第31話 お茶代です
書類を奉納してから、神社の空気が少し変わった。
大きく変わったわけではない。
鳥居は同じ。参道も同じ。爺さんも同じように掃除している。社も、小さな社務所も、欠けた湯呑みも、直しかけの棚も変わらない。
だが、社の裏の空き地に、木箱が一つ置かれた。
中には、榊原さんの書類が入っている。御神体ではない。奉納前整理書である。
榊原さんは、毎回そう言う。
だが、爺さんは普通に「書類の神さま」と呼び始めた。田村さんは「御神体書類」と言い始めた。
俺は、そのたびに榊原さんを見る。榊原さんは、そのたびに訂正する。
「御神体ではありません」
その訂正まで含めて、神社の運用になりつつあった。
かなり不思議だった。
その日、俺たちは朝から神社にいた。
俺は参道を掃き、爺さんは社務所の奥で何かを探し、榊原さんは机の上で書類を整理していた。
社務所の窓から、柔らかい光が入っている。湯呑みには茶が入っている。
俺は箒を持ちながら言った。
「榊原さん」
「はい」
「ここに来ると、だいぶ落ち着きます」
「記録します」
「言うと思いました」
「重要です」
「依存傾向ですか」
「その確認も含みます」
「厳しい」
「必要です」
爺さんが奥から言った。
「ほっとする場所が一つくらいあってもいいだろ」
「はい。ただし、過度な依存は避ける必要があります」
「法務さんは、ほっとするのも書類にするな」
「必要です」
「まあ、必要か」
最近、爺さんも「必要です」に少し慣れてきた。榊原さんも、爺さんの雑さに少し慣れてきた。
俺は、その間で箒を持っている。かなり良い配置だと思う。
昼前、参道の下に人影が見えた。
知らない車が一台、駐車スペースに入ってくる。中から、黒い服の男性が降りた。
外国人だった。もう一人、日本人の男性もいる。
黒い服の外国人。聖職者の気配。
俺は、箒を持ったまま固まった。
榊原さんはすぐに立ち上がった。爺さんは、特に驚かなかった。
「来たか」
「知っていたんですか」
榊原さんが聞く。
「田村から聞いた」
「田村さん」
また田村さんだった。
外国人の男性は、静かに鳥居の前で立ち止まった。頭を下げた。
それから、ゆっくり参道を上がってくる。日本人の男性が通訳なのか、案内役なのか、少し後ろを歩いている。
俺は男性を見た。
神父様ではない。ローマで会った人でもない。だが、教会の人だと分かる。
向こうも俺を見た。目が合った。
男性は、息をのんだようだった。それから、深く頭を下げた。かなり深かった。
俺は反射的に何か言いかけた。
榊原さんが横から小さく言った。
「ナザレさん」
「はい」
「今は、神社の掃除中です」
その一言で、俺は助かった。
今は、神社の掃除中。
俺は神の子ではない。伊佐留神そのものでもない。
箒を持っている。掃除するやつだ。
「こんにちは」
俺は言った。
男性は、少し震える声で言った。
「こんにちは」
日本語だった。かなり練習したような発音だった。
日本人の男性が小さく補足した。
「イタリアから来られた神父様です。非公式の訪問です」
榊原さんがすぐに言った。
「事前連絡は受けています。ただし、本日は見学および面談のみです」
「承知しています」
日本人男性が答えた。
「写真撮影は」
「行いません」
「録音は」
「行いません」
「SNS投稿は」
「行いません」
「寄付金の扱いは」
そこで、日本人男性が少し詰まった。
神父が、持っていた封筒を差し出した。
「少しですが」
榊原さんの目が鋭くなった。
「名目を確認します」
空気が止まった。神父も、日本人男性も、俺も止まった。
爺さんだけが茶をすすっていた。
「名目」
神父が、日本語で繰り返した。
「はい」
榊原さんは言った。
「これは玉串料ではありません」
「はい」
「献金でもありません」
「はい」
「伊佐留神への奉納でもありません」
「はい」
「神社の維持管理費でもありません」
「はい」
「本日、社務所でお茶をお出しする場合、そのお茶代としてであれば受領を検討できます」
神父は、日本人男性を見た。日本人男性は、少し困った顔で通訳した。
神父は、真剣に聞いた。そして、封筒を少し下げた。
「お茶代」
「はい」
「ティー」
「はい」
「チャ」
「はい」
神父は、少しだけ笑った。
「お茶代です」
かなり丁寧な日本語だった。
榊原さんは頷いた。
「承りました。ただし、金額を確認し、過大であれば返却します」
「過大」
「多すぎる場合です」
「はい」
「お茶代として妥当な範囲にしてください」
神父は、封筒を一度開けた。中から紙幣を何枚か取り出し、かなり減らした。
日本人男性が小声で何か言った。神父はさらに一枚抜いた。
爺さんが笑った。
「法務さん、神父からお茶代まで絞るのか」
「必要です」
「強いな」
「必要です」
神父は、改めて封筒を差し出した。
「お茶代です」
榊原さんはそれを受け取った。
「ありがとうございます。領収書を発行します」
「領収書」
神父が少し驚いた。
「はい」
「お茶代の」
「はい」
俺は、箒を持ったまま笑いそうになった。
いや、笑ってはいけない。神父が真剣だからだ。
だが、かなり不思議だった。
イタリアから来た神父が、日本の小さな神社で、俺に会い、玉串料でも献金でも奉納でもなく、お茶代を渡す。
そして、榊原さんが領収書を発行する。
現代は、本当に難しい。でも、かなり綺麗だった。
社務所に入る。爺さんが茶を淹れた。湯呑みはいつもの欠けたものではなく、少しまともなものだった。
「今日は客だからな」
爺さんが言った。
「いつも欠けた湯呑みなのは」
「お前らはもう客じゃねえだろ」
俺は少し黙った。
客ではない。では何か。
新入り。掃除するやつ。候補。
かなり嬉しい気もした。
社務所の机を挟んで、神父と向かい合う。
榊原さんは隣に座る。日本人男性は通訳として横にいる。
爺さんは少し離れた場所で茶を飲んでいる。だが、全部聞いている顔だった。
神父は、しばらく俺を見ていた。言葉を探しているようだった。
「あなたを、何と呼べばよいでしょうか」
神父が言った。かなり丁寧な日本語だった。
俺は少し考えた。
「ここでは、ナザレでお願いします」
「ナザレ様」
榊原さんがすぐに言った。
「様は不要です」
神父は、少し驚いた。
「不要」
「はい。ナザレさん、でお願いします」
神父は頷いた。
「ナザレさん」
「はい」
その呼び方だけで、少し空気が軽くなった。
神父は震える手で湯呑みを持った。茶を飲む。少し熱かったらしい。
「おいしいです」
「それはよかった」
爺さんが言った。
「今日はお茶の話だ」
榊原さんが小さく息を吐いた。また便利な言葉が出た。
今日はお茶の話。つまり、神学にしすぎるな、ということだ。
神父は、机の上に置かれた木箱を見た。
「これが」
日本人男性が通訳しようとしたが、神父は自分で続けた。
「書類ですか」
俺は榊原さんを見た。榊原さんは頷いた。
「はい。奉納前整理書の控えです」
「御神体ではありません」
「はい」
神父が先に言った。榊原さんが少しだけ驚いた。
「ご理解いただけているようで助かります」
「事前に聞きました」
「誰から」
俺は聞いた。
神父は言った。
「教皇様から」
部屋が静かになった。爺さんが茶を飲む音だけがした。
教皇様。やはり知っていた。当たり前だ。神父が来る以上、どこかで話は通っている。
だが、教皇様から「御神体ではありません」と聞いていたのは、かなり面白い。
いや、面白がってはいけない。かなり重い。
神父は続けた。
「教皇様は、言いました。これは、教会の外で、彼を人として守るための試みである、と」
榊原さんの表情が少し変わった。
「そのように」
「はい」
「教皇様が」
「はい」
神父は、湯呑みを両手で持った。
「私は、確認に来ました」
「何をですか」
俺が聞く。
「あなたが、ここで苦しんでいないか」
俺は、すぐには答えられなかった。
苦しんでいないか。それは、とても単純で、とても重い質問だった。
ローマでは、俺が何者かが問われた。教会では、どう扱うかが問われた。教皇様からは、弟子や沈黙について問われた。
だが、この神父は、まず俺が苦しんでいないかを聞いた。
かなりまっすぐだった。
「苦しくありません」
俺は言った。
榊原さんがこちらを見た。本人申告だけでは判断しません、という顔だった。
俺は少し言い直した。
「苦しいことはあります。でも、ここでは息がしやすいです」
神父は黙って聞いていた。
「教会にいると、俺はすぐに大きくなりすぎます」
「はい」
「ここでは、箒を持てます」
「はい」
「掃除をします」
「はい」
「棚を直しました」
「はい」
「願いを全部叶えない練習もしています」
神父は、少しだけ困った顔をした。
「それは、かなり大切な練習ですね」
「はい」
「水をワインにしない練習も」
爺さんが横から言った。
「水の上も歩かせてねえぞ」
神父は、真剣な顔で頷いた。
「ありがとうございます」
爺さんが少し笑った。
「礼を言われることか」
「とても大切なことです」
神父は言った。
「あなたを、奇跡から守ってくださっている」
その言葉で、部屋の空気が少し変わった。
奇跡から守る。
榊原さんは、俺を危険から守っていた。俺自身からも守っていた。でも、それは奇跡から守ることでもあったのかもしれない。
奇跡を起こす俺。奇跡を求める人。奇跡を証明したい人。奇跡を利用したい人。
その全部から、俺を守る。
「神父様」
俺は言った。
「はい」
「奇跡は、悪いものではありません」
「はい」
「でも、今は、起こさない方がいいことが多いです」
「はい」
「それを、俺はここで学んでいます」
神父は、静かに頭を下げた。
「それを聞けて、安心しました」
榊原さんが、少しだけ息を吐いた。爺さんは茶をすすった。
「安心したなら茶を飲め」
「はい」
神父は茶を飲んだ。
今日はお茶の話。それで少し救われる。
神父は、しばらくしてから言った。
「教会の者が、ここへ来たいと言うかもしれません」
「来るでしょうね」
榊原さんが言った。
「その場合の受け入れ条件は、こちらで定めます」
「はい」
「個別事前申請」
「はい」
「写真、録音、投稿禁止」
「はい」
「祈祷会、ミサ、告解、聖餐などの宗教行為は不可」
「はい」
「金銭は玉串料でも献金でもなく、必要に応じてお茶代」
「はい」
「ナザレさんを主、キリスト、イエス様と呼ばない」
「はい」
「接触しない」
「はい」
「泣き崩れない」
神父が少し止まった。通訳の日本人男性も止まった。
「泣き崩れない」
「はい」
「必要ですか」
「必要です」
榊原さんは言い切った。
「感情的接触は、本人への負荷が高いです」
「はい」
「祈りや懺悔を一方的に投げない」
「はい」
「質問は事前提出」
「はい」
「回答義務はありません」
「はい」
「そのすべてを了承する方のみです」
神父は、深く頷いた。
「厳しいですね」
「はい」
「でも、必要ですね」
「はい」
神父は俺を見た。
「ナザレさん」
「はい」
「私は、あなたに懺悔したいことがたくさんあります」
榊原さんが動きかけた。だが、神父は手を上げた。
「しません」
榊原さんは止まった。
「今日は、お茶代です」
神父は言った。日本語の使い方が、かなり正しかった。
爺さんが声を出して笑った。
「分かってるじゃねえか」
「はい」
神父は、少しだけ笑った。
「今日は、お茶の話です」
俺も笑った。少しだけ。
神父は続けた。
「だから、私はお茶を飲みます。あなたが苦しくないと聞けました。それで十分です」
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
神父は頭を下げた。それから、木箱に向かっても軽く頭を下げた。
「これは御神体ではありません」
彼は言った。
「でも、大切な約束ですね」
榊原さんが静かに頷いた。
「はい」
「約束は、守られなければなりません」
「はい」
「教会側にも、守らせます」
その言葉は、かなり重かった。榊原さんは、少しだけ表情を引き締めた。
「ありがとうございます」
「教皇様も、そのつもりです」
教皇様。またそこへつながる。
だが、今日は不思議と怖くなかった。
教皇様は、俺を教会へ戻そうとしているのではない。少なくとも今は。
俺が教会の外で、人として息をしていることを、たぶん認めようとしている。
それは、かなりありがたかった。
面談は、一時間ほどで終わった。
神父は、泣き崩れなかった。懺悔もしなかった。祈りを投げなかった。写真も撮らなかった。
ただ茶を飲み、俺の様子を見て、約束を確認した。
榊原さんは領収書を渡した。但し書きには、こう書かれていた。
お茶代として。
神父はそれを、とても大切そうに受け取った。
「これは、持ち帰ります」
「経費処理には使わないでください」
榊原さんが言った。神父は少し笑った。
「分かりました」
「教会内での扱いにも注意してください」
「はい」
「これは聖遺物ではありません」
「はい」
「領収書です」
「はい」
かなり変な確認だった。だが、必要だった。
神父は鳥居の前で、もう一度深く頭を下げた。そして、俺に言った。
「ナザレさん」
「はい」
「また、お茶を飲みに来てもよろしいですか」
俺は榊原さんを見た。榊原さんは少し考えた。
「事前申請のうえ、条件を守っていただけるなら」
神父は笑った。
「はい」
俺も答えた。
「お待ちしています」
神父は、少し泣きそうな顔をした。だが、泣き崩れなかった。
かなり頑張ったのだと思う。
車が去る。参道が静かになる。
爺さんが言った。
「教会のやつも、茶を飲めば少し落ち着くな」
「はい」
榊原さんが言った。
「お茶代の処理は重要です」
「そこか」
「そこです」
「まあ、そこだな」
爺さんは笑った。
俺は鳥居の方を見た。
教会関係者が来た。だが、教会にはならなかった。神社のままだった。
ミサもない。懺悔もない。玉串料も献金もない。
お茶代だけがあった。
それは、かなり綺麗な切り分けだった。
「榊原さん」
「はい」
「お茶代というのは、すごいですね」
「名目は重要です」
「はい」
「名目が違うと、意味が変わります」
「はい」
「意味が変わると、関係が変わります」
「その通りです」
「今日は、教会の人が来たのではなく」
「はい」
「お茶を飲みに来た人がいた」
「完全にはそうではありませんが、運用上はかなり近いです」
「便利ですね、運用」
「便利です」
爺さんが湯呑みを片付けながら言った。
「次から、教会のやつが来たら茶を濃くするか」
「なぜですか」
「泣き崩れそうなら、熱い茶で止まるだろ」
「危険です」
榊原さんが即答した。
「冗談だ」
「冗談でも危険です」
「法務さん、強いな」
「必要です」
俺は笑った。
その日の夕方、田村さんからメッセージが来た。榊原さんが読む。
「『神父様からお茶代取ったって本当か』」
「早いですね」
「田村さんの情報網は危険です」
「何と返しますか」
榊原さんは少し考えた。
「『適切に処理しました』」
送信。すぐ返事が来た。
「『さすが法務さん。神の国より会計が強い』」
榊原さんは端末を伏せた。
「返信を終了します」
「今日は負けが早いですね」
「終了です」
俺は笑った。
神の子、家なき子。
伊佐留神候補。
今日は、教会の神父が神社で茶を飲み、お茶代を置いていった。
玉串料でもない。献金でもない。奉納でもない。
お茶代。
その名目のおかげで、教会は教会のまま、神社は神社のまま、人は人のまま、少しだけ同じ机につけた。
現代は難しい。
だが、名目を間違えなければ、座れる場所がある。
俺はそれを、欠けていない湯呑みで学んだ。




