第24話 神の子、尻に敷かれる
神社案は、思ったより長く榊原さんを悩ませた。
いや、榊原さんはいつも何かに悩んでいる。
ただ、その悩み方が少し違った。
いつもの榊原さんは、危険を見つけると、すぐに分類する。
禁止。保留。確認。記録。連絡。距離を取る。
そういう箱へ、問題を入れていく。
だが、神社案は、箱そのものがなかった。
キリスト教の中心人物かもしれない青年を、日本の神社でどう扱うか。しかも、神として祀る部分と、人として暮らす部分を分ける。
それは、たぶん法務さんの机の上にも、山辺先生の神学書の中にも、神父様の祈りの中にも、教皇様のメールの下書きにもなかった。
かなり変な案だった。
だが、榊原さんは捨てなかった。
「検討します」
そう言った。
検討します、は強い。現代では、奇跡より強い時がある。
その翌日から、榊原さんの確認事項は増えた。
宗教法人法。神社本庁との関係。単立神社。合祭。祭神名。氏子。地元自治会。近隣住民。参拝者対応。寄付金の扱い。玉串料。献金。お茶代。労務。住み込み。身元。無国籍。難民申請。保護費。教会との切り分け。教皇様への説明。炎上時の声明文。
かなり多い。
「榊原さん」
「はい」
「俺は、やはり面倒ですね」
「はい」
即答だった。
「少し迷ってください」
「事実です」
「そうですね」
「ただし、面倒だから不要という話ではありません」
「はい」
「面倒でも、必要なら処理します」
「処理」
「はい」
榊原さんは、端末と資料を見ながら答えた。
その姿を見ていると、申し訳なくなる。
俺は人として生きたいだけなのに、どうして宗教法人法まで出てくるのだろう。
神の子、かなり制度に弱い。
その日、俺たちは地方都市の小さなホテルに泊まっていた。
神社案の検討のため、しばらく移動距離を短くしている。榊原さんが情報を整理する必要があるからだ。
俺は部屋で待機する時間が増えた。
待機。現代の修行の一つだと思う。
荒野よりは楽だ。だが、別の意味で難しい。
やることがないと、人は考えすぎる。俺の場合、考えすぎるとだいたい危険になる。
だから榊原さんは、俺に課題を出した。
「今日は、洗濯をしてください」
「洗濯」
「はい」
「俺が?」
「はい」
「ホテルのコインランドリーで」
「はい」
「できますか」
「説明します」
榊原さんは、洗濯物を袋にまとめ、使い方を説明した。
洗濯機。洗剤。乾燥機。硬貨。時間。
終了後はすぐに取り出すこと。他人の洗濯物に触らないこと。濡れた衣類を奇跡で乾かさないこと。白い服を勝手に増やさないこと。
「最後の二つは必要ですか」
「あなたの場合、必要です」
「洗濯まで奇跡禁止」
「はい」
コインランドリーは、ホテルの一階にあった。
小さな部屋に、洗濯機と乾燥機が並んでいる。
俺は洗濯物を入れ、硬貨を入れ、ボタンを押した。機械が動き出す。水が入り、回る。
「これは、すごいですね」
「洗濯機です」
榊原さんは隣で見ていた。
「服を入れると、勝手に洗ってくれる」
「はい」
「かなり奇跡に近い」
「家電です」
「現代は、奇跡に名前をつけるのが上手いですね」
「仕組みがあります」
「仕組みのある奇跡」
「奇跡とは呼びません」
いつものやり取りだった。
だが、今日は少しだけ安心した。
洗濯機は、誰かを救うためではなく、服を洗うために回っている。役割がはっきりしている。終了条件もある。
洗濯が終わる。乾燥が終わる。畳む。しまう。
それでよい。
「榊原さん」
「はい」
「洗濯は、分かりやすいですね」
「そうですか」
「汚れたものを洗う。乾かす。畳む。終わる」
「はい」
「人間の救いより、ずっと分かりやすい」
「比較しないでください」
「今日は洗濯の話」
「はい」
榊原さんは頷いた。
「今日は洗濯の話です」
洗濯が終わるまで、俺たちはロビーの端で待った。
榊原さんは資料を読んでいる。俺は自動販売機を眺めていた。
飲み物が並んでいる。水。お茶。コーヒー。炭酸。ジュース。
どれも硬貨か電子決済で出てくる。
人間は、喉が渇いたら岩を打たなくてもいい世界を作った。かなりすごい。
「水を買ってもいいですか」
「はい」
「ワインにはしません」
「よろしい」
水を買った。普通の水。蓋を開けて飲む。
水は水だった。それで十分だった。
洗濯物を乾燥機へ移し、また待つ。
この待ち時間が、少し面白い。
何もできない。ただ待つ。
昔なら、待つ時間に人は話した。今は、スマホを見るのだろう。
俺のスマホは榊原さんが管理している。だから、俺は待つしかない。
「榊原さん」
「はい」
「待つ時間は、少し苦手です」
「なぜですか」
「何かをしなければならない気がします」
「今は洗濯物を待つ時間です」
「はい」
「何もしなくていい時間です」
「それが難しい」
「慣れてください」
「はい」
乾燥が終わった。衣類を取り出す。温かい。
「服が温かい」
「乾燥機です」
「知っています。でも、温かい」
「そうですね」
俺はシャツを畳んだ。
かなり下手だったらしい。榊原さんが見ていた。
「ナザレさん」
「はい」
「畳み方を説明します」
「お願いします」
榊原さんは、シャツを一枚取り、きれいに畳んだ。
袖を折り、形を整え、四角くする。とても速い。
「榊原さん、服まで書類のように整えますね」
「整理です」
「かなり上手です」
「一人暮らしなら普通です」
「現代人、強いですね」
「生活です」
俺も真似して畳む。少しずれる。榊原さんが直す。また畳む。少しだけましになる。
「評価は」
「改善傾向です」
「嬉しいです」
「ただし、まだ不安定です」
「服も信仰も、不安定ですね」
「服の話に戻してください」
「はい」
洗濯物を部屋へ持ち帰る。
すると、榊原さんの端末が鳴った。田村さんからだった。
榊原さんが少しだけ嫌な予感のする顔をした。
「田村さんです」
「何でしょう」
「読みます」
画面を見る。榊原さんの表情が止まった。
「何と」
「『ナザレ、ちゃんと法務さんの言うこと聞いてるか』」
「聞いています」
「返信しますか」
「はい」
俺は言った。
「『聞いています』と」
榊原さんが入力する。
すぐに返事が来た。
「『神の子、尻に敷かれてるな』」
部屋が静かになった。
俺は意味を考えた。
「尻に」
「説明しません」
榊原さんが即答した。
「敷かれる」
「説明しません」
「慣用句ですか」
「慣用句です」
「意味は」
「説明しません」
「検索しても?」
「スマホは私が管理しています」
「強い」
榊原さんは、かなり早く返信した。
「『不適切な表現です』」
田村さんから即座に返ってきた。
「『当たってる時ほど法務さんは怒る』」
榊原さんは端末を伏せた。
「返信を終了します」
「逃げましたね」
「終了です」
「田村さんの勝ちですか」
「勝負ではありません」
「でも、俺は榊原さんの言うことを聞いています」
「必要な指示です」
「つまり、尻に」
「言わないでください」
「はい」
榊原さんは、少しだけ頬が赤かった。
気のせいかもしれない。確認すると問題行動になるので、確認しない。
「でも」
俺は言った。
「榊原さんの言うことを聞くと、安全です」
「はい」
「奇跡を起こさずに済みます」
「はい」
「写真を断れます」
「はい」
「水をワインにしません」
「はい」
「水の上も歩きません」
「はい」
「教皇様への返事も止めてもらえます」
「はい」
「洗濯もできます」
「それは少し違いますが、はい」
「では、かなり助かっています」
榊原さんは、しばらく黙った。
それから、ゆっくり言った。
「頼りすぎは問題です」
「はい」
「ただし、頼らないふりをするのも問題です」
「奥さんにも言われました」
「はい」
「では、適切に頼ります」
「その方向でお願いします」
「適切な尻に敷かれ方を」
「言わないでください」
「はい」
その日の午後、俺たちは近くの商店街へ出た。
目的は、生活用品を買うことだった。
旅が長くなると、物が必要になる。
靴下。下着。歯ブラシ。爪切り。洗濯ネット。メモ帳。ペン。
かなり現実的だ。
神の子、生活用品を買う。これも見出しに向かない。
「靴下は何足必要ですか」
榊原さんが聞く。
「何足が適切ですか」
「洗濯頻度によります」
「では、榊原さんの判断で」
「自分で選んでください」
「選択肢がありますね」
「ここではあります」
靴下売り場には、多くの靴下があった。
黒。白。灰色。短いもの。長いもの。厚いもの。薄いもの。
俺は少し迷った。
「こんなに足はありません」
「種類です」
「人間は足を二本しか持たないのに、靴下は多すぎますね」
「選んでください」
「では、黒にします」
「理由は」
「汚れが目立ちにくそうなので」
「実用的です」
「評価ですか」
「評価です」
次に爪切り。これも種類が多い。
「爪を切る道具に、こんなに種類が」
「あります」
「人間、爪に真剣ですね」
「生活です」
歯ブラシも多かった。硬さ。大きさ。形。色。
「歯を磨く枝ではないんですね」
「現代の歯ブラシです」
「知っています。でも多い」
「選んでください」
「榊原さんと同じで」
「自分で選んでください」
「では、普通のものを」
「普通とは」
「榊原さんが普通と思うもの」
「結局私ですね」
「はい」
榊原さんは、少しだけため息をつき、標準的な歯ブラシを選んでくれた。
「これで」
「ありがとうございます」
「次から自分で選んでください」
「努力します」
レジで会計する。
榊原さんが支払いをしようとしたので、俺は止めた。
「俺が払えますか」
「現金なら」
「あります」
保護費から、少額の生活費として渡されている現金があった。俺はそれを使う。
紙幣と硬貨。店員が受け取る。お釣りを返す。レシートが出る。
「領収書は」
俺が聞くと、榊原さんが少し驚いた。
「今日はレシートで大丈夫です」
「学習しています」
「良いことです」
店員が笑った。
「旅行ですか」
来た。
榊原さんが答える。
「はい」
「長旅?」
「少し」
「彼氏さん、日本語上手ですね」
「勉強しました」
俺は答えた。
「偉いねえ」
「ありがとうございます」
店員は笑い、袋を渡してくれた。店を出る。
「今の対応は」
「良好です」
「嬉しいです」
「ただし、領収書を聞く旅行者は少し不自然です」
「そうなんですか」
「はい」
「法務さんに似てきたのに」
「似なくていいところです」
荷物を持って歩く。
靴下。歯ブラシ。爪切り。洗濯ネット。
それらが袋の中で小さく音を立てる。
俺は、少し嬉しかった。
「榊原さん」
「はい」
「生活用品を買うのは、少し楽しいですね」
「そうですか」
「はい」
「なぜ」
「これからも使う感じがします」
榊原さんは、少しだけ黙った。
「そうですね」
「はい」
「旅が続くのは問題ですが、生活が続くのは良いことです」
「いい表現ですね」
「評価しないでください」
「感想です」
「感想も危険です」
「場合によります」
榊原さんは、少しだけ笑った。
夕方、ホテルへ戻る前に、商店街の小さな神社の前を通った。
鳥居。石段。古い社。人はほとんどいない。
「入りますか」
榊原さんが聞いた。
「はい」
最近、神社に入ることが少し増えた。
教会には入りにくい。だが、神社は観光としても入れる。そして、俺をそれほど重くしない。
手水で手を清める。二礼二拍手一礼。声には出さない。
俺は、静かに手を合わせた。
この場所の祈りが、この場所のまま保たれますように。
俺の名前で邪魔しませんように。
そして、俺にもいつか、人として置かれる場所がありますように。
それは少しだけ、自分の願いだった。
祈り終えて顔を上げる。榊原さんが隣にいた。
「何を祈りましたか」
「言わない方がいい気がします」
「適切です」
「評価ですか」
「評価です」
神社を出る時、俺は振り返った。
「榊原さん」
「はい」
「神社案は、どう思いますか」
「かなり問題があります」
「はい」
「ただし、完全に不可能とは言い切れません」
「それは、少し前進ですね」
「はい」
「怒りますか」
「まだ怒りません」
「怒る段階があるんですね」
「あります」
「では、検討段階」
「はい」
ホテルへ戻ると、田村さんからまたメッセージが来ていた。
榊原さんは読む前に少し警戒した。
「読みます」
「はい」
「『神社なら、神さま部分は社に置いて、人間部分は掃除でもさせとけ』」
俺は笑った。
かなり田村さんだった。
榊原さんは、しばらく画面を見ていた。
「雑ですね」
「はい」
「でも」
「はい」
「構造としては、かなり整理されています」
「田村さん、強いですね」
「強いというか、雑です」
「雑は強い時があります」
「あります」
榊原さんは、メッセージに返信した。
「『検討します』」
すぐに返事が来た。
「『法務さんが検討するなら勝ちだな』」
榊原さんは端末を伏せた。
「返信を終了します」
「また逃げましたね」
「終了です」
俺は笑った。
その夜、俺は買ったばかりの靴下を引き出しにしまった。
ホテルの引き出し。明日にはまた出るかもしれない。
それでも、一度しまう。
生活とは、たぶんそういうことだ。
ずっと住む場所でなくても、歯ブラシを置き、靴下を畳み、水を飲み、洗濯を待つ。
その間、人は少しだけそこにいる。
俺は、神の子と呼ばれる。
だが今日は、靴下を買い、洗濯物を畳み、爪切りを選び、榊原さんに怒られそうなことをやめた。
田村さんは、神の子、尻に敷かれていると言った。
たぶん、そう見えるのだろう。
でも、俺には少し違う。
敷かれているというより、止めてもらっている。
神として広がりすぎる俺を、人として畳んでもらっている。
シャツの袖を折るように。生活に入る大きさに。
それは、少し恥ずかしくて、かなりありがたいことだった。




