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薄暗い林道が不意に途切れて、緩やかに馬を進めていたリリアはまばゆさに目を細めた。
目が慣れると、初夏の陽射しが水面に反射して光を振りまいている様子が視界いっぱいに広がる。
この瞬間が心地よくて大好きだ。
「晴れてよかったですわね」
隣にいるデニスがうなずく。
「昨日は薄曇りでどうなるかと思いましたが、よい天気になりました。先に神殿で一度馬を休ませましょう」
湖の畔に立つ小さな小屋のような木造の神殿を示して、リリアはうなずきつつ背後にいる護衛達へと行き先を告げる。
侍女達は連れて来なかったが、さすがに護衛なしの許可は降りず後ろには三人ついてきている。とはいえ彼等がついてくるのもここまでだ。
王宮から馬で一刻ほど離れた場所にあるモーロラ湖畔は湖とその周囲が神殿の管轄となっている。釣りさえしなければ立ち入りは自由で、湖畔には周辺住民や馬を連れた貴族達の姿もぽつぽつ見える。
神殿の敷地内で荒事を起こす者はいないので、護衛達に四六時中ついてもらう必要はない。
リリアとデニスは馬の世話を護衛達に頼み、神殿への喜捨をすませてくる。喜捨は衣食住や施療にまつわる品と決まっており、ふたりで相談して絹糸に決めたのだ。
(なんだか楽しい)
こんな日常的なことをふたりだけで決めて実行するだけでも、気持ちが浮ついてしまっていた。
神殿を出ると馬たちが人間以外の生き物のためのものである湖の水を飲んでいて、リリアはデニスと共にその傍らへと行く。
ふたりの視線は自然と穏やかに凪いだ湖面へと吸い寄せられる。平穏を閉じ込めたような聖域の静けさは、波立つ感情さえ静謐にしていく。
(今、何をお考えなのかしら)
高揚感が落ち着いたリリアはデニスの横顔へ目をやる。彼はいつもと変わらない雰囲気で口数が極端に増えたり減ったりすることもなく、あまりにも普通だった。
護衛達がいるので当たり障りのないやりとりしかできない間、自分はずっと落ち着きなくそわそわしていた。
それから人間の方も用意していた荷物から水筒を取り出して休息し、護衛達はこの場に残して湖の周辺を巡ることになった。遠目から人影はぽつぽつあったが実際に馬を走らせてみると、意外と人とすれ違わない。
少し速度を上げて湖岸沿いを走ると涼やかな風が全身を包んで心地よい。半ば馬と一体になったような感覚と、大地に足のついていない浮遊感が混じり合う瞬間が好きだ。
ほんの少し視線を横にずらせば、デニスが同じ速度でぴったりとついてきてくれている。
もし、これが最後のふたりだけの思い出になっても悪くないとすら思える。
「こんなに楽しいのは久しぶりですわ」
半周したところでまた休憩することになり、リリアは草むらに腰を下ろして伸びをする。
去年は父の急死で慌ただしく気持ちの整理をつけるのにいっぱいいっぱいで、この頃は綺麗なドレスも社交の場も楽しいはずなのに息詰る瞬間が多かった。
こんなにも伸び伸びした気分になるのは本当にいつ以来だろう。
「そう言われてしまうと、先日のお話の続きをするのが心苦しくなりますね」
側に腰を下ろしたデニスが苦笑して、リリアは姿勢を正す。
「わたくしは、どんなお答でもデニス様のお気持ちが知りたいですわ」
あまりいい返事ではなさそうな気配に気分は萎んでしまうのだけれど、それでもデニスの口からきちんと嘘偽りの言葉が欲しい。
「……リリア様を当家にお迎えすることは、難しくともできないことはないと思います。当家は上位の伯爵家には劣りますが、中立派としての立ち位置は明確です。今の政情を考えれば、両派にとっての緩衝地になりえます」
急に難しい話を始められて戸惑っていると、デニスが言葉を止めて微笑む。
「結婚の承諾をいただくことは、不可能ではないということです」
「そうですわね。お兄様やお爺様がよいと言わなければ、結婚はできませんもの……。それぐらいはわかっていますわ」
結論を焦らされているようで、リリアは拗ねる。
「申し訳ありません。ひとつずつ確認していく方がよいかと思いまして。もし、リリア様がどうしてもと仰るなら結婚はできます。お立場としてはリリア様が私より上で、皇帝陛下やアドロフ公をお味方につけられたらお断りすることはかぎりなく難しい。あなたにはそれだけのお力がある」
言われて初めてリリアはその手段もあったのかと衝撃を受ける。
デニスの方がずっと年上で落ち着いているので、自分の身分が彼より高いということは形式的に理解していても意識することがなかった。
兄はともかく、祖父はそう簡単に聞き入れてくれそうにないとはいえ結婚することが目的ならひとつの手である。
「それは、でも、横暴ですわ」
腹立たしいような悲しいようなよく分からない感情が胸にうずまいて、リリアは首を横に振る。
「あなたはご自分の心に素直です。そして、他人の心も大事にされる。私は、あなたのそんなところをとても好ましく思っています」
デニスが自分のことをどう思っているのか聞くのは初めてな気がする。
嬉しいけれど、あまりにも穏やかな温度で情熱的とは言いがたく複雑な気分である。
「デニス様ご自身は、わたくしを妻に迎えることがお嫌ではないのですわよね」
待ちきれず一番大事なことを確認するとデニスがうなずく。
「そうですね。この先、結婚生活を続けていけるとは思います。それはリリア様が望む結婚生活とは違うかもしれません」
一呼吸置いてデニスが遠くへと目を向ける。
「私はまだ、妻を愛しています。これからも愛し続けるでしょう。リリア様のことを大切に慈しむことはできても、妻のことは常に心の中にある」
それはよく分かっている。
ただ直接言葉にされるとやはり胸が軋んで、リリアはうつむく。
「私は、リリア様には幸せになっていただきたい。誰よりもあなたを愛し、護れる力を持った方と結ばれて欲しい。それが私の願いです」
「……それは、わたくしとは結婚できないということですのね」
何よりも自分の先を案じてくれているからこそ、デニスがそう言うのだとちゃんと納得はできる。
しかし彼以外との幸せな先が全く見えなくて、感情は追いつかない。
「あくまで私の勝手な願いです。それもまたあなたのお気持ちとは違うかもしれない。今日は、私の正直な考えをお伝えしたかったのです」
デニスが立ち上がり、リリアに手を差し伸べる。
「もう少しだけ、時間を置きましょう。リリア様ご自身がどんなお考えをお持ちか次の機会にお聞かせ下さい」
受け入れられたわけでも断られたわけでもないらしい。
戸惑いながらもリリアはデニスの手を取る。
結果がなくとも答をはぐらかされたとは思わない。今、やっと彼が年齢差も身分差もなく対等に自分と向き合ってくれているのは感じる。
「ええ。考えておきますわ。ひとつだけお聞かせ下さる?」
「なんでしょう」
「ご再婚される意思はお変わりないのですわね」
「ええ。家同士の利害が一致する方を探すでしょう」
貴族の婚姻とは家のためであるというのは知っていても寂しいものである。
亡妻への愛を抱き続ける代わりに、デニスは愛されることも求めはしないのだろう。
「あまり長くはお待たせできませんわね。……今日はまだご一緒して下さるのかしら?」
退屈げな馬を撫でながらリリアはデニスに問う。
「ええ。神殿までゆっくり戻りましょうか。この頃は忙しくてこんな時間はなかなかとれないもので」
「そうですわね。わたくしもすぐに帰るのはもったいないと思っていましたの」
リリアはデニスと共に再び騎乗し、ゆるりと残り半周を景色を眺めつつ雑談しながら進んでいく。
馬上の高みから広がる緑豊かな景色と青空を映す湖面を眺め、花を見つけ小鳥のさえずりに耳をすます。長いかと思った帰りは行きよりもずっと短くて、神殿が近づいて来るとふたりきりの時間が終わってしまう寂しさがつのってくる。
護衛達が出迎えに現れると否が応でも皇女とお付きという雰囲気にさせられてしまう。
それでも王宮に戻る道程も途中馬を休ませつつ和やかに過ごせた。
「デニス様、今日はお付き合いいただいてありがとうございます。楽しかったですわ」
誘ったのはデニスだが体面上リリアの方がお付きをお願いしたという体であるものの、気持ちは本物だった。
今日という一日が遠い初恋の思い出になるのかそれとも幸せの始まりなのかはわからないけれど、かけがえのない大切な一日であることには違いない。
「ええ。私にとってもとてもよい一日でした」
デニスの言葉にも嘘偽りがなく聞こえた。
彼が去るのを見送りリリアは護衛に伴われて王宮へと入っていく。
(やっぱりわたくし、デニス様が好きだわ)
たったひとつ確かな想いは揺るがない。
その想いの行く末をどうするべきか、決断すべきときがすぐ側までやってきているが以前のような焦りは不思議と感じなかった。




