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4-1

 リリアはここ数日体調がいいオリガとふたりきりで、テラスの長椅子に腰掛けていた。

「ねえ、お母様はお父様と結婚して幸せだった?」

 午前の柔らかい陽射しと暖かなそよ風を受けて心地よさげな母へ、リリアは静かに問いかける。

「幸せだったわ。どうしたの、ご縁談のことでなにかあったのかしら?」

 縁談の話があいかわらず多いことを知っているオリガが、心配げに首を傾げる。

「まだお兄様達には内緒ですけれど、結婚したい方がいるの」

「何か、ご事情がおありなのね」

「……その方はわたくしのことを好ましくは思って下さっているけれど、それはわたくしの好きとは違うの。それでも結婚したいと思うのはいけないことかしら」

 デニスは自分にとって理想の優しい夫になってくれる。そう考えれば例え一生片想いでも十分幸せになれるのではという思いと、自分の中に折り合いのつかない違和感めいたものが胸にあった。

 もちろん誰よりも彼に愛される願望はあっても、それが違和感の正体ではなかった。

「難しいわね。わたくしがエドゥアルト様と結婚することになったのは、お父様の娘という理由以外なかったからそういうことは何も考えなかったわ」

 オリガが風に揺れる木々を見つめながら寂しげにつぶやく。

「お父様はお母様のこと大切にされてたわ」

 両親はずっと仲がよかった。父はいつも母の体をいたわり優しく接していたし、母も初めて会った時からずっと父を慕っていると教えてくれていた。

 お互い顔すら知らないうちに結婚が決まっていても、優しく穏やかな関係を築けていたのは誰の目から見ても明らかだった。

 ただ一点、過去に父には側室がいた。兄の補佐役となる第二子を望んだからだというの理由ではある。

 いつの頃だっただろうか。フィグネリアを見る父が時々寂しげで、それはデニスが亡妻のことを話すときとよく似た雰囲気を纏っていると気付いたのは。

 フィグネリアの誕生と同時に側室は亡くなっていて、肖像画すらないのでどんな人だったかは知らない。

 幼い頃についていたアドロフ公家から推挙された教育係が側室になった経緯だけは知っていて、父の古い知り合いだったらしいということは聞いた。

 教育係はフィグネリアへの悪態を自分に聞かせてくるのが嫌で、両親に泣いて頼んですぐに外してもらったためやはり詳しくは知らないままだ。

「ええ、エドゥアルト様はとてもお優しい方でしたわ。リリアもよく知っているわね」

 母が微笑んでリリアはうなずく。

「ええ。結婚したい方はお父様みたいに優しくて大切にして下さるの。今だってわたくしが幸せになることを願って下さっている……」

 考えれば考えるほど胸につかえている違和感が気になる。

「リリアにとってはその方のお側にいることが幸せ?」

 オリガが穏やかに問うことにすぐには返事ができなかった。

「……そうですわね。わたくし、お側にいることだけしかできないのが怖いのかもしれませんわ」

 政も分からなければ領地運営もできない。社交の場で役に立てるかというと、自分の存在がデニスに余計な負担となってしまう可能性が十分にある。

 幸せになれるのは自分だけではないのか。

 引っかかっていたものがやっと言葉として形をなした。

「リリアはその方を幸せにして差し上げたいのね」

 今度は迷うことなく、リリアは母の言葉に首を縦に振る。

「わたくしがお側にいない方がいいかもしれないのに、結婚したいと言うのはわがまま、ですわよね」

「リリアのその気持ちだけでもお伝えしたほうがいいわ。まだ、お相手の方の幸せがどういうことなのか聞いたわけではないのでしょう」

 思えばデニスは家のことばかりであまり彼自身のことは考えていない様子だった。亡妻への想いを胸に伯爵家の嫡子としての責務を果たすことだけが、彼自身にとっての幸せなのかはよく分からない。

「そうしますわ。……お母様には何があっても一番に報告しますわね」

 そっと寄りかかった母の体はあまりにも細く頼りない。こうして外に出られる日はあっても、またすぐに伏せってしまう。その間隔が少しずつ短くなっているのは気のせいではない。

「ええ。たくさん話して、楽しいことも悲しいこともあなたのことは全部聞きたいわ」

 子供の頃のように髪を撫でられてふいに涙がこぼれそうになる。

 やはり母には嘘偽りのない満面の笑みで花嫁姿を見せたいと思いつつ、リリアはもちろんと笑顔を取り繕うのだった。


***


「デニス様、ここ、覚えていらっしゃる?」

 リリアは中庭の一角をデニスとそぞろ歩きながら緑の覆い茂る一角を指し示す。

「ここでしたかね。リリア様がお小さい頃に迷い込まれたところは」

「そう。とっても遠くまでやってきてしまったと思ったのに、たいした距離ではありませんでしたわね。茂みだってもっと深くてとても怖いところだったのに」

 幼い頃鬱蒼とした森のようだった茂みが今は胸の高さまでしかなく、低い木々の向こうには王宮の一角が見える。

「それでも子供の足でよくここまでとは思いますよ。王宮の奥より表に近いので見つけた時には驚きました」

「デニス様に見つけていただいてよかったわ。ここで出会わなければ、わたくし、あなたのことを知ることはなかったですもの」

「……出会わなければよかったとは思われないのですね」

 デニスが苦笑して、足を止めたリリアは目を丸くする。

「考えもしませんでしたわ。デニス様は、そう思っていらっしゃる?」

 不安混じりに問うと彼はいいえと、すぐに首を横に振る。

「あの頃、私は自分の手ではどうしようもないことと分かっていても、妻と息子のためになにひとつできなかったことへやるせない思いでいました。あなたを見つけ出した時、こんな自分でもまだ役に立てることがあるのだと救われたのですよ」

 出会った頃の深い悲しみを今でも瞳の奥底に抱えているデニスと視線が交わる。

 あの頃とは違い、抱き上げてもらわなくとも今はほんの少し顎を上げるだけでデニスの表情がよく分かる

「わたくし、デニス様と一緒に幸せになりたいとやっと気づきましたの。大切にされるばかりでなくて、あなたにも幸せになってほしいと願っていますわ。だけれどあなたにとって何が幸せか分からないのです」

 デニスが少し驚いた顔をした後、しばし悩んでいた。

「私はそんなことを考えることすらしなくなってしまいましたね」

 うっすらとそんな気はしていたとはいえデニスの自嘲めいた言い方に胸が締め付けられる。

 それと同時に、ここから踏み出さなければなにも始まらないとリリアは真っ直ぐにデニスを見上げる。

「わたくし、デニス様と結婚します。もっとあなたのお役に立てる賢い方だとか、面倒なことがないお家柄の方だとか相応しい方がいらっしゃるのはわかっています。それでもやっぱり、わたくしは誰にもあなたをお幸せにすることを譲りたくありません」

 デニス本人でさえ分からないのならば自分が見つけるだけだ。わがままと言われてもこの想いだけは手放したくなかった。

「……私がひとつ、望むものがあるとしたならあなたの幸せかもしれません」

 デニスが眩げに目を細めて微笑んで、リリアははっきりしない返事だとむくれる。

「それならばデニス様と結婚する以上の幸せはありませんわ。わたくし、あなたに奥様を忘れて欲しいとは思っていませんのよ。奥様とご子息を今も大切にされているあなたが好き。幸せな思い出を捨てたり悲しいことを封じなくとも、新しい幸せを求めてもよいと思いますの。デニス様の人生の残り半分の幸せはわたくしがお作りします。あなたが幸せだと仰って下さることが、わたくしにとっての幸せです」

 ひと思いに言い切るとデニスは逡巡しながらもうなずいて膝を折った。

「まず、リリア様にまだ申し上げていなかったことがあります」

「はい?」

 ここまで来ていったい何を言い出すのかとリリアは怪訝な顔をする。

「当家は貧しくはありませんが贅沢を気兼ねなくできるほどの余裕はございません。そう遠くない先に共に領地へとお越しいただくことになりますが、帝都と比べれば賑やかさと華やかさはなく、領民とほぼ同数の山羊がおります」

「……昔、山羊がたくさんいることは聞いたことがありますわね。山羊は苦手ではありませんし、贅沢というのはよくわかりませんけれど、無理を押してまで高価な物が欲しいとは言いませんわ」

 降嫁するのだから今と同じ暮らしができるとは考えていない。馬以外の動物は好きと言うほどでもないものの、嫌いでも苦手でもなかった。

「当家で出されるパンは来客以外へは小麦をほとんど使うことはありません。ほぼライ麦となります」

 ライ麦を主とするパンは普段の小麦半分のパンより酸味が強くて苦手だった記憶があり一瞬言葉に詰まる。

「だ、大丈夫ですわ。きっとすぐに慣れますわ。まだ他になにかございます?」

「……当家の領地周辺には子爵や男爵などの小領主が多く、あなたをお迎えすることをこころよく思わない家もあるでしょう。周辺領主との付き合いがとても大事になります」

「わたくしが、一番頑張らないといけないことですわね」

 バラノフ伯爵領が帝都とアドロフ公領の間ぐらいの山岳地にあるのはぼんやり記憶にあるものの、周辺地図は薄もやに包まれているのでここはしっかり覚えねばならないだろう。

「私があなたに与えられるものはないに等しい。それでもご決意は変わりありませんか?」

 跪いたままデニスが手を差し出す。

「わたくしにとって、あなたのお側にいられることが一番の価値ですわ」

 リリアは迷いなくその手を取る。

「私はリリア様を愛しているとは、まだ言えません。ですが、今、あなた以上に大切だと思える女性は他にいないのです」

 デニスがそっと手を握り替えしてくる。そのぬくもりは言葉以上に彼の優しさを伝えてくる。

「リリア様、共に生きてくれますか?」

「ええ、もちろん」

 手を握りかえすと、デニスが微笑んで指先に触れたのかどうかすら曖昧なほどそっとくちづける。

 ほんの一瞬のぬくもりが全身に血が巡って頬が熱くなる。

「…………デニス様、実際に結婚できるかどうかは別の話、ですわよね」

 熱が巡った後、ふと一瞬冷静になってしまいリリアは立ち上がったデニスと顔を見合わす。

「……そうですね」

「お兄様はすぐに受け入れて下さると思うのですけれど、フィグお姉様がどう仰るかしら」

 イーゴルから結婚の承諾をもらうのは簡単そうであるが、分からないのがフィグネリアである。さすがに姉が納得しないまま結婚は難しいであろうし、それに祝福してほしくもあった。

「フィグネリア皇女殿下とは直接お話させていただければと思います……実を言いますと一度呼び出されておりまして」

 デニスからフィグネリアが婚約者候補探しのことをすべて把握していたことを聞かされ、リリアはびっくりすると同時に最近の会話を思い出す。

「縁談のお話をされるわけですわ……」

「フィグネリア皇女殿下も、リリア様がご心配だったのでしょう。それでも行動を制限されたりはしなかった」

「わかっていますわ。いつもわたくしのこと大事にしてくださっているもの。それで、フィグお姉様とのお話ってやっぱり難しいことですわよね」

 政の話となると自分が口を挟む余地がなければ下手に口を出さない方がよい気もする。

 リリアは悩んだ末、デニスとフィグネリアにふたりだけで話してもらって結果によってはまた自分で説得にかかることにする。

「デニス様とフィグお姉様のお話の内容は理解が難しいと思うのですけれど、あとで簡単にご報告お願いします」

「承知いたしました。ご納得いただけるよう誠心誠意務めます」

 デニスの態度はあまりにもこれまでと変わらず慇懃で、少々おもしろくない。

 結婚すると意思が決まったからといってすぐに変わるものではないのはわかっていても、あまりにも他人行儀過ぎる。

「デニス様、手を繋いでいただけます?」

 おねだりするとデニスが何かに気付いた顔をして、遠慮がちながらも手を取ってくれる。

 リリアは笑みを浮かべ、ゆっくりと先のことについてデニスと語り合うのだった。


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