第32話 神主として答えます
神父様がお茶代を置いて帰ってから、神社には少しだけ噂が増えた。
もちろん、榊原さんは外への情報流出を強く警戒していた。
神父様にも、通訳の男性にも、写真、録音、投稿は禁止。領収書も聖遺物にしない。お茶代はお茶代。
何度も確認した。
それでも、人が動けば、気配は残る。
田村さんは知っていた。爺さんも知っていた。神社の近くの宿の女将さんも、たぶん何かを察していた。地元の人も、見慣れない外国人の神父が来たことくらいは見ている。
噂は、必ずしも悪意ではない。だが、噂は勝手に歩く。
そこが危ない。
「当面、来訪者対応を整理します」
榊原さんはそう言った。
「来訪者対応」
「はい」
「俺が対応するんですか」
「原則、しません」
「原則」
「はい。例外的に対応する場合も、私か爺さんの同席が必要です」
「一人では」
「不可です」
「厳しい」
「必要です」
社務所の机の上には、新しい書類が置かれていた。
来訪者対応方針案。かなり硬い。
だが、最近はこの硬さを見ると少し安心するようになってきた。
硬い書類は、俺を守る。俺を人間サイズに畳む。
かなり変な安心だが、安心は安心だった。
「主な想定来訪者は」
榊原さんが読み上げる。
「地元住民、観光客、教会関係者、報道関係者、研究者、宗教系インフルエンサー、陰謀論者、迷惑系配信者」
「最後の方がかなり危険ですね」
「はい」
「研究者も危険ですか」
「内容によります」
「宗教系インフルエンサー」
「危険です」
「陰謀論者」
「非常に危険です」
「迷惑系配信者」
「絶対に接触させません」
「強い」
「必要です」
爺さんは茶を飲みながら聞いていた。
「神社に来るやつ、そんなに分類するのか」
「必要です」
「面倒だな」
「はい」
「昔は、来たやつは来たやつだったぞ」
「今は撮影と拡散があります」
「あれは面倒だな」
「非常に」
爺さんは俺を見た。
「外来種、お前、撮られると増えるぞ」
「俺がですか」
「お前の話がだ」
「はい」
「だから撮られるな」
「分かりました」
俺は、かなり素直に頷いた。
写真は危険。動画はもっと危険。これはもう学んだ。
神父様の訪問後、最初に来たのは地元の年配の男性だった。
近所の人らしい。爺さんとは顔見知りだった。
「おう、今日は若いのがいるな」
男性は俺を見て言った。
「新入りです」
爺さんが答えた。
「外国の人かい」
「はい」
俺は答えた。
「日本語うまいな」
「勉強しました」
天啓とは言わない。もうかなり身についている。
「ここで働くのかい」
男性が聞いた。
俺は榊原さんを見た。榊原さんが答えた。
「現在、神社の掃除や修理をお手伝いする可能性について確認中です」
「確認中」
「はい」
「法務さんかい?」
男性が榊原さんを見た。榊原さんは少し止まった。
「はい」
「やっぱりな。言い方が役所より硬い」
「役所ではありません」
「そうかい」
男性は笑った。
「まあ、人手があるのはいいことだ。爺さんも年だしな」
「年ではない」
爺さんが言った。
「年だろ」
「お前よりは若い」
「嘘つけ」
地元の会話だった。俺はそれを聞いていた。
誰も俺を神だとは言わない。誰も救いを求めない。
若い外国人の新入り。それくらいで済む。
とてもありがたかった。
男性は社に手を合わせ、帰っていった。榊原さんが記録する。
「地元住民対応、問題なし」
「評価ですか」
「評価です」
「嬉しいです」
「ただし、あなたはほとんど話していません」
「それが良かったのでは」
「はい」
その次に来たのは、若い女性二人組だった。
観光客らしい。御朱印があるか聞いてきた。
爺さんが面倒そうな顔をした。
「御朱印はやってない」
「そうなんですか」
「やってない」
「残念」
女性たちは少しだけ社を見て、写真を撮ろうとした。
榊原さんがすぐに声をかけた。
「すみません。社務所周辺と関係者の撮影はご遠慮ください」
「あ、すみません」
「境内の風景のみで、人物が映らない範囲でお願いします」
「分かりました」
対応が速い。かなり速い。
女性たちは、社だけを撮って帰っていった。
俺は感心した。
「榊原さん、かなり自然でした」
「自然ではなく、対応です」
「対応が自然でした」
「ありがとうございます」
「評価です」
「評価しないでください」
「はい」
爺さんが言った。
「法務さんを置いとくと、御朱印より効きそうだな」
「効能を掲げないでください」
「ほら、効いた」
「効いていません」
俺は笑った。
午後になって、少しややこしい客が来た。
中年の男性だった。首からカメラを下げ、リュックを背負っている。
観光客にも見えるが、目が少し違った。何かを探している目だった。
俺を見た瞬間、男性の目が止まった。
「あなた、もしかして」
来た。
榊原さんが半歩前に出た。
「何かご用でしょうか」
「いや、ネットで少し見て。ここに外国人の神様みたいな人がいるって」
空気が少し変わった。噂が、もう外へ少し漏れている。
榊原さんの声が低くなった。
「当神社では、そのような案内はしておりません」
「でも、キリスト関係とか」
「そのような案内はしておりません」
「写真だけ」
「撮影はご遠慮ください」
「いや、顔出さないんで」
「ご遠慮ください」
「取材とかじゃないですよ」
「ご遠慮ください」
かなり強い。同じ言葉を、表情を変えずに繰り返す。
男性は少し不満そうだった。
「じゃあ、本人に聞いても?」
「関係者への直接質問はご遠慮ください」
「関係者って、この人?」
「ご遠慮ください」
爺さんが、箒を持ったまま近づいてきた。
「兄ちゃん」
「はい?」
「ここはそういう場所じゃねえ」
「いや、でも」
「そういう場所じゃねえ」
爺さんの声は大きくなかった。だが、かなり通った。
男性は少し黙った。
「参拝するならしてけ。撮るなら帰れ」
かなり雑だが、分かりやすい。
男性は不満そうにしながらも、スマホをしまった。
「分かりましたよ」
そして、軽く社に手を合わせ、すぐに帰っていった。
車が出ていくまで、榊原さんは見ていた。
「大丈夫ですか」
俺が聞く。
「分かりません」
「また来ますか」
「可能性はあります」
「撮られましたか」
「確認できる範囲では撮られていません」
「噂は」
「すでに一部出ている可能性があります」
榊原さんは端末を取り出した。
「監視を強めます」
「すみません」
「あなたが謝ることではありません」
「でも」
「噂は、人が勝手にします」
爺さんが言った。
「外来種が謝っても、噂は減らん」
「はい」
「だから、扱い方を決めたんだろ」
「はい」
俺は社の裏の方を見た。
書類の入った木箱がある。御神体ではない。扱い方を置いたもの。
今日、その意味が少し分かった。
噂が来る。人が来る。撮ろうとする。聞こうとする。
それに対して、俺が毎回自分で反応していたら壊れる。
だから、扱い方が必要なのだ。
夕方、榊原さんは臨時の対応方針を作った。
撮影禁止範囲。来訪者への定型文。問い合わせ先。報道対応不可。宗教的質問への回答不可。俺の接触禁止。
爺さんの雑な説明を、榊原さんが文章にする。かなり不思議な作業だった。
「神主として答えます」
榊原さんが、ふとそう言った。
俺は顔を上げた。
「神主?」
「正確には、爺さんの立場です」
「爺さんが?」
「はい。外部から宗教的な質問をされた場合、ナザレさん本人ではなく、神社側の管理者として答える必要があります」
「爺さんが神主として答える」
「はい」
爺さんが茶を飲みながら言った。
「俺、神主なのか」
「形式上の確認は必要です」
「また確認か」
「必要です」
「まあ、答えるのはいいぞ」
「定型文を作ります」
「硬いやつか」
「はい」
「もっと短くしろ」
榊原さんは少し考えた。
「では、こうです」
彼女はメモを読み上げた。
「ここでは、伊佐留神は願いを直接叶える神としてではなく、祈りを乱暴に扱わず、ほどけるまで置くための神としてお祀りする準備をしています。詳しい宗教的解釈やキリスト教との関係については、お答えしていません」
「長い」
爺さんが言った。
「これでも短いです」
「もっと短く」
「では」
榊原さんは、少しだけ眉を寄せた。
「ここは願いを叶える場所ではなく、祈りを置く場所です。詳しいことは答えません」
「それでいい」
爺さんが言った。
「かなり短くなりました」
「短い方が覚えやすい」
「ただし、誤解が」
「法務さんが後で補足しろ」
「私が」
「得意だろ」
「得意ではなく、必要だからやっています」
「それを得意って言うんだ」
俺は横で聞いていた。
ここは願いを叶える場所ではなく、祈りを置く場所です。詳しいことは答えません。
かなり良かった。
説明しすぎない。でも、何も言わないわけではない。願いを叶える神ではない。祈りを置く場所。
「俺も、それを言っていいですか」
「いいえ」
榊原さんが即答した。
「俺のことなのに」
「本人が言うと重くなります」
「そうでした」
「これは、神主側の説明です」
「爺さんが」
「はい」
「神主として」
「はい」
爺さんが笑った。
「神主として答えます、か」
「はい」
「じゃあ、練習するか」
爺さんは、急に姿勢を正した。かなり雑だが、それなりに見える。
「ここは願いを叶える場所ではありません。祈りを置く場所です。詳しいことは答えません」
短い。かなり短い。だが、爺さんが言うと妙に強い。
榊原さんが頷いた。
「良いと思います」
「評価か」
「評価です」
「法務さんに評価されたぞ」
爺さんが少し嬉しそうだった。俺は笑った。
「爺さん、嬉しそうですね」
「評価されたからな」
「俺と同じですね」
「一緒にするな。外来種」
「はい」
そのあと、俺も来訪者対応の練習をさせられた。
ただし、俺が答える内容は非常に少ない。
「こんにちは」
「写真はご遠慮ください」
「詳しいことは神社側にお願いします」
「私は掃除中です」
最後の一文がかなり強かった。
「私は掃除中です」
俺は繰り返した。
「はい」
榊原さんが言う。
「宗教的質問を受けても、掃除中です、と言って離れてください」
「掃除中は強いですね」
「強いです」
「神学より強い」
「場合によります」
「では、俺は掃除中です」
「はい」
爺さんが笑った。
「キリスト本人に、私は掃除中ですって言わせるの、法務さん強すぎるな」
「本人とは断定していません」
「そこからか」
「必要です」
夕方になり、俺は参道をもう一度掃いた。
今日は少し疲れた。噂が来た。撮影しようとする人が来た。
それを榊原さんと爺さんが止めた。俺はあまり何もしなかった。
それでよかった。
俺が答えると、重くなる。俺が黙ると、少し不安になる。
だから、爺さんが神主として答える。榊原さんが法務として補足する。俺は掃除中ですと言う。
かなり変だが、かなり実用的だった。
帰る前、爺さんが言った。
「外来種」
「はい」
「今日はよく黙った」
「評価ですか」
「評価だ」
「嬉しいです」
「でも、黙るだけじゃなくて、掃け」
「はい」
榊原さんも言った。
「今日の対応は概ね良好です」
「概ね」
「一度、男性の質問に答えかけました」
「すみません」
「でも、止まりました」
「はい」
「改善傾向です」
「嬉しいです」
社の裏にある木箱の前で、俺は少し頭を下げた。声には出さなかった。
祈りを置く場所。願いを叶える場所ではない。詳しいことは答えない。
その短い言葉が、今日の俺を守ってくれた気がした。
帰りの車で、田村さんからメッセージが来た。榊原さんが読んだ。
「『爺さん、神主として答えますって言ったらしいな』」
「情報が早すぎませんか」
「早すぎます」
「田村さん、どこから」
「おそらく爺さんです」
「爺さんが」
「はい」
続きが来た。
「『ナザレは掃除中です、で逃げろ』」
俺は笑った。
「田村さんも同じことを」
「有効だからです」
さらに来た。
「『神の子、ただいま掃除中。これで看板作れ』」
榊原さんは端末を伏せた。
「返信を終了します」
「看板は」
「作りません」
「少し見たいです」
「作りません」
神の子、家なき子。
伊佐留神候補。
今日は、神主として答える爺さんと、法務として止める榊原さんに守られた。
俺は、掃除中です、と言う練習をした。
奇跡を求められた時に。教義を求められた時に。救いを求められた時に。
今は掃除中です。
それは逃げではない。少なくとも、今日のところは、かなり強い答えだった。




