第22話 クリスマス会ではありますが、誕生日会ではありません
湖を離れてから、季節が少し進んだ。
安全確保のための一時的移動は、一時的という名前のわりに、あまり終わる気配がなかった。
榊原さんは、予定を決して長く見せなかった。
明日の宿。三日後の移動。一週間後の確認。
そのくらいまでしか、俺には知らされない。
たぶん、榊原さんの中にはもっと長い計画がある。
だが、それを俺に見せない。
俺が知りすぎると、誰かに聞かれた時に答えてしまうかもしれないから。あるいは、自分で意味を付けすぎるから。
俺は、少しずつそれにも慣れていた。
名前はナザレ。宿帳にはナザレ・ヨシュア。宗教を聞かれたら、関心があります。水の上は歩かない。水をワインにしない。困ったら、榊原さんに確認する。
かなり現代の生活に馴染んできた気がする。
ただし、相変わらず戸籍はない。国籍もない。帰る家もない。
そこは、あまり馴染めていない。
その日、俺たちは小さな町のホテルに泊まっていた。
駅前には商店街があり、道沿いには色のついた灯りが飾られている。店の入口には緑の輪があり、赤い服を着た白ひげの老人の人形が置かれている。
何度も見た。サンタクロース。
天啓で知っている。聖ニコラウスに由来するという話も、現代の商業的な姿も、子どもへ贈り物を運ぶ存在としての扱いも、知識としては知っている。
だが、町全体がこうなるのは、少し不思議だった。
「榊原さん」
「はい」
「町が、かなり赤と緑です」
「クリスマスが近いので」
「クリスマス」
「はい」
「俺の誕生日とされている日ですね」
「正確には、誕生日と扱われている日です」
「実際の誕生日ではない可能性が高い」
「はい」
「でも、町は祝う」
「はい」
「日本はキリスト教徒が少ないんですよね」
「はい」
「なのに、かなり祝う」
「季節行事として定着しています」
「便利ですね、季節行事」
「便利です」
ホテルのロビーにも、小さなクリスマスツリーが置かれていた。
緑の木に、丸い飾り。金色の星。赤いリボン。小さな電球。
「木が飾られています」
「クリスマスツリーです」
「知っています」
「はい」
「木を飾るのは、少し良いですね」
「大工だからですか」
「たぶん」
俺はツリーを見た。
俺の誕生日ではないかもしれない日。俺の名前を元にした行事。
だが、日本では恋人や家族や友人が、ケーキを食べたり、贈り物をしたり、子どもが喜んだりする日になっている。
教会の中とは違う。ローマとも違う。
日本のクリスマスは、俺を重くしすぎない。
少し変だが、少しありがたかった。
「今夜、田村さんたちと連絡します」
榊原さんが言った。
「田村さんたちと?」
「はい。オンラインで」
「教皇様ではなく」
「田村さんです」
「かなり安心します」
「それは良かったです」
「何の連絡ですか」
「クリスマス会です」
俺は少し黙った。
「俺の?」
「誕生日会ではありません」
「先に言われました」
「クリスマス会です」
「でも、俺がいます」
「はい」
「主賓ですか」
「違います」
「違うんですか」
「クリスマス会の参加者です」
「かなり曖昧ですね」
「曖昧にします」
榊原さんは、いつものように断言した。
「実際の生年月日が不明なので、誕生日としての扱いは避けます」
「では、何を祝うんですか」
「現代日本における季節行事です」
「俺、関係ありますか」
「かなりありますが、法務上は曖昧にします」
「便利ですね、法務上」
「便利です」
夜、ホテルの小さな会議室を借りた。
会議室と言っても、長机と椅子があるだけの部屋だった。
だが、榊原さんは通信環境を確認し、出入口を確認し、画面の映り込みを確認した。
「背景はこれで問題ありません」
「白い壁ですね」
「特定されにくいので」
「クリスマス会なのに」
「安全が優先です」
「ツリーは」
「置きません」
「なぜ」
「位置情報につながる可能性があります」
「クリスマスツリーも危険」
「場合によります」
画面がつながった。
田村さんの家だった。懐かしい居間が映る。
田村さんがいる。奥さんがいる。
机の上には、料理が並んでいるようだった。
鶏肉。サラダ。ケーキ。みかん。
そして、この前送ったワインらしき瓶も置かれている。
「おう、ナザレ」
田村さんが言った。
「こんばんは」
「元気か」
「はい」
「水からワインは作ってないな」
「作っていません」
「よし」
奥さんが画面の向こうで笑った。
「ちゃんと食べてる?」
「はい」
「甘いものばかり食べてない?」
榊原さんが俺を見た。
「食べています」
「少し」
俺は言った。
「プリン、クリームソーダ、ソフトクリーム、りんご飴」
「かなり食べてるじゃない」
「現代の甘いものが強いので」
奥さんは笑った。榊原さんは、少しだけため息をついた。
「榊原さん、苦労してるねえ」
奥さんが言った。
「いえ」
「してる顔だよ」
「しています」
田村さんが言った。
「お前、神の子の世話係になってんだから、苦労しないわけないだろ」
「保護担当です」
榊原さんが訂正した。
「似たようなもんだ」
「違います」
「そういうことにしといてやる」
田村さんは、ワインの瓶を持ち上げた。
「これ、届いたぞ」
「水から作っていません」
「知ってる。だから飲む」
「ありがとうございます」
「こっちが礼を言うんだよ。変な土産だが、普通に嬉しい」
普通に嬉しい。
その言葉が、かなり嬉しかった。
俺の手から直接出たものではない。俺が奇跡で作ったものでもない。
榊原さんが選び、配送手続きをし、田村さんの家へ届いた普通のワイン。
それが普通に嬉しい。
たぶん、それでいい。
「今日はクリスマス会です」
榊原さんが言った。
「誕生日会ではありません」
「分かってるよ」
田村さんが言った。
「本人の誕生日、違うかもしれねえんだろ」
「はい」
「でも、ケーキは食う」
「それはいいんですか」
「クリスマス会だからな」
田村さんは堂々としていた。かなり強い。
奥さんがケーキを見せてくれた。
白いクリーム。苺。小さなチョコレートの板。
そこに文字が書かれている。
メリークリスマス。
俺の名前はない。
それが少し安心した。
「名前、入れなかったんですね」
俺が言うと、奥さんは笑った。
「入れたら重いでしょ」
「はい」
「今日はクリスマス会。誕生日会じゃない」
「榊原さんと同じことを」
「その方が安全なんでしょ」
「はい」
奥さんは、やはり強い。
画面の向こうで、田村さんがワインを開けた。俺は少し緊張した。
「どうですか」
「まだ飲んでねえよ」
「そうでした」
グラスに注がれる。赤い液体。
田村さんが一口飲む。奥さんも飲む。
少し黙った。
「うまい」
田村さんが言った。
「でも、変な効能はないな」
「ありません」
榊原さんが即答した。
「普通にうまい」
奥さんが言った。
「よかったです」
俺は言った。
「水から作らなくても、喜んでもらえるんですね」
「当たり前だろ」
田村さんが言った。
「人が作ったもんを、人が送って、人が飲む。それで十分だ」
「はい」
「すぐ奇跡に逃げるな」
「逃げる」
「便利すぎる力は、手抜きにもなるだろ」
俺は少し黙った。
田村さんは、軽く言ったのだろう。だが、かなり刺さった。
「手抜き」
「違うか」
「いえ」
俺はワインの瓶を見た。
人が育てたぶどう。人が醸したワイン。榊原さんが選んだ一本。田村さんの家に届いたもの。
それを、俺が水から作ってしまえば、そこにあった時間や手間がなくなる。
奇跡は救いになることもある。でも、時々、誰かの積み重ねを飛ばしてしまう。
「違わないと思います」
俺は言った。
「なら覚えとけ」
田村さんは、そう言って鶏肉を食べた。
かなり雑だ。でも、雑だから受け取れる言葉もある。
ローマで言われたら重すぎたかもしれない。教皇様に言われたら、神学になったかもしれない。
田村さんがワインを飲みながら言うから、少し日常の言葉になった。
「そっちは何か食べてるの?」
奥さんが聞いた。
「こちらにもケーキがあります」
榊原さんが言った。
「買ったの?」
「はい」
「よかった。ちゃんと食べなさいね」
「はい」
会議室の机の上には、小さなケーキが二つ置いてあった。
コンビニで買ったものだった。苺のショートケーキ。小さなプラスチックのフォーク。
「コンビニのケーキです」
俺が言うと、田村さんが笑った。
「いいじゃねえか。今の日本のクリスマスっぽい」
「そうなんですか」
「だいたいそうだ」
「かなり手軽ですね」
「手軽でいいんだよ」
手軽でいい。それもまた、少し救いだった。
俺に関わるものは、すぐ重くなる。
教義。救い。罪。誕生。死。復活。再臨。
だが、日本のクリスマス会では、コンビニのケーキでもいいらしい。
それは、かなりありがたい。
俺はフォークでケーキを切った。白いクリーム。苺。
一口食べる。甘い。柔らかい。
「どう?」
奥さんが聞いた。
「現代のケーキは、かなり優しいです」
「また変な感想」
「おいしいです」
「それでいいの」
奥さんは笑った。
それでいい。
綺麗です。おいしいです。楽しいです。
現代日本で人として暮らすには、そういう言葉がかなり大事らしい。
しばらく、画面越しに食事をした。
田村さんはワインを飲み、奥さんはケーキを食べ、俺はコンビニのケーキを食べ、榊原さんは紅茶を飲んでいた。
宗教的な話は、ほとんど出なかった。それがよかった。
ただ、途中で田村さんが言った。
「そういや、今日はお前の誕生日じゃないんだよな」
「たぶん違います」
「じゃあ、何の日なんだ」
俺は少し考えた。
「俺が、いろんな形で思い出される日でしょうか」
「重いな」
「すみません」
「まあ、でもそうかもな」
田村さんはグラスを置いた。
「思い出される日なら、思い出す側が好きにやればいいんじゃねえの」
「好きに」
「教会で祈るやつもいる。家でケーキ食うやつもいる。子どもにプレゼント渡すやつもいる。恋人と飯食うやつもいる。全部お前が背負う必要はねえだろ」
俺は、言葉を失った。
奥さんが田村さんを見た。
「珍しくいいこと言うね」
「珍しくは余計だ」
榊原さんは、静かに紅茶を置いた。
「今のは、かなり重要です」
「法務さんにも褒められたぞ」
「評価です」
「それでもいい」
俺はケーキを見た。
クリスマス。俺の誕生日ではないかもしれない日。それでも、俺の名が関わる日。
世界中で祈る人がいる。歌う人がいる。騒ぐ人がいる。売る人がいる。買う人がいる。ケーキを食べる人がいる。
その全部を、俺は背負わなくていい。
思い出す側が、それぞれの形で思い出す。
それを全部、正統かどうか裁かなくていい。
「俺は、背負いすぎていたんでしょうか」
俺が言うと、田村さんは即答した。
「そりゃそうだろ」
「即答」
「だって、お前すぐ全部背負いそうな顔するし」
「そんな顔ですか」
「する」
榊原さんも小さく頷いた。
「します」
「榊原さんまで」
「評価です」
「嬉しくない評価ですね」
「必要な評価です」
奥さんが言った。
「今日はクリスマス会なんだから、難しい顔しないの」
「はい」
「誕生日会じゃないんだから」
「はい」
「ケーキ食べなさい」
「はい」
俺はケーキを食べた。
甘い。優しい。そして、少しだけ軽い。
クリスマス会は、誕生日会ではない。
少なくとも今日は、そういうことになった。
通話の終わり際、田村さんが言った。
「ちゃんと帰ってこいよ」
俺は少し黙った。
帰ってこい。
田村家を俺の置き場所にしてはいけない。それは分かっている。
だが、帰ってこいと言われることは、やはり嬉しかった。
「はい」
俺は答えた。
「いつか」
「いつかでいい」
田村さんは言った。
「ただし、いきなり聖地にするなよ」
「しません」
「水もワインにするなよ」
「しません」
「うちの風呂で水上歩行もするなよ」
「しません」
「ならいい」
奥さんが画面の向こうで笑っていた。
「榊原さんも、無理しないでね」
「ありがとうございます」
「この子、すぐ無茶しそうだから」
「はい」
「見張ってて」
「保護します」
「そういうことにしとく」
通話が終わった。
画面が暗くなる。会議室が静かになった。
机の上には、食べかけのケーキと、紅茶の紙コップがある。
榊原さんは、少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
「クリスマス会、終わりましたね」
俺が言った。
「はい」
「誕生日会ではありませんでした」
「はい」
「でも、少し祝われた気がします」
「季節行事です」
「便利ですね」
「便利です」
俺はケーキの最後の一口を食べた。
「榊原さん」
「はい」
「全部背負わなくていいんですね」
「はい」
「教会のクリスマスも、日本のクリスマスも、子どものプレゼントも、恋人たちの食事も、コンビニのケーキも」
「はい」
「全部、俺が正しいかどうか決めなくていい」
「はい」
「それは、少し楽です」
「よかったです」
榊原さんは、会議室の時計を見た。
「そろそろ戻りましょう」
「はい」
「ケーキの容器は片付けます」
「俺がやります」
「ありがとうございます」
二人で片付けた。
小さなケーキの容器。プラスチックのフォーク。紅茶の紙コップ。
世界宗教の行事にしては、かなり軽い片付けだった。
でも、その軽さがありがたかった。
部屋へ戻る途中、ホテルのロビーのツリーが光っていた。
俺は足を止めた。金色の星が、上にある。
「ナザレさん」
「はい」
「どうしました」
「いえ」
俺はツリーを見た。
「木は、いろいろ背負わされますね」
「十字架ですか」
「それもあります」
「クリスマスツリーも」
「はい」
「大工らしい感想ですね」
「木には少し同情します」
榊原さんは、少しだけ笑った。
「今日は、木の話にしておきましょう」
「はい」
今日は、木の話。それでいい。
俺はツリーに向かって、声に出さずに思った。
この日を祝う人たちが、それぞれの重さで祝えますように。
重すぎる人は、少し軽く。軽すぎる人は、それでも誰かを傷つけずに。
ケーキを食べる人は、ケーキをおいしく。祈る人は、祈りを静かに。
俺の名前が、棍棒ではなく、少しでも杖になりますように。
それは祈りだった。だが、声には出さなかった。
榊原さんに怒られるから。
いや、たぶん今日は、怒られない気もした。
でも、出さなかった。
出さなくても、届く祈りがあるかもしれない。
少なくとも、今日のクリスマス会は、誕生日会ではなかった。
そして俺は、コンビニのケーキが少し好きになった。




