第19話 法務さんに怒られるので
湖畔を歩いたあと、俺たちは小さな売店に入った。
土産物と軽食を売っている店だった。
木の棚に、菓子、地元のジャム、瓶詰め、絵はがき、小さな置物が並んでいる。奥には喫茶スペースがあり、窓から湖が見えた。
榊原さんは、まず出入口を確認した。次に店内の人数を確認した。それから席を選んだ。
窓際ではなく、少し奥の席。
「景色が見えにくいですね」
「見えすぎる席は、外からも見えます」
「なるほど」
「景色より安全です」
「安全は、だいたい景色に勝ちますね」
「はい」
俺たちは席に座った。店員が水を持ってくる。
「ご注文がお決まりになりましたら」
メニューを見る。
コーヒー。紅茶。りんごジュース。チーズケーキ。プリン。トースト。カレー。
「カレー、どこにでもありますね」
「日本では強いです」
「やはり」
榊原さんはコーヒーを頼んだ。
俺は、りんごジュースとプリンにした。
「甘いものが続いています」
榊原さんが言った。
「現代の甘いものが強いので」
「昨日も聞きました」
「何度でも言えます」
「食べすぎには注意してください」
「神の子でも?」
「はい」
「健康管理がある」
「あります」
かなり現代だった。
プリンが来た。黄色く、柔らかく、上に茶色いカラメルがかかっている。
俺はスプーンを入れた。少し揺れる。
「これは、かなり頼りないですね」
「プリンです」
「でも、形を保っている」
「はい」
「信仰みたいですね」
「プリンです」
「今日はプリンの話」
「はい」
学習している。
一口食べる。甘い。柔らかい。少し苦い。
「これは、かなり良いです」
「よかったです」
「現代は、甘いものを柔らかくするのも上手ですね」
「そうですね」
榊原さんはコーヒーを飲んでいた。その横顔は、少し疲れて見えた。
教皇様を止めるのは、やはり疲れるのだろう。
俺はプリンを食べながら聞いた。
「榊原さん」
「はい」
「今日は、教皇様に返事をしないんですよね」
「はい」
「本当にいいんですか」
「いいです」
「向こうは、待っているのでは」
「待っていただきます」
「強い」
「保護計画上、必要です」
「保護計画」
「はい」
「俺の」
「はい」
榊原さんはコーヒーカップを置いた。
「あなたは、呼ばれると応じようとします」
「はい」
「求められると答えようとします」
「はい」
「困っている人を見ると、助けようとします」
「はい」
「それは誠実ですが、危険です」
「また誠実が危険になりました」
「何度でも言います」
言われてみれば、その通りだった。
誰かに呼ばれれば、振り向く。誰かに求められれば、答えようとする。誰かが困っていれば、助けたいと思う。
それが悪いことだとは思わない。
だが、俺の場合は、たぶんそれだけで済まない。
俺が一人を助ければ、なぜ他の人は助けないのかと言われる。
俺が一つの問いに答えれば、なぜ別の問いには答えないのかと言われる。
俺が一つの祈りに応じれば、応じられなかった祈りが傷になる。
「では、俺は困っている人を見ても何もしない方がいいんですか」
「まず、確認してください」
「誰に」
「私に」
「全部?」
「できるだけ」
「法務さんに確認しないと、助けてもいけない」
「状況によります」
「かなり厳しいですね」
「厳しくします」
榊原さんは、まっすぐ俺を見た。
「あなたの善意は、あなたを壊す可能性があります」
それは、少し痛かった。だが、彼女は止めなかった。
「そして、あなたの善意は、周囲にも利用される可能性があります」
「はい」
「だから、止めます」
「はい」
「私が冷たい人に見えても」
「はい」
「止めます」
俺はプリンを見た。スプーンの上で、黄色いものが少し揺れている。
「榊原さんは、冷たい人ではないと思います」
そう言うと、彼女は少しだけ目を伏せた。
「評価しないでください」
「評価ではありません」
「では」
「感想です」
「感想も危険です」
「そうなんですか」
「場合によります」
榊原さんは、コーヒーを飲んだ。
「でも」
「はい」
「ありがとうございます」
かなり小さな声だった。
俺は聞こえたが、聞こえなかったふりをした方がいい気がした。
少しして、店の入口が開いた。
中年の女性が入ってきた。店員と顔見知りらしい。短く話したあと、棚からいくつか商品を手に取っている。
その女性は、俺たちの席の近くを通った時、俺を見て少し驚いた顔をした。
「外国の方?」
来た。
榊原さんが姿勢を整える。俺は学習しているので、すぐには話さない。
「はい」
榊原さんが答える。
「日本語は?」
「少し話せます」
俺は言った。
「まあ、上手ねえ。旅行?」
「はい」
「彼女さんと?」
榊原さんは、もう以前ほど止まらなかった。
「はい」
答えた。俺も黙っていた。よく耐えたと思う。
「いいわねえ。湖、きれいでしょう」
「はい」
俺は答えた。
「とてもきれいです」
「そうでしょう。ゆっくりしていってね」
「ありがとうございます」
女性は笑って去っていった。榊原さんが小さく息を吐いた。
「今の対応は適切でした」
「評価ですか」
「評価です」
「ありがとうございます」
「ただし、嬉しそうにしないでください」
「嬉しそうでしたか」
「少し」
「褒められたので」
「評価です」
「また」
俺は少し笑った。
湖を見ながらプリンを食べる。
偽装上の彼女と旅行者として扱われる。
それが少し楽しい。
だが、楽しいと忘れそうになる。
自分がなぜここにいるのかを。教皇様からメールが来ていることを。教会には入れないことを。名前を変えたことを。
だから、榊原さんは必要なのだろう。
俺が忘れそうになると、彼女が思い出させる。
逆に、俺が重くなりすぎると、彼女はプリンを食べさせる。
かなり忙しい仕事だ。
店を出て、湖畔の遊歩道を歩いた。
人は少ない。水鳥が浮かんでいる。遠くに遊覧船が見えた。
「船があります」
「はい」
「乗るんですか」
「今日は乗りません」
「なぜ」
「人が少なすぎると逃げ場がありません」
「なるほど」
「それと、水辺なので」
「水上歩行はしません」
「先に言えるようになりましたね」
「学習しています」
「良いことです」
遊歩道の先に、小さな桟橋があった。立入禁止ではないが、人はほとんどいない。
俺は少し足を止めた。水面が近い。風が湖を渡ってくる。
昔、船の上で怯える弟子たちを見た。水は、人を支えることも、沈めることもある。
俺にとっては、どちらの記憶もある。
「ナザレさん」
榊原さんの声がした。
「はい」
「近づきすぎないでください」
「はい」
「考え込みすぎないでください」
「それも分かるんですか」
「分かります」
「すごいですね」
「あなたの問題行動の前兆です」
「前兆」
「はい」
俺は桟橋から少し下がった。
「榊原さんに怒られるので、近づきません」
「怒ってはいません」
「では」
「止めています」
「止められるので、近づきません」
「それでお願いします」
言ってから、俺は少し気づいた。
これは、たぶん便利だ。
自分が何かをしそうになった時、神学的にどうか、道徳的にどうか、救いになるか、奇跡になるか、証明になるか、そういうことを考え始めると、重すぎる。
だが、
榊原さんに怒られるのでやめる。
これは軽い。
そして、かなり強い。
「榊原さん」
「はい」
「俺は今後、危ないことをしそうになったら、法務さんに怒られるのでやめます、と言うことにします」
「言い方は少し気になりますが、行動抑制としては有効です」
「有効」
「はい」
「では、有効です」
「ただし、私が怒るからではなく、危険だからやめるのが本来です」
「でも、危険の範囲が広すぎて分かりません」
「それはそうです」
「法務さんに怒られる、の方が分かりやすい」
榊原さんは、少し困った顔をした。
「私が、あなたの禁止事項の象徴になるのはどうなんでしょう」
「かなり頼りになります」
「頼られすぎるのも問題です」
「では、ほどほどに頼ります」
「ほどほど」
「神父様の祈りと同じです」
「それはまた危険な比較です」
俺は笑った。榊原さんも、ほんの少しだけ笑った。
午後、湖の近くの小さな資料館に入った。
地元の自然や歴史を紹介する施設だった。人は少ない。
湖の成り立ち、周囲の植物、野鳥、昔の暮らし、漁具、農具。
そこには、神学はなかった。ただ、土地の説明があった。
俺は、古い農具の展示の前で足を止めた。
「これは」
「鍬ですね」
「知っています」
「使ったことは」
「似たものなら」
「大工だけではなかったんですか」
「人は、必要ならいろいろします」
「それはそうですね」
木と鉄でできた道具。手で持つための柄。土を起こすための先。
それは、かなり分かりやすい道具だった。
「現代の道具より、落ち着きますね」
「なぜですか」
「何をするものか、見ればだいたい分かります」
「なるほど」
「スマホは、見ただけでは分かりません」
「そうですね」
「でも、世界につながる」
「はい」
「鍬は、土につながる」
榊原さんは、展示を見た。
「あなたは、土や木に近いものを見ると落ち着くんですね」
「そうかもしれません」
「大工だからですか」
「たぶん」
「神の子でも」
「木を削る方が分かりやすい時があります」
言ってから、少しだけ自分で納得した。
神の国を語るより、木を削る方が分かりやすい。
人を救うより、椅子を直す方が分かりやすい。
壊れた戸を直すことには、終了条件がある。
開く。閉まる。軋まない。
それでよい。
人間の救いには、終了条件がない。
だから難しい。
「榊原さん」
「はい」
「俺は、木を直す仕事ならできるかもしれません」
「大工仕事ですか」
「はい」
「身分と労務の問題があります」
「やはり」
「ただ、将来的には検討できます」
「本当ですか」
「はい。収益化の形を慎重に考える必要はありますが」
「奇跡より良いですか」
「はるかに良いです」
「では、奇跡ではなく修理をします」
「それは良い方針です」
少し嬉しかった。
奇跡ではなく、修理。
それなら、俺にもできるかもしれない。
誰かを救うと言うより、壊れたものを直す。
それは小さい。だが、嘘が少ない。
資料館を出ると、夕方になっていた。
宿へ戻る道で、子どもが転んだ。
少し先の道だった。膝を擦りむいたらしい。子どもが泣き、母親が慌てて駆け寄る。
俺は反射的に足を向けかけた。
榊原さんが、俺の袖をつかんだ。
強くはない。だが、はっきり止める力だった。
「待ってください」
俺は止まった。
子どもの母親が、持っていたティッシュで膝を押さえている。近くの店の人が、救急箱を持ってきた。
大丈夫そうだった。血は少し出ているが、深い傷ではない。
俺が行かなくても、誰かが助ける。俺が触れなくても、処置できる。
奇跡は必要ない。
俺は、ゆっくり息を吐いた。
「榊原さんに怒られるので、行きません」
「怒りません」
「止められるので、行きません」
「はい」
「でも」
「はい」
「行かなくても、大丈夫なんですね」
「はい」
子どもはまだ泣いている。母親がなだめている。店の人が絆創膏を出している。周囲の大人が見ている。
世界は、俺なしでも少しずつ手当てをする。
そのことに、俺は少し救われた。
「俺が行かない方がいい時もあるんですね」
「あります」
「助けたいと思っても」
「はい」
「助けない方がいい」
「はい」
「かなり難しい」
「難しいです」
榊原さんは、俺の袖を離した。
「でも、今の判断は適切でした」
「評価ですか」
「評価です」
「嬉しいですが、少し痛いです」
「はい」
「それでも、適切なんですね」
「はい」
俺は子どもの方をもう一度見た。
泣き声は少し小さくなっていた。母親が、子どもを抱きしめている。店の人が笑っている。
たぶん、大丈夫だ。
俺は歩き出した。
宿に戻ると、榊原さんは夕食まで休むように言った。
俺は部屋に入り、椅子に座った。湖が少し見える。
今日、俺は何度も止められた。
教皇様への返信。湖への接近。子どもの傷。
どれも、俺が動きたくなるものだった。
だが、動かなかった。
榊原さんに怒られるので。
いや、止められるので。
それは、軽い言い方だ。でも、軽いからこそ効く。
俺は、すべてを神学にしすぎる。すべてを救いにしすぎる。すべてを祈りにしすぎる。
そのたびに、榊原さんが俺を日常へ戻す。
今日はプリンです。今日は湖です。今日は子どもの擦り傷です。
それ以上にしないでください。
俺は、少しずつ覚えている。
全部を救わないこと。全部に答えないこと。全部を背負わないこと。
それは怠慢ではなく、時々、必要な距離なのだと。
夕食前、榊原さんが部屋の前に来た。
「ナザレさん」
「はい」
「夕食です」
「行きます」
「その前に」
「はい」
「今日の子どもの件ですが」
「はい」
「止まってくれて、助かりました」
俺は少し驚いた。
「評価ですか」
「いえ」
榊原さんは、廊下で少しだけ目を伏せた。
「感謝です」
感謝。
彼女が、その言葉を使うのは珍しい。
「そうですか」
「はい」
「では、俺も」
「はい」
「止めてくれて、ありがとうございます」
榊原さんは、少しだけ頷いた。
「どういたしまして」
それから、いつもの声に戻った。
「ただし、今後も同様の場面では必ず確認してください」
「はい」
「勝手に治さないでください」
「はい」
「擦り傷でも」
「擦り傷でも」
「水をワインに」
「しません」
「よろしい」
俺たちは廊下を歩き出した。
法務さんに怒られるので。
たぶん俺は、この言葉にかなり救われている。
神の子としてではなく、ナザレさんとして。
人として、止めてもらえる。
それは、思ったよりも安心することだった。




