第30話 御神体は書類です
伊佐留神候補。
その呼び方は、思ったより早く周囲に広がった。
もちろん、外には出していない。
田村さん、爺さん、榊原さん、俺。
せいぜい山辺先生と神父様に、限定的に共有された程度だ。
それでも、関係者の間では、俺はだんだん「伊佐留候補」になっていった。
かなり変な状態だった。
俺は人としてはナザレ・ヨシュア。神として置かれるなら、伊佐留神。ただし、まだ候補。
そして、生活上は保護対象者。法務上は身元確認困難な特殊案件。大工仕事中は、新入り。掃除中は、掃除するやつ。
どれも俺で、どれも俺そのものではない。
だが、昔より少し楽だった。
イエス。キリスト。主。
その呼び方は、広がりすぎる。
伊佐留候補は、かなり狭い。
狭い名前は、少し息ができる。
その日、榊原さんは朝から妙に緊張していた。
爺さんの神社へ行く前、ホテルの部屋で何度も資料を確認していた。
神社関係の書類。由緒案。役割分担案。金銭管理案。参拝者対応案。教会向け説明案。地元説明案。
そして、一番上に置かれた、妙に厚い封筒。
「榊原さん」
「はい」
「今日は、かなり本気の書類ですね」
「はい」
「今までも本気でしたが」
「今日は特に重要です」
「何の書類ですか」
榊原さんは、封筒に手を置いた。
「奉納する書類です」
「奉納」
「はい」
「神社に?」
「はい」
「書類を?」
「はい」
「書類を奉納するんですか」
「はい」
俺は少し考えた。
「それは、普通なんですか」
「普通とは言い切れません」
「ですよね」
「ただし、奉納物として紙や文書を納めること自体は、極端に不自然ではありません」
「でも、この書類は」
「かなり不自然です」
「正直ですね」
「はい」
俺は封筒を見た。
「何が入っているんですか」
「現時点での整理です」
「整理」
「はい。伊佐留神として置く部分、ナザレさんとして生活する部分、してはいけないこと、受け取ってはいけないもの、説明してはいけないこと、教会との距離、神社との距離、地元との距離、あなたの行動制限、私の責任範囲」
「多いですね」
「非常に」
「それを奉納する」
「はい」
「なぜ」
榊原さんは、少しだけ黙った。
「この神社にあなたを置くなら、まずあなたそのものではなく、扱い方を置くべきだと思いました」
俺は、すぐには答えられなかった。
俺そのものではなく、扱い方。かなり法務さんらしい。
だが、かなり正しい気もした。
「つまり、俺を奉納するのではなく」
「はい」
「俺の扱い方を書いた書類を奉納する」
「はい」
「御神体ではなく、取扱説明書ですか」
「近いですが、言い方に注意してください」
「では」
「現時点での約束です」
「約束」
「はい」
約束。それは、少し柔らかく聞こえた。
でも、封筒はかなり厚い。柔らかい約束にしては、重さがある。
俺たちは車で神社へ向かった。
途中、榊原さんはあまり話さなかった。俺も話さなかった。
今日は、軽口を挟む空気ではない気がした。
鳥居が見えた。爺さんは、今日も参道を掃いていた。
俺を見ると、いつものように言った。
「おう、伊佐留候補」
「おはようございます」
「今日は法務さんの顔が硬いな」
「重要な確認があります」
榊原さんが言った。
「だろうな。田村も来るぞ」
「田村さんも?」
「呼んだ」
「なぜですか」
「変なことを決める時は、雑なやつもいた方がいい」
かなり雑な理由だった。
だが、少し分かる。
榊原さんと爺さんだけだと、法務と神社に寄りすぎる。俺だけだと、すぐ神学になる。田村さんがいると、飯と生活に戻される。
ほどなくして、田村さんの軽トラックが来た。
「おう」
「おはようございます」
「今日は書類を神社に置くって聞いたぞ」
「はい」
「とうとう神さまより書類が先に祀られるのか」
榊原さんが少しだけ眉を動かした。
「祀るわけではありません」
「奉納だろ」
「はい」
「似たようなもんだ」
「違います」
「法務さんが違うって言う時は、だいたい面白い」
「面白がらないでください」
爺さんは笑っていた。
「まあ、社務所に入れ」
社務所の中には、低い机が置かれていた。
欠けた湯呑み。茶。古い棚。
この前俺が直した棚は、まだちゃんと立っている。それを見ると、少し安心した。
直したものが、まだ使われている。それは、かなり嬉しい。
机の上に、榊原さんが封筒を置いた。
白い封筒。厚い。表には、榊原さんの字でこう書かれていた。
伊佐留神奉納前整理書。
「硬いな」
爺さんが言った。
「硬いですね」
田村さんも言った。
「必要です」
榊原さんは言った。
「題名から法務だ」
「中身も法務です」
「だろうな」
榊原さんは封筒から書類を取り出した。そして、一枚目を机の中央に置いた。
「まず、前提です」
「はい」
俺は姿勢を正した。田村さんは茶を飲んだ。爺さんは箒を壁に立てかけた。
「伊佐留神は、ナザレさん本人をそのまま神社に祀るものではありません」
「はい」
「また、キリスト教上のイエス・キリストを、日本の神として再定義するものでもありません」
「はい」
「伊佐留神は、外から来た祈りを、この土地で乱暴に扱わず、ほどけるまで置くための仮の名です」
爺さんが、少しだけ目を細めた。
「少し柔らかくなったな」
「修正しました」
「祈りがほどける、入れたか」
「入れました」
「よし」
榊原さんは続けた。
「ナザレさんは、伊佐留神として崇拝対象になるのではなく、神社で掃除、修理、日常的な管理補助を行う人として生活する可能性があります」
「生活する可能性」
田村さんが言った。
「まだ可能性なのか」
「はい」
「慎重だな」
「必要です」
「でも、前より進んでるな」
「はい」
俺はその一言に、少し胸が動いた。
前より進んでいる。
そうなのだろうか。まだ決まっていない。まだ候補だ。
でも、少しずつ、俺の置き場所について具体的な言葉が増えている。
神ではなく、生活。祀るではなく、置く。奇跡ではなく、掃除と修理。
それは、かなり進んでいるのかもしれない。
「禁止事項です」
榊原さんが二枚目を出した。
「一、伊佐留神を願望成就の神として広告しない」
「広告」
爺さんが顔をしかめた。
「必要です」
「まあな」
「二、病気平癒、金運上昇、恋愛成就、合格保証などの直接的効能を掲げない」
「保証って言葉が出ると一気に現代だな」
田村さんが言った。
「必要です」
「三、ナザレさん本人による奇跡、治癒、予言、啓示、裁き、赦しの宣言を行わない」
「多いですね」
俺が言った。
「必要です」
「四、水をワインにしない」
「入るんですね」
「入ります」
「五、水上歩行をしない」
「入るんですね」
「入ります」
「六、参拝者の身体に不用意に触れない」
「はい」
「七、教会、教皇、聖書、弟子、終末、救済、罪について、参拝者の前で断定的に語らない」
「かなり制限されますね」
「必要です」
田村さんが笑った。
「神社でキリスト教の話をするなって、当たり前のようで変な書類だな」
「非常に変です」
榊原さんが認めた。
「だが、必要です」
「だろうな」
爺さんは頷いた。
「外来種は、そこを決めとかないと増える」
「増えません」
俺は言った。
「お前じゃなくて話が増える」
「はい」
次に、金銭管理の書類が出た。
「ここが重要です」
榊原さんの声が少し硬くなった。
「参拝者、教会関係者、観光客、支援者からの金銭は、名目を明確に分けます」
「名目」
「はい」
「玉串料、奉納、寄付、お茶代、修理代、生活費支援、教会からの支援、すべて意味が違います」
「全部お金では」
俺が言うと、榊原さんが見た。
「違います」
「はい」
「大きく違います」
「はい」
「混ぜると壊れます」
それは、爺さんの言葉に似ていた。
責任を取るところは決める。分からないところは、分からないまま置く。混ぜると壊れる。
金も同じなのだろう。
「神社に来た教会関係者が、お茶を飲んで置いていくお金は」
榊原さんが言う。
「玉串料ではありません」
「はい」
「献金でもありません」
「はい」
「お茶代として扱います」
「お茶代」
「はい」
「かなり重要なんですね」
「非常に」
田村さんが笑った。
「教皇様が来てもお茶代か」
「仮に来た場合です」
「来そうだな」
「来ないでください」
榊原さんが即答した。
「いや、来るだろ」
「来ないでください」
「法務さんが止めるのか」
「止めます」
「強え」
俺は想像してしまった。
この小さな神社に、教皇様が来る。爺さんが茶を出す。教皇様がお茶代を置く。榊原さんが玉串料ではなくお茶代として処理する。
かなり変だ。だが、見たい気もした。
言わない方がいい。言うと、たぶん問題行動になる。
「次に、御神体についてです」
榊原さんが言った。場の空気が少し変わった。
「御神体」
俺は繰り返した。
「はい」
「何にするんですか」
「まだ決めません」
「決めない?」
「はい」
「御神体なしですか」
「当面は、明確な物体を置きません」
爺さんが少し笑った。
「で、書類を置くんだな」
「はい」
「御神体は書類か」
田村さんが吹き出した。
榊原さんは真顔だった。
「御神体ではありません」
「でも、最初に置くんだろ」
「奉納前整理書です」
「御神体は書類です、でいいじゃねえか」
「よくありません」
田村さんは笑っている。爺さんも笑っている。
俺は笑っていいのか迷った。榊原さんがこちらを見た。俺は真顔に戻した。学習している。
「ただ」
榊原さんは、少しだけ息を吐いた。
「当面、この書類が中心になるのは事実です」
「ほら」
田村さんが言った。
「御神体ではありません」
「中心になる書類」
「はい」
「神さまより先に、扱い方が中心になる」
「はい」
爺さんが、ゆっくり頷いた。
「悪くねえ」
「そうですか」
「こいつの場合、下手に石だの鏡だの置くより、扱い方を先に置いた方がいい」
「はい」
「神さまを置く前に、人間の触り方を決める」
「はい」
「御神体は書類、でいい」
「よくありません」
榊原さんはまだ抵抗していた。だが、少しだけ負けている。
「俺は」
俺は口を開いた。三人がこちらを見た。
「俺は、それで少し安心します」
「書類が?」
田村さんが聞いた。
「はい」
「なぜ」
「俺そのものを置かれるより、先に扱い方を置いてもらえる方が安心します」
言いながら、自分でもそう思った。
十字架。聖遺物。聖画。像。墓。
俺に関わる物は、たくさん置かれてきた。
だが、扱い方が置かれないと、人はそれを武器にもしてしまう。棍棒にもしてしまう。
もしここに俺を置くなら、最初に置くべきは俺ではない。
俺の扱い方。俺を重くしすぎない約束。願いを聞きすぎないための制限。祈りがほどけるまで待つための場所の作り方。
「御神体ではないとしても」
俺は言った。
「この書類は、かなり大事だと思います」
榊原さんは、少しだけ視線を落とした。
「ありがとうございます」
「評価ですか」
「いえ」
彼女は小さく言った。
「少し安心しました」
かなり珍しい返答だった。
田村さんが、にやりとした。だが、奥さんがいないので止める人がいない。
爺さんが先に言った。
「法務さんが照れてる」
「照れていません」
「怒ってる」
「怒っていません」
「同じ顔だ」
「違います」
俺は何も言わなかった。沈黙が適切だった。
その後、俺たちは社の裏の空き地へ向かった。
古い石と木のある場所。伊佐留神を置くかもしれない場所。
今日はそこに、小さな木箱が用意されていた。
爺さんが作ったらしい。雑に見えて、かなり丁寧だった。
「この中に入れる」
爺さんが言った。
「書類を」
「そうだ」
「湿気は大丈夫ですか」
榊原さんが聞く。
「内側にもう一枚箱を入れる」
「防湿袋も必要です」
「持ってきてるだろ」
「はい」
「なら入れろ」
かなり実務的な奉納だった。
榊原さんは、書類を防湿袋に入れた。封をする。さらに薄い布で包む。木箱に入れる。木箱を閉じる。
俺はそれを見ていた。
俺の扱い方が、箱に入る。かなり不思議だった。
「ナザレさん」
榊原さんが言った。
「はい」
「あなたが持ちますか」
「いいんですか」
「はい」
「俺が」
「はい」
俺は木箱を受け取った。
重さはそれほどない。だが、軽くもなかった。
書類の重さ。約束の重さ。俺を、俺だけにしないための重さ。
「どこに置きますか」
俺が聞くと、爺さんが古い石の横を指した。
「今日はそこ」
「今日は?」
「まだ本決まりじゃねえ」
「候補地の候補」
「そうだ」
「かなり慎重ですね」
「神さまを置くんだぞ」
「はい」
「靴下より慎重に」
「覚えています」
俺は木箱を石の横へ置いた。
それだけだった。光もない。音もない。奇跡もない。
だが、少し空気が変わった気がした。
気のせいかもしれない。場所というものは、いつも少し気のせいを含む。
榊原さんが、小さく頭を下げた。爺さんも頭を下げた。田村さんも、少し遅れて頭を下げた。
俺も頭を下げた。
自分にではない。書類にでもない。そこに置かれた約束に。
声には出さなかった。
何かを祈ったのかどうかも、自分ではよく分からなかった。
ただ、思った。
俺を、棍棒にしないでください。俺を、便利屋にしないでください。俺を、重くしすぎないでください。俺を、軽くしすぎないでください。
ここに来る人の祈りが、乱暴に扱われず、ほどける時を持てますように。
それだけだった。
顔を上げると、榊原さんがこちらを見ていた。
「声に出しましたか」
「出していません」
「よろしいです」
「評価ですか」
「評価です」
「嬉しいです」
爺さんが笑った。
「御神体は書類、第一段階だな」
「御神体ではありません」
榊原さんがまた言った。
「奉納前整理書です」
「長え」
「必要です」
田村さんが腕を組んだ。
「でも、かなりいいと思うぞ」
「田村さんも?」
「ああ」
「なぜ」
「人間、何かを祀るとすぐ都合よく使うからな。先に取扱説明書を置くのは、かなりお前向きだ」
「取扱説明書」
「だろ」
「はい」
「水をワインにしない。水の上を歩かない。願いを全部叶えない。金は名目を分ける。教皇様が来てもお茶代。かなり大事だ」
「最後は来ません」
榊原さんが言った。
「来るかもしれないだろ」
「来ないでください」
「本人に言え」
「言います」
「強え」
その日の午後は、社務所の棚の続きを直した。
書類を置いた後に棚を直す。かなり地味だ。
だが、それがよかった。
神さまの扱い方を置いたあと、神さま候補が棚を直す。
奇跡ではなく、釘と木で。
夕方、作業が終わる頃には、俺の手は少し汚れていた。
榊原さんがウェットティッシュを渡してくれた。
「ありがとうございます」
「手を洗ってください」
「はい」
「傷はありませんか」
「ありません」
「よろしいです」
爺さんが言った。
「法務さん、完全に保護者だな」
「保護担当です」
「同じだろ」
「違います」
「同じ顔だ」
田村さんが笑っていた。俺は黙って手を拭いた。
このやり取りにも、だいぶ慣れてきた。
帰る前、俺は社の裏の空き地をもう一度見た。
木箱は静かに置かれている。中には書類がある。
御神体ではない。榊原さんが強くそう言う。
だが、今日この場所で一番大事なものは、たぶんあの書類だった。
神を置く前に、扱い方を置く。
それは、かなりこの国らしい気もした。
いや、この国というより、榊原さんらしい。
「榊原さん」
「はい」
「今日の書類は、かなりよかったです」
「評価ですか」
「評価ではなく、感謝です」
彼女は、少しだけ目を伏せた。
「どういたしまして」
「御神体ではないんですよね」
「御神体ではありません」
「でも、大事な書類」
「はい」
「俺は、あれがあると少し安心します」
「なら、作った意味があります」
そう言って、榊原さんは書類ケースを鞄にしまった。
まだ原本は手元にあるらしい。奉納したのは控え。さすが法務さんだった。
帰りの車で、田村さんからメッセージが来た。榊原さんが読む。
「『御神体、書類で決まりだな』」
「違います」
榊原さんが即答した。だが、返信はしなかった。
しばらくして、もう一通来た。
「『法務さんが反論しないなら勝ち』」
榊原さんは端末を伏せた。
「返信を終了します」
「負けましたね」
「終了です」
俺は笑った。
神の子、家なき子。
伊佐留神候補。
今日は、俺そのものではなく、俺の扱い方が神社に置かれた。
御神体ではない。奉納前整理書である。
ただし、田村さんと爺さんは、たぶん今後も言うだろう。
御神体は書類です、と。




