第26話 妖怪とも神とも呼ばれるけど、わからん
あの老人について、俺は帰りの車の中でずっと考えていた。
神職なのか。神社の管理人なのか。地元の古老なのか。それとも、もっと別の何かなのか。
作業着で箒を持っていた。神主の装束ではなかった。
だが、神社にいることがあまりにも自然だった。
人が神社にいるというより、神社の方があの人を置いているように見えた。
「榊原さん」
「はい」
「あの方は、何者なんですか」
「確認中です」
「確認できるんですか」
「戸籍や役職は確認できます」
「それで分かりますか」
「分かる範囲は」
「分からない範囲は」
「残ります」
榊原さんは運転しながら答えた。
「神社関係者ではあります。地元の方々も、あの方があそこにいることを自然に受け入れているようです」
「自然に受け入れている」
「はい」
「それは、強いですね」
「強いですが、法的確認とは別です」
「出ましたね」
「必要です」
俺は窓の外を見た。
山道が続いている。木々の間から夕方の光が差していた。
伊佐留神。外から来たものが、この土地に留まる。
老人は、その名前をあまりにも雑に出した。
だが、雑な名前にしては、妙にしっくり来た。
雑なのに、芯がある。あの老人そのもののようだった。
「榊原さん」
「はい」
「あの方は、人間ですか」
榊原さんの手が、ほんの少しだけハンドルの上で止まった。
「人間です」
「確認済みですか」
「少なくとも、行政上は」
「行政上の人間」
「はい」
「便利ですね、行政上」
「便利です」
俺は少し笑った。
「では、行政上ではない部分は」
「扱いません」
「法務さんですね」
「はい」
「でも」
「はい」
「俺には、少し分からなかった」
榊原さんは、すぐには答えなかった。車はゆっくりカーブを曲がった。
「分からないまま、置いておくもんもある」
俺が言うと、榊原さんは小さく息を吐いた。
「あの方の言葉ですね」
「はい」
「便利に使い始めましたね」
「使いやすいです」
「危険です」
「はい」
その日は、近くの小さな町の宿に泊まった。
宿といっても、民宿に近い場所だった。
榊原さんはいつも通り、受付、部屋割り、経路、非常口、周辺状況を確認した。
俺は荷物を部屋へ置いた。窓からは山が見えた。
テレビはあったが、榊原さんから見る番組は制限されている。特にニュースとSNS連動番組は避ける。自分の話題が流れる可能性があるからだ。
現代では、テレビも危険である。
夕食は食堂で出た。
山菜。川魚。味噌汁。漬物。ご飯。
かなり静かな食事だった。
食堂には、俺たちの他に数人の客がいた。
登山客らしい二人組。年配の夫婦。仕事で来ているらしい男性。
誰も俺に救いを求めない。誰も俺を見て祈らない。たまに外国人だと思って見るが、それだけだった。
ありがたい。
食後、部屋に戻る途中で、宿の女将さんが榊原さんに声をかけた。
「あちらの神社へ行かれたんですか」
榊原さんが少しだけ警戒した。
「はい。少し」
「ああ、あのおじいさんに会いました?」
「はい」
「変わった人でしょう」
「はい」
榊原さんが慎重に答える。
「昔からいるんですか」
「さあ。昔からいる気がしますねえ」
女将さんは笑った。
昔からいる気がする。かなり曖昧だ。
だが、その曖昧さが妙に合っていた。
「神職の方ですか」
榊原さんが聞いた。
「まあ、そういうこともしてるし、掃除もしてるし、祭りの時には仕切るし、子どもが迷ったら家まで送るし、山で変な音がすると見に行くし」
「かなり多いですね」
「何なんでしょうねえ」
女将さんは、あまり困っていない顔で言った。
「神さまみたいな人、と言う人もいますし、妖怪みたいな人、と言う人もいます」
俺は足を止めた。榊原さんも止まった。
「妖怪」
俺は思わず言った。
女将さんは笑った。
「ほら、山の方って、そういう言い方をする人がまだいるんですよ」
「妖怪とも呼ばれるんですか」
「悪い意味じゃないですよ。なんというか、人より長くそこにいる感じというか」
「長くそこにいる」
「ええ」
女将さんは、少し考えた。
「あの人に聞いても、たぶん分からないって言いますよ」
「本人が?」
「ええ。昔、子どもが聞いたんです。おじいちゃんは神さまなの、妖怪なのって」
「何と答えたんですか」
「妖怪とも神とも呼ばれるけど、わからん、って」
俺は黙った。榊原さんも黙った。
女将さんは笑って、食堂の片付けに戻っていった。
部屋へ戻る廊下で、俺は言った。
「榊原さん」
「はい」
「かなり通りましたね」
「何がですか」
「妖怪とも神とも呼ばれるけど、わからん」
「はい」
「あの方らしい」
「はい」
「行政上は人間」
「はい」
「地元では、神さまみたいな人、妖怪みたいな人」
「はい」
「本人は、わからん」
「はい」
「この国は、かなり置いておけますね」
榊原さんは、少しだけ考えてから言った。
「そうかもしれません」
「教会なら、分類します」
「はい」
「神か、人か、聖人か、異端か、悪霊か」
「おそらく」
「でも、ここでは分からんで済む」
「済む、というより、済ませているのだと思います」
「済ませる」
「はい。強制的に決めないことで、壊さずに置いている」
それは、かなりこの国らしい気がした。
分からないものを、無理に切らない。
もちろん、すべてがそれで済むわけではない。
法務さんは、行政上は人間だと言った。書類は必要だ。責任も必要だ。
でも、それとは別に、分からないまま置ける場所がある。
俺には、その両方が必要なのかもしれない。
部屋に戻ると、榊原さんは端末を出した。
「確認します」
「何を」
「あの方について」
「やはり」
「はい」
「分からんでは済ませない」
「法的には済ませません」
「法的には」
「はい」
榊原さんは検索と連絡を始めた。
俺は窓際に座り、山を見た。
暗くなり始めている。山の輪郭が、少しずつ黒くなっていく。
妖怪とも神とも呼ばれるけど、わからん。
それは、かなり良い言葉だった。
俺は、神の子と呼ばれた。人の子とも呼ばれた。主とも呼ばれた。救世主とも呼ばれた。預言者とも呼ばれた。神とも呼ばれた。
異端だと言われたこともある。偽物だと言われる可能性もある。
だが、本人としては、分からない部分もある。
自分が何であるかを、自分で全部説明できるなら、二千年も揉めない。
「榊原さん」
「はい」
「俺も、そう言っていいんでしょうか」
「何をですか」
「神とも人とも呼ばれるけど、わからん」
榊原さんは端末から顔を上げた。
「言い方によります」
「出た」
「外で言うと危険です」
「はい」
「ただ、あなた自身の実感としては、近いのかもしれません」
「はい」
「でも、法的には人間として扱います」
「そこは固定なんですね」
「固定です」
「助かります」
「はい」
法的には人間。地元では分からん。神としては伊佐留神。人としてはナザレさん。
少しずつ、置き方が見えてくる。
翌朝、榊原さんは老人に再訪の連絡を入れた。
田村さん経由ではなく、神社に直接行く。確認したいことが増えたらしい。
「今日も行くんですか」
「はい」
「昨日、何度か来いと言われました」
「その一回目です」
「早いですね」
「確認は早い方がいいです」
「法務さんですね」
「はい」
朝食を取り、宿を出る。山道を戻り、神社へ向かった。
昨日と同じ鳥居。同じ参道。同じ落ち葉。
そして、同じ老人が掃除をしていた。
昨日と同じ場所にいる。まるで、そこから動いていなかったかのようだった。
「おう」
老人が言った。
「早かったな、外来種」
「おはようございます」
「おはようございます」
榊原さんが丁寧に頭を下げる。
「いくつか確認があります」
「だろうな」
「昨夜、宿の方から伺いました」
「ああ」
「あなたは、神さまとも妖怪とも呼ばれると」
「言われるな」
「ご本人としては」
老人は箒を動かしながら言った。
「妖怪とも神とも呼ばれるけど、わからん」
昨日聞いた通りだった。
本人の口から聞くと、さらに強い。
「分からないんですか」
俺が聞くと、老人は俺を見た。
「お前は分かるのか」
「分かりません」
「だろ」
「はい」
「なら、同じだ」
「同じですか」
「少しな」
老人は参道を掃く。落ち葉が横へ寄っていく。
「神だ妖怪だ人だってのは、呼ぶ側の都合もある」
「呼ぶ側」
「子どもから見りゃ妖怪。年寄りから見りゃ神さまみたいなもん。役所から見りゃ人間。祭りの時は関係者。掃除してる時は掃除の爺さん」
「かなり多いですね」
「全部、俺だ」
「矛盾しませんか」
「するほど、きっちりしてねえ」
榊原さんが、少しだけ反応した。
きっちりしていない。それは、法務さんの天敵のような言葉だ。
だが、この場では妙に強かった。
「でも、法的な責任主体は必要です」
榊原さんが言った。
「そうだな」
老人はあっさり頷いた。
「そこはいる」
「はい」
「金を扱うなら、責任者がいる。土地を使うなら、持ち主がいる。祭りをやるなら、誰かが手を上げる。そこをぼかすと揉める」
「その通りです」
「でもな」
「はい」
「それと、神さまか妖怪かは別だ」
榊原さんは黙った。
老人は続けた。
「責任を取るところは決める。分からんところは、分からんまま置く。混ぜると壊れる」
かなり、この作品の答えに近い気がした。
いや、作品ではない。俺の人生だった。
「責任を取るところは決める」
俺は繰り返した。
「分からんところは、分からんまま置く」
「そうだ」
「混ぜると壊れる」
「そうだ」
老人は俺を見た。
「お前、たぶんそこを全部一人でやろうとしてる」
「はい」
「だから壊れる」
「はい」
「神さま部分は置け。人間部分は飯食って掃除しろ。責任は法務さんに聞け」
「かなり分けますね」
「分けないと無理だろ」
「はい」
「外来種なんだから」
「またそこに戻るんですね」
「便利だからな」
榊原さんがメモを取っていた。老人がそれを見る。
「本当に書くんだな」
「必要です」
「じゃあ、これも書いとけ」
「はい」
「神さまは、願いを全部聞くな」
俺は老人を見た。
「全部聞かない」
「そうだ」
「それは次に詳しく聞きたいです」
「今聞け」
「いいんですか」
「掃除しながらならな」
老人は箒を俺に渡した。
「ほれ」
「俺が?」
「聞きたいなら掃け」
「対価性が」
榊原さんが言いかけた。老人が言った。
「今日は掃除の話だ」
榊原さんは黙った。昨日と同じ負け方だった。
俺は箒を持った。参道を掃く。
老人は隣で立っている。
「願いを全部聞くと、どうなるんですか」
「人間がだめになる」
「だめに」
「願うだけになる。叶わないと怒る。叶ったらもっと願う」
「はい」
「それに、願い同士がぶつかる」
「願い同士」
「あいつに勝ちたい。あいつも勝ちたい。両方叶うか?」
「叶いません」
「商売繁盛。隣の店も商売繁盛。客は限られてる。どうする?」
「難しいです」
「恋愛成就。相手に別の好きなやつがいる。どうする?」
「かなり難しいです」
「だから、全部聞くな」
老人は、かなり簡単に言った。
だが、内容は重かった。
祈りは、美しいだけではない。
願いは、時々ぶつかる。誰かの願いは、誰かの不利益になる。
全部を叶える神は、たぶんすぐ矛盾する。
「では、神は何をするんですか」
俺が聞くと、老人は空を見た。
「聞いてるふり」
榊原さんが固まった。俺も固まった。
「ふり」
「ふりっつうか、聞く場所を作る」
「聞く場所」
「人間は、願いを口にしたい時がある。言うだけで少し落ち着くこともある。誰にも言えんことを、神さまには言えることもある」
「はい」
「でも、聞いたからって全部叶えたら壊れる」
「はい」
「だから、聞く。だが、全部は動かさない」
俺は箒を持ったまま、しばらく黙った。
祈りを聞く。全部は叶えない。
それは、かなり残酷にも聞こえる。
だが、全部叶える方が残酷かもしれない。
「祈りは、届いたら叶うものではないんですね」
「届くのと叶うのは違う」
老人は言った。
「そこを混ぜると、人間は神さまを便利屋にする」
「便利屋」
「お前、便利そうだしな」
「否定できません」
「だから、気をつけろ」
榊原さんが静かに言った。
「非常に重要です」
「書類に書いとけ」
「書きます」
「本当に書くんだな」
「必要です」
老人は笑った。
俺は参道を掃き続けた。
落ち葉が少しずつ寄っていく。全部は取らない。通る場所だけを整える。
それは、祈りにも似ている気がした。
全部を解決するのではない。人が通れるくらいに整える。
「老人さん」
「名前みたいに言うな」
「では、何と呼べば」
「爺でいい」
「爺さん」
「それでいい」
「爺さんは、神さまなんですか」
俺が聞くと、老人は笑った。
「だから、わからん」
「妖怪ですか」
「それも、わからん」
「人間ですか」
「役所にはそうなってる」
「では、何としてここにいるんですか」
「掃除するやつ」
答えは、あまりにも簡単だった。
掃除するやつ。
神でも、妖怪でも、人でもなく。掃除するやつ。
それは、かなり良かった。
「俺も、それになれますか」
俺が聞くと、老人は俺を見た。
「なれるだろ」
「神の子でも」
「箒持てるならな」
「持てます」
「なら、なれる」
俺は、箒を少し強く握った。
榊原さんが、少しだけこちらを見ていた。
「榊原さん」
「はい」
「俺は、掃除するやつになれるそうです」
「聞いていました」
「評価は」
榊原さんは、少しだけ目を伏せた。
「かなり良好です」
「嬉しいです」
爺さんは、鼻で笑った。
「また評価されてる」
「必要です」
榊原さんが言った。
「こいつには必要だろうな」
「はい」
「神さまを、人間サイズに畳む係だ」
「その表現は」
「悪くないだろ」
榊原さんは、否定しなかった。
俺は、少しだけ笑った。
神さまを、人間サイズに畳む係。
それは、かなり榊原さんに合っている。
彼女は、俺を小さくしているのではない。生活に入る大きさに整えている。
シャツを畳むように。祈りを声に出さないように。水をワインにしないように。人の傷に勝手に触れないように。
俺が、俺のまま人の暮らしに入れるように。
昼前まで、俺たちは神社にいた。
榊原さんは、爺さんから必要な確認をいくつも取った。
土地のこと。祭りのこと。地元の人のこと。責任者のこと。役所への届け出のこと。
爺さんは、面倒くさそうにしながらも答えた。
分からないものは、分からんと言った。
それで済ませてよい部分と、済ませてはいけない部分を、不思議なくらい分けていた。
帰る前、爺さんが言った。
「外来種」
「はい」
「次は、願いを聞きすぎるなって話をする」
「今日も少し聞きました」
「少しじゃ足りん」
「分かりました」
「お前、聞きすぎる顔してる」
「そんな顔ですか」
「してる」
榊原さんも頷いた。
「しています」
「榊原さんまで」
「評価です」
「嬉しくない評価です」
「必要な評価です」
爺さんは笑った。
「じゃあ、また来い」
「はい」
「法務さん」
「はい」
「こいつを神さまにしすぎるなよ」
「承知しています」
「人間にも、しすぎるなよ」
「承知しています」
「掃除するやつにしとけ」
榊原さんは、少しだけ笑った。
「検討します」
「勝ちだな」
「勝負ではありません」
車に戻る。
神社を出る時、俺は鳥居の前で振り返った。
爺さんは、また参道を掃いていた。
神さまなのか、妖怪なのか、人間なのか。本人にも分からないらしい。
でも、掃除するやつではある。
それで、今は十分なのだと思った。
神の子、家なき子。
外来種。伊佐留神候補。そして、たぶん、掃除するやつ。
肩書きは増えているのに、少しずつ軽くなっている。




