かに。
爺さんが言った。
「茶、もう一杯飲んでけ」
女性は、うなずいた。
社務所に戻る。爺さんが茶を出す。榊原さんは、黙って小さなタオルを差し出した。
女性はそれを受け取った。
「ありがとうございます」
「いえ」
俺は、まだ箒を持っていた。
女性は俺を見た。今度は、さっきより長く。
だが、祈るような目ではなかった。確認するような目だった。
「あの」
女性が言った。
榊原さんが少し動いた。
女性はすぐに首を振った。
「質問ではありません」
「はい」
「ただ」
女性は、俺を見た。
「そこにいてくれて、ありがとうございます」
俺は、何も言えなかった。
かなり危ない。
この言葉に、答えようとすると危ない。
俺は、救いの言葉を探してしまう。祈りの言葉を探してしまう。
でも、ここで必要なのはたぶん、それではない。
俺は、箒を少し持ち直した。
「私は、掃除中です」
女性は、一瞬だけ驚いた。それから、少し笑った。
「はい」
爺さんが茶をすすった。榊原さんは、かなり小さく息を吐いた。
合格だったらしい。
女性はもう一杯茶を飲み、頭を下げて帰っていった。
雨の中、参道を降りていく。鳥居の前で、もう一度頭を下げる。そして、車に乗って去っていった。
社務所には、雨の音だけが残った。
「よく黙った」
爺さんが言った。
「はい」
「危なかったな」
「かなり」
榊原さんが言った。
「かなり危険でした」
「俺は、何か言いそうでした」
「分かっていました」
「止めてくれて、ありがとうございます」
「どういたしまして」
俺は、箒を見た。
「私は掃除中です、でよかったんでしょうか」
「よかった」
爺さんが言った。
「かなりよかったです」
榊原さんも言った。
「なぜ」
「慰めの言葉を言わなかったからです」
榊原さんは言った。
「慰めてはいけなかったんですか」
「してはいけないわけではありません。ただ、あなたが言うと重すぎます」
「はい」
「彼女は、祈りを置きに来ました。答えを受け取りに来たわけではありません」
「はい」
「だから、答えないことが適切でした」
答えないことが適切。
かなり難しい。だが、今日の女性には、たぶんそうだった。
彼女は答えが欲しかったのではない。理由が欲しかったのでもない。奇跡が欲しかったのでもない。
叶わなかった祈りを、どこかに置きたかった。
その場所として、ここがあった。
それで十分だったのかもしれない。
「爺さん」
「何だ」
「祈りは、置いていけるんですね」
「置いていけることもある」
「全部ではなく」
「全部じゃない」
「軽くなることも」
「ある」
「叶わなくても」
「ある」
爺さんは、湯呑みを置いた。
「叶わなかった願いは、行き場をなくすことがある」
「はい」
「それを人間がずっと持ってると、重い」
「はい」
「ここは、その重さを少し置く場所でいい」
「はい」
「叶える場所じゃねえ」
「はい」
「説明する場所でもねえ」
「はい」
「置く場所だ」
置く場所。
何度も聞いた言葉だった。でも、今日は初めて少し分かった気がした。
昼過ぎ、雨は弱くなった。
濡れた落ち葉は重い。だが、少しだけ参道の端を整えることにした。
俺は箒を持った。水を含んだ葉は、確かに重かった。乾いた葉のようには動かない。無理に掃くと、地面に張り付く。
「力を入れすぎるな」
爺さんが言った。
「はい」
「濡れた葉は、少し待つ」
「はい」
「乾いたら動く」
「はい」
掃除の話だ。今日は本当に掃除の話だった。
いや、たぶんそれだけではなかった。
女性の祈りも、濡れた落ち葉のようだった。
今すぐ動かそうとすると、破れる。少し待つ。置く。ほどけるまで待つ。
それしかできないことがある。
夕方、榊原さんが今日の記録をまとめた。
来訪者対応。祈りを置く目的での来訪。本人接触なし。宗教的回答なし。
ナザレさんの状態。感情負荷、高。介入欲求、強。制止に応じた。定型文「私は掃除中です」により、過度な宗教的応答を回避。
「かなり書かれていますね」
「重要な事例です」
「俺の介入欲求、強」
「強でした」
「はい」
「ただし、制止に応じました」
「評価ですか」
「評価です」
「嬉しいですが、少し痛いです」
「はい」
「でも、必要な痛さですね」
「そう思います」
爺さんが言った。
「今日は、よくやった」
「俺がですか」
「そうだ」
「何もしていません」
「それがよかった」
何もしなかったことを褒められる。それは、かなり不思議だった。
でも、嬉しかった。
社の裏の空き地へ行く。木箱がある。雨で少し周囲の土が湿っている。
榊原さんが防水状態を確認した。問題ないらしい。
俺は、少し離れて立った。
手は合わせなかった。声にも出さなかった。
ただ、心の中で思った。
今日ここに置かれた祈りが、乱暴に扱われませんように。叶わなかった願いが、誰かの罪にされませんように。あの人が、少しでも眠れますように。
子どもの名前も知らない。事情もすべては知らない。だから、詳しく祈らない。
ただ、祈りが届きますように。
それだけだった。
榊原さんが隣に来た。
「声に出しましたか」
「出していません」
「何を祈ったかは」
「言わない方がいい気がします」
「適切です」
「評価ですか」
「評価です」
少し沈黙があった。雨上がりの匂いがした。
「榊原さん」
「はい」
「祈りが届くことと、願いが叶うことは違いますね」
「はい」
「今日は、それが少し分かりました」
「記録します」
「はい」
「かなり重要です」
「はい」
帰り道、田村さんからメッセージが来た。榊原さんが確認する。
「『今日は重かったらしいな』」
「早いですね」
「爺さんでしょう」
「何と返しますか」
榊原さんは少し考えた。
「『対応済みです』」
送信。すぐに返ってきた。
「『飯食わせろ』」
俺は少し笑った。田村さんらしい。
榊原さんは返信した。
「『食事はこれからです』」
また返ってきた。
「『重い日は味噌汁だ』」
榊原さんは端末を伏せなかった。珍しく、返信した。
「『同意します』」
俺は驚いた。
「榊原さんが同意しました」
「必要です」
「味噌汁が」
「はい」
その夜、俺たちは宿で味噌汁を飲んだ。温かかった。
今日の女性のことを、俺は忘れないと思う。
だが、背負いすぎてはいけない。
彼女の祈りは、彼女のものだ。俺が奪ってはいけない。俺が答えにしてはいけない。
ここに少し置かれた。それで、彼女がまた少し歩けるならいい。
神の子、家なき子。
伊佐留神候補。
今日は、叶わなかった願いを見た。
何も叶えなかった。何も説明しなかった。ただ、掃除中だった。
そして、声に出さずに願った。
祈りが届きますように。




