第23話 二年も安全確保ですか
安全確保のための一時的移動は、二年目に入った。
一時的、という言葉は便利だった。だが、二年続くと少し怪しい。
俺は、ナザレさんとして日本を歩くことに、だいぶ慣れていた。
宿帳には、ナザレ・ヨシュア。宗教を聞かれたら、関心があります。写真を求められたら、すみません、写真はお断りしています。水を見ても歩かない。ワインが足りなくても作らない。困ったら榊原さんに確認する。小さな教会には、基本的に入らない。神社には、現地の作法に従って静かに入る。手を合わせる時は、声に出さない。
だいたい覚えた。
現代人になれたかは分からない。ただ、問題行動は減ったと思う。
榊原さんの評価でも、概ね良好らしい。
概ね。かなり大事な言葉だ。
その日、俺たちは久しぶりに田村家へ行くことになった。
定住するためではない。帰るためでもない。
短時間の訪問。
榊原さんの言い方では、
「安全確認済みの限定的訪問」
だった。
「ただいま、ではないんですね」
俺が聞くと、榊原さんは少し考えた。
「言ってもよいと思います」
「いいんですか」
「田村家の中で、田村さんたちに対してなら」
「外では」
「避けてください」
「分かりました」
「ただし、聖地化するような発言はしないでください」
「しません」
「田村家を帰る場所と断定しないでください」
「しません」
「風呂で水上歩行」
「しません」
「台所の水をワインに」
「しません」
「よろしいです」
車で田村家へ向かう道は、少し懐かしかった。
田んぼ。道沿いの店。小さな橋。遠くの山。
俺は、日本に来てから多くの場所を見た。
温泉。花火。湖。海。神社。ワイナリー。自分の墓。クリスマス会。
それでも、田村家へ向かう道には、別の重さがあった。
重いと言っても、ローマの重さではない。教会の重さでもない。
味噌汁の匂いがしそうな重さだった。
「緊張していますか」
榊原さんが聞いた。
「少し」
「なぜ」
「嬉しいので」
「嬉しいと緊張するんですか」
「します」
「そうですか」
「榊原さんは」
「少し」
「緊張を?」
「はい」
「なぜ」
「田村さんが何を言うか分からないので」
「それは確かに」
榊原さんは前を見たまま言った。
「特に、二年という期間について何か言われる可能性があります」
「二年」
「はい」
「安全確保のための一時的移動が、二年」
「はい」
「一時的とは」
「今は触れないでください」
「はい」
田村家に着いた。
門の前に、田村さんが立っていた。腕を組んでいる。
相変わらず、こちらを見ても驚かない顔をしていた。
「おう」
「お久しぶりです」
「久しぶりってほどでもねえだろ。画面越しには見てるし」
「それでも、直接は久しぶりです」
「まあな」
田村さんは、榊原さんを見た。
「法務さんも、よく来た」
「お邪魔します」
「まだ保護担当やってんのか」
「はい」
「二年も?」
「はい」
来た。
榊原さんの表情は変わらない。ただ、少しだけ呼吸が浅くなった気がした。
「二年も安全確保ですか」
田村さんが言った。かなりそのままだった。
「必要な期間です」
榊原さんは答えた。
「一時的って言ってなかったか」
「一時的です」
「二年だぞ」
「状況が継続しています」
「便利な言葉だな、状況」
「便利です」
榊原さんは認めた。強い。
田村さんは笑った。
「まあ、入れ。外でやる話じゃねえ」
玄関をくぐる。奥さんが出てきた。
「おかえり」
その言葉に、俺は少し止まった。
おかえり。
ただいま、と返していいのか、迷った。榊原さんを見た。榊原さんは、小さく頷いた。
「ただいま」
俺は言った。声が少しだけ詰まった。
奥さんは、何も聞かなかった。
「はい。手を洗って。ご飯にするよ」
「はい」
やはり強い。
田村家の中は、あまり変わっていなかった。
畳。台所の音。座布団。壁の時計。少し古い棚。小さな仏壇。茶の匂い。
俺が世界中で持て余している間にも、この家は家を続けていた。
それが、かなりありがたかった。
食卓には、料理が並んでいた。
ご飯。味噌汁。焼き魚。煮物。漬物。
そして、田村さんが例のワインを出してきた。
「まだ残ってたんですか」
「一本全部すぐ飲むほど若くねえよ」
「そうですか」
「今日は開ける」
「いいんですか」
「客が来たんだから」
客。
田村家では、俺は客だった。神ではなく。本人確認不能の宗教的爆弾でもなく。
客。
かなり安心する言葉だった。
「では」
俺は座った。
「いただきます」
全員で手を合わせた。田村さんも、奥さんも、榊原さんも、俺も。
食事が始まる。
味噌汁を飲む。懐かしかった。
同じ味かどうかは分からない。でも、懐かしいと感じた。
「うまいです」
「そりゃよかった」
奥さんが言った。
「ちゃんと食べてた?」
「はい」
「甘いものばかりじゃない?」
「そこは確認されています」
俺は榊原さんを見た。
「食事記録は取っています」
榊原さんが言った。
田村さんが笑った。
「神の子の食事記録」
「保護対象者の健康管理です」
「言い換えても面白いぞ」
「面白がらないでください」
食事の途中で、田村さんがワインを注いだ。
「水から作ってないワインだ」
「はい」
「普通にうまかった」
「よかったです」
「普通って、ありがたいな」
田村さんは、グラスを見ながら言った。
「奇跡じゃねえから、気楽に飲める」
「そうですね」
「お前が水から作ったら、うまくても困る」
「なぜですか」
「飲んだら信仰になるのか、感想になるのか、分かんねえだろ」
「確かに」
「普通のワインなら、うまいで済む」
うまいで済む。
かなり良い言葉だった。
俺に関わるものは、なかなか済まない。
だが、普通のワインは、うまいで済む。
だから、普通は強い。
「ところで」
田村さんが、グラスを置いた。
来る。何か来る。
榊原さんも、箸を置いた。
「二年も一緒にいて、安全確保か」
やはり来た。
奥さんが田村さんを軽く睨んだ。
「食事中」
「いや、気になるだろ」
「気になっても言い方があるでしょう」
「じゃあ、聞き方を変える」
田村さんは俺を見た。
「ナザレ、お前ら、まだ偽装なのか」
かなり直接だった。
俺は答えに詰まった。
榊原さんが先に言った。
「対外的には、必要な範囲で交際関係として扱っています」
「それを二年?」
「はい」
「便利な関係だな」
「便利ではありません」
「不便か」
「かなり」
榊原さんは即答した。
田村さんは笑った。
「そりゃそうだろうな」
「笑い事ではありません」
「いや、笑わなきゃやってられねえだろ」
奥さんが、静かにお茶を置いた。
「玲子さん」
榊原さんが少し驚いた。奥さんは、もう法務さんとは呼ばなかった。
「はい」
「無理してない?」
「……しています」
榊原さんは、少し間を置いて答えた。珍しい答えだった。
「でしょうね」
奥さんは頷いた。
「この人、手がかかるでしょう」
「はい」
「本人は良い子なんだけどね」
「はい」
「良い子だから余計にね」
「はい」
俺は黙っていた。反論できない。
良い子と言われるのは、かなり変だった。
神の子ではなく、良い子。
田村家は、やはり強い。
「ナザレ」
奥さんが俺を見た。
「はい」
「玲子さんに甘えすぎない」
「はい」
「でも、頼らないふりもしない」
「はい」
「ちゃんと困りなさい」
「困る」
「困ってる時に、困ってるって言いなさい」
俺は、すぐに答えられなかった。
困っている時に、困っていると言う。
簡単なようで、難しい。
俺は困る前に、誰かを救おうとしてしまう。困っていると言う前に、誰かを壊さないようにしようとしてしまう。
「はい」
俺は答えた。
「困ったら、困っていますと言います」
「それでよし」
榊原さんが、小さく息を吐いた。
「ありがとうございます」
「玲子さんもよ」
奥さんは言った。
「はい」
「法務さんでいすぎない」
「……はい」
「二年も一緒にいるなら、全部仕事では通らないよ」
食卓が静かになった。
田村さんが余計なことを言いそうになったが、奥さんに見られて黙った。強い。
榊原さんは、視線を落とした。
「今は、職務です」
「今は、ね」
奥さんは、それ以上言わなかった。
だが、その「今は、ね」はかなり強かった。
俺は味噌汁を飲んだ。熱かった。
いや、味噌汁は熱い。ただ、少しごまかしたかった。
食後、俺は田村さんと縁側に出た。
榊原さんは奥さんに台所へ呼ばれていた。たぶん、逃がしてもらえない。
田村さんは庭を見ながら言った。
「二年か」
「はい」
「長いな」
「はい」
「でも、あっという間でもあるか」
「そうですね」
「お前、少し顔が変わったな」
「そうですか」
「前は、すぐ全部背負う顔してた」
「今は?」
「まだ背負うけど、少し下ろし方を覚えた顔だ」
俺は庭を見た。
草が揺れている。石がある。小さな木がある。
「榊原さんのおかげです」
「だろうな」
「田村さんたちのおかげでもあります」
「うちは飯食わせただけだ」
「それが大きいです」
「そうか」
田村さんは、少しだけ黙った。
「でもな」
「はい」
「いつまでも旅してるわけにもいかねえだろ」
「はい」
「どこかに置き場所がいる」
「はい」
「教会は無理か」
「今は」
「ローマも無理」
「はい」
「うちも無理」
「聖地になります」
「なるな」
「はい」
田村さんは、庭の隅を見た。
「なら、変な場所がいるな」
「変な場所」
「神さまとしても置けて、人としても飯が食える場所」
俺は、田村さんを見た。
「そんな場所がありますか」
「知らん」
「知らないんですか」
「俺は神社の人間じゃねえし」
「神社」
「ただ、教会じゃ重いんだろ」
「はい」
「日本で神さまを置くなら、神社だろうが」
「俺を?」
「お前を、というか、お前の神さま部分を」
田村さんは、かなり雑に言った。
だが、その雑さが、逆に分かりやすかった。
俺の神さま部分。俺の人の部分。
教会では、それが分けられない。だから重い。
「分けるんですか」
「混ぜると面倒なんだろ」
「かなり面倒でした」
「なら分けろ」
簡単に言う。いつもそうだ。
田村さんは、難しいことを、雑に切る。
だが、その雑さで道が見えることがある。
「神としては、どこかに祀る」
「おう」
「人としては、そこで働く」
「飯も食う」
「掃除もする」
「草むしりもな」
「大工仕事も」
「向いてるだろ」
俺は庭を見た。
神として祀られる。人として働く。
それは、変だ。かなり変だ。
だが、教会に入るよりは、少し息ができる気がした。
「榊原さんに相談します」
「そうしろ」
「法務さんに怒られますかね」
「怒られるだろ」
「やはり」
「でも、怒られるってことは、検討はしてくれるってことだ」
「そうなんですか」
「本当にダメなら、怒る前に切る」
田村さんは言った。
「玲子さんは、怒りながら道を探すタイプだ」
俺は少し笑った。
「かなり分かります」
「だろ」
台所の方から、奥さんと榊原さんの声が聞こえた。
何を話しているかまでは分からない。
ただ、榊原さんの声が、いつもより少し柔らかい気がした。
気のせいかもしれない。確認すると問題行動になりそうだったので、確認しないことにした。
帰る時間になった。
玄関で、奥さんが小さな包みを渡してくれた。
「おむすび」
「また」
「移動するんでしょう」
「はい」
「お腹が空いてる時に、大事なことを決めちゃだめ」
「覚えています」
「ならよし」
田村さんは言った。
「今度は、二年も空けるなよ」
「はい」
「ただし、聖地にするなよ」
「しません」
「法務さんに迷惑かけすぎるなよ」
「はい」
「でも、ちゃんと頼れよ」
「はい」
「難しいな」
「はい」
田村さんは笑った。
「まあ、がんばれ。神の子」
久しぶりに、その呼び方を聞いた。
でも、嫌ではなかった。田村さんが言うと、なぜか重くなりすぎない。
「はい」
俺は答えた。
「がんばります。人として」
「そっちの方が大事だ」
車に乗る。
榊原さんが運転席に座る。俺は助手席。
田村さんと奥さんが見送ってくれる。
車が動き出す。田村家が遠ざかる。
俺は振り返らなかった。振り返ると、少し帰りたくなりすぎる気がした。
しばらく走ってから、榊原さんが言った。
「何を話していたんですか」
「田村さんと?」
「はい」
「神としての置き場所と、人としての働き場所について」
榊原さんは、ほんの少しだけハンドルを握る手に力を入れた。
「具体的には」
「神社という案が出ました」
「……田村さんが?」
「はい」
「かなり雑ですね」
「でも、少し通る気がしました」
「通るかどうかは別として、検討対象にはなります」
「怒りませんか」
「怒る前に確認します」
「田村さんが言っていました」
「何を」
「本当にダメなら、怒る前に切る。榊原さんは怒りながら道を探すタイプだと」
榊原さんは、しばらく黙った。
「田村さんは、余計なことを言いますね」
「当たっていますか」
「状況によります」
「便利ですね」
「便利です」
車は夕方の道を走る。
安全確保のための一時的移動は、二年続いた。
それは長い。かなり長い。
だが、その二年で、俺は少し学んだ。
水をワインにしないこと。水の上を歩かないこと。教会に入らないこと。助けたい時に止まること。困ったら困っていると言うこと。
そして、どこかに置き場所が必要だということ。
神としてではなく。人としてでもなく。
その両方を、混ぜすぎずに置ける場所。
そんな変な場所が、この国にはあるのかもしれない。
榊原さんは前を見たまま言った。
「神社案は、慎重に検討します」
「はい」
「ただし、かなり問題があります」
「はい」
「宗教法人、祭神名、地元合意、教会との関係、あなたの生活費、身分、労務、寄付金の扱い、参拝者対応、炎上リスク」
「多いですね」
「非常に」
「でも、検討はする」
「します」
「ありがとうございます」
「まだ感謝しないでください」
「では、保留します」
「はい」
俺は窓の外を見た。
田村さんの家は、もう見えない。
だが、おむすびの包みが膝の上にある。
帰る場所にはできない。でも、帰ってこいと言ってくれる人はいる。
それだけで、少し歩ける気がした。
神の子、家なき子。
二年も安全確保をしている。
それでも、少しずつ居場所の形が見え始めていた。




