第20話 水をワインにしない理由
翌朝、湖の近くの宿を出る前に、榊原さんは俺に確認した。
「今日は、食品関係の施設に立ち寄ります」
「食品関係」
「はい」
「市場ですか」
「ワイナリーです」
ワイン。
かなり直接来た。
「水をワインにするところですか」
「違います」
「ぶどうをワインにするところ」
「はい」
「現代では、そちらが正式ですね」
「昔もそうです」
「そうでした」
水をワインに変えた記憶はある。
婚礼の席だった。酒が足りなくなった。母が言った。
あの時、俺は水をワインにした。
それは、誰かを支配するための奇跡ではなかった。世界を変えるためでもなかった。証明するためでもなかった。
ただ、祝いの席を壊さないためだった。
今思うと、かなり危ないことをした気もする。
現代なら、法務さんが止める。間違いなく止める。
「榊原さん」
「はい」
「ワイナリーに俺を連れて行って大丈夫ですか」
「なぜですか」
「やりそうだからですか」
「はい」
「正直ですね」
「念のためです」
「その念のため、かなり具体的ですね」
「あなたの場合は必要です」
車で少し走ると、山の斜面にぶどう畑が見えた。
整った列。支柱。葉。
まだ収穫期ではないらしいが、畑には手入れされた気配があった。
「ぶどうです」
「はい」
「知っています」
「でしょうね」
「これは、かなり懐かしいです」
「そうですか」
「ぶどう畑は、昔もありました」
「はい」
「ただ、こちらはとても整っていますね」
「現代農業です」
「人間は、ぶどうまでまっすぐ並べる」
「管理しやすいので」
「管理」
「はい」
施設の駐車場に車を停める。
小さな建物だった。売店と見学スペースがあり、奥に醸造施設があるらしい。観光客は数組。静かだが、完全に無人ではない。
榊原さんは、まず注意事項を出した。紙だった。
「ここにも書類が」
「ワイナリー用です」
「個別対応」
「はい」
俺は紙を受け取った。
一、展示物に不用意に触れないこと。
二、発酵中の液体に近づきすぎないこと。
三、水をワインにしないこと。
四、試飲を求められても、榊原に確認すること。
五、未成年者が近くにいる場合、酒類に関する宗教的発言をしないこと。
六、「これは私の血である」と言わないこと。
「六番」
「重要です」
「確かに危険ですね」
「非常に危険です」
「ここまで書かないと言いそうですか」
「言いそうです」
「否定できません」
俺は紙を丁寧に畳んだ。
「分かりました」
「本当に分かりましたか」
「はい」
「水を」
「ワインにしません」
「これは」
「私の血であると言いません」
「よろしいです」
施設に入ると、ぶどうの香りというより、木とアルコールと少し酸味のある空気がした。
壁にはワイン造りの説明が並んでいる。
ぶどうを育てる。収穫する。潰す。発酵させる。熟成させる。瓶に詰める。運ぶ。売る。
ワインになるまでの工程が、丁寧に説明されていた。
「かなり手順がありますね」
「はい」
「水をワインにするより、ずっと複雑です」
「普通はそうです」
「普通は」
「普通は」
榊原さんは、少しだけ警戒していた。
俺は展示を見た。
ぶどうの品種。土壌。気温。日照。糖度。酵母。発酵温度。樽。瓶内熟成。
人間は、水をワインにしない代わりに、ぶどうと時間と技術でワインを作っていた。
それは、かなりすごいことだった。
「榊原さん」
「はい」
「人間は、二千年かけて、かなり丁寧にワインを作るようになったんですね」
「はい」
「奇跡より、手間がかかっています」
「それが普通の醸造です」
「普通は、手間がかかる」
「はい」
俺は、ガラス越しに並ぶタンクを見た。
金属の大きな容器。そこに、ぶどうが入って、発酵して、ワインになる。
見えない時間が、液体の中で進む。
奇跡は一瞬だ。だが、醸造には時間がある。
待つ時間。腐らせないための管理。失敗を避けるための知識。気候との相談。作り手の手。
水をワインにした時、俺はその時間を飛ばした。
あの時は、それでよかったのかもしれない。
だが、いつもそれでよいわけではない。
「何か考えていますね」
榊原さんが言った。
「はい」
「水をワインにした時のことですか」
「はい」
「ここで実演しないでください」
「しません」
「本当に」
「榊原さんに怒られるので」
「怒る以前に止めます」
「はい」
売店に戻ると、試飲コーナーがあった。
小さなグラスが並んでいる。
スタッフの女性が説明していた。
「ご試飲できますよ」
来た。
榊原さんが少し前に出た。
「ありがとうございます。ただ、運転がありますので」
「助手席の方だけでも」
俺を見る。俺は何も言わない。学習している。
榊原さんが俺を見た。
「飲みますか」
「いいんですか」
「少量であれば。体調確認の上で」
「では、少し」
「ただし、感想は一般的に」
「一般的」
「はい」
「これは私の」
「言わないでください」
「はい」
小さなグラスを受け取る。
赤いワインだった。香りが強い。
口に含む。酸味。渋み。甘みは少ない。
だが、味が複雑だった。
「どうですか」
スタッフの女性が聞いた。
俺は慎重に答えた。
「興味深いです」
榊原さんが、わずかにこちらを見た。たぶん、安全すぎたらしい。
「香りが強く、複雑です」
俺は言い直した。
「お詳しいんですか」
スタッフの女性が笑った。
「関心があります」
また便利な言葉だ。
「こちらはこの土地のぶどうを使っていまして」
女性は説明を始めた。
この土地の気候。昼夜の寒暖差。水はけ。品種。醸造方法。
俺は聞いた。かなり真面目に聞いた。
ワインは、ただの飲み物ではなかった。土地の話だった。水と土と光と時間の話だった。
説明を聞き終えると、俺は言った。
「とても丁寧に作られているんですね」
「ありがとうございます」
女性は嬉しそうだった。
榊原さんも、少しだけ安心した顔をした。問題行動にはならなかったらしい。
売店を見て回る。
瓶が並んでいる。赤。白。ロゼ。スパークリング。ラベルもさまざまだ。
「買いますか」
榊原さんが聞いた。
「いいんですか」
「土産としてなら」
「誰に」
「田村さんたちに送ることはできます」
「それはいいですね」
「ただし、あなたが選ぶと意味が発生する可能性があります」
「俺が選んだワイン」
「危険です」
「では榊原さんが選んでください」
「それが安全です」
榊原さんは一本を選んだ。店員が包んでくれる。
「贈り物ですか」
「はい」
「ご家族に?」
俺は少し考えた。
田村さんたちは、家族ではない。でも、ただの知人でもない。
客として迎えてくれた人たち。
帰る場所にしてはいけないけれど、戻りたいと思う場所。
「お世話になった方に」
俺は答えた。
「いいですね」
店員は笑った。
「喜ばれると思います」
喜ばれるといい。
俺が水をワインに変えるより、この土地で作られたワインを贈る方が、ずっとよい気がした。
それは、誰かの手間を届けることだから。
施設を出て、少し離れたベンチに座った。
目の前にはぶどう畑が広がっている。
榊原さんは水を飲んでいた。
「水ですね」
「はい」
「ワインにしません」
「よろしい」
「しかし」
「はい」
「水をワインにしたら、現代ではどうなるんですか」
榊原さんは、かなり嫌そうな顔をした。
「本当に聞きますか」
「資料として」
「まず、食品衛生上の問題があります」
「はい」
「酒税法上の問題があります」
「はい」
「製造免許の問題があります」
「はい」
「成分表示、原材料表示、製造者責任、販売の有無、提供相手の年齢確認、アルコール度数の確認、健康被害が出た場合の責任」
「多いですね」
「さらに、動画に撮られた場合、宗教的宣伝、詐欺、偽装、超常現象、陰謀論、各種検証動画、模倣行為が発生します」
「かなり面倒ですね」
「非常に」
「では、婚礼の席でも」
「現代なら、事前に相談してください」
「酒がなくなった場合は」
「買ってください」
「買う」
「はい」
「水をワインにするより」
「買ってください」
強い。
現代では、ワインが足りなくなったら買う。とても分かりやすい。
「昔は、近くにコンビニがありませんでした」
「今はあります」
「現代、強いですね」
「はい」
俺は笑った。
「では、今後、水をワインにしそうになったら」
「はい」
「榊原さんに怒られるので、買います」
「それでお願いします」
「酒税法により」
「はい」
「食品衛生により」
「はい」
「動画拡散により」
「はい」
「法務さんに怒られるので」
「そこが一番効いているのは少し問題です」
「でも効きます」
「なら、当面はそれで構いません」
ぶどう畑を見ながら、俺は考えた。
奇跡は速い。だが、速すぎる。
人が積み上げる時間を飛ばしてしまう。
もちろん、必要な時もあるのだろう。あの婚礼の席では、必要だったのかもしれない。
でも今は、ぶどう畑がある。醸造家がいる。店員が説明してくれる。瓶に詰めて、田村さんに送ることができる。
なら、俺は水をワインにしなくていい。しない方がいい。
「榊原さん」
「はい」
「人間が時間をかけて作れるものを、俺が奇跡で急いで作る必要はないのかもしれません」
榊原さんは、少しだけこちらを見た。
「はい」
「それは、怠慢ではなく」
「はい」
「尊重かもしれない」
彼女は少し黙った。
「良いと思います」
「評価ですか」
「評価です」
「嬉しいです」
「ただし、今の発言は、外では言わないでください」
「なぜ」
「切り取られると危険です」
「そうでした」
俺は頷いた。
大事なことほど、外では言えない。それもまた、今の俺の生活だった。
帰り道、車の中で、榊原さんは田村さん宛ての配送手続きを進めていた。
「ワイン一本送るにも、かなり手続きがあるんですね」
「配送ですから」
「俺が一瞬で出せば」
「しないでください」
「はい」
スマホを持たない俺の代わりに、榊原さんが配送先を入力する。
田村さんの住所。田村さんの名前。備考欄。
「備考に何か書きますか」
「お願いします」
「何と」
俺は少し考えた。
「お世話になりました。これは水から作っていません」
榊原さんが手を止めた。
「書きません」
「だめですか」
「だめです」
「では」
「普通に、お元気で、でいいです」
「普通」
「はい」
「普通は難しい」
「お元気で、でお願いします」
「では、それで」
榊原さんは入力した。
お元気で。短い。
だが、今の俺にはそれくらいがちょうどよかった。
夕方、次の町へ着いた。
宿は小さなビジネスホテルだった。チェックインを済ませ、部屋に入る。
机に置かれた電気ケトルを見て、俺は少し笑った。
水を入れれば湯になる道具。これは奇跡とは呼ばれない。仕組みがあるから。
俺は水を入れた。スイッチを押す。
しばらくして、湯気が立つ。湯になる。
それを見ていると、なんだか少し安心した。
水は、湯になればいい。ワインにならなくてもいい。
その夜、田村さんから榊原さんの端末に返信が来た。
ワインの配送通知に対するものらしい。
榊原さんが読み上げる。
「『水から作ってないなら飲む』」
俺は笑った。
「田村さん、分かっていますね」
「かなり」
「奥さんには」
「『お礼は言っておきなさい』と続いています」
「奥さんも分かっていますね」
「はい」
俺は少し安心した。
ワインは、水から作らなくても届く。
人は、奇跡がなくても喜べる。
それはかなり良いことだった。
ベッドに横になり、天井を見る。
今日は、水をワインにしなかった。
ぶどう畑を見た。人の手間を見た。酒税法を学んだ。食品衛生を学んだ。
そして、田村さんにワインを送った。
神の子、ワインを買う。
たぶん、これでよい。
現代では、祝いの席にワインが足りなければ、まず買いに行く。
そして、それでもどうにもならない時だけ、榊原さんに相談する。
俺はそう決めた。
かなり現代に馴染んできた気がする。




