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デニスは書き上げたばかりの書類の計算間違いを見つけ、ため息と共に頭を抱える。
侯爵家の昼食会に出席してからここ数日、怒濤の毎日だった。昼食会で体調を崩していた見合い相手が懐妊していたことが発覚し、あげくに相手に関しては言えないと頑なに口を閉ざしているということで一騒動あった。
相手方の父親は平身低頭謝罪をしつつ、なぜか代わりにまだ未婚の次女をと勧めて来たので丁重にお断りした。
執務でも提出期限を目前にした書類の上にあろうことかパン屑を落とし放置した官吏がいたため、鼠が寄ってきて蓋の閉まりきっていないインク壺を倒す惨事が起こった。ついでに鼠の駆除と対策も業務に加わって大わらわだった。
他にも小さな悶着がいくつかあって休む暇もないぐらい忙しい。
(なぜ、こんなことに……)
そして一旦状況が落ち着いた合間に頭の中を占めるはリリアのことである。
突然の来訪の時点で驚いたというのに、用件はさらに予想もつかなかったことで未だに整理がつかない。
リリアの言っていたずっとというのはいつ頃からだろうと記憶を反芻する。自分に対する態度に何も変化がないということは、出会ってすぐから本当に長い間だったのかもしれない。
自分自身が記憶にないほど幼い頃から亡妻を恋い慕っていたので、一時のことと切り捨てることもできないのが悩ましい
「バラノフ一等官、ご休憩なさった方がよろしいのでは?」
部下に声をかけられたデニスは一から書類を書き直すのは後にして、修正箇所だけ注釈をつけ正しい数字を書き加えると執務室を一旦出る。
「叔父様。今、かまいませんか?」
そして休憩室に向かう途中、義理の姪であるマーシャが声をかけてきた。
「ああ。ちょうど一休みするところだ。どうしたんだ?」
彼女の所属する部署は隣の棟とはいえ偶然出会うことはまずない。
「お手紙でもと思ったのだけれど、直接お話した方がいいと思って……」
簡素な椅子と机が無造作に置かれた広い休憩室はぽつぽつとひとがいる。奥の厨から茶だけをもらってふたりは隣の空いている応接室に移る。
「……ということは残りおふたりとも、ですか」
マーシャの話は再婚相手候補のうちひとりが他の相手との縁談が纏まりそうだということと、もうひとりはまだ再婚にする気になれないということだった。
候補に挙がっていた全員がこれで望みなしとなった。
「また父からもお詫びさせてもらいますけれど、せっかく叔父様が再婚される気になったのにごめんなさい」
「いや、本来自分で探すべき相手を任せきりにしたのは私だ。そちらに非はない」
見合いをしながらも心の片隅でこんなにも他人に委ねたままでよいのだろうかという気持ちはあった。
「ねえ、叔父様。未婚の方からもお探しになったら? 歳の差はまだなんとかなる年齢よ。今を逃したら未婚でも再婚でもどのみち年齢差も開きますし、お相手が見つからなくなってしまいますわ」
赤子の頃から知っている姪の容赦ない言葉にデニスはぐうの音も出ない。
「……なにも叔父様がそこまで引け目になることはありませんわ。再婚でちょっと年齢が上だろうがかまわないっていう未婚の方々が、私の所に叔父様との仲介を頼みに来ますのよ。会うだけでも会ってみません?」
「引け目になっているように見えるだろうか。再婚でこの年齢なら当然の遠慮だと思うのだが」
「お家柄はもちろん、叔父様は堅実で見目もよいのですから少々お相手を選り好みするぐらいの余裕をお持ち下さいませ。そういう所がいいところでもありますけれど、まず、叔父様のご希望から考えましょう」
既視感のあるやりとりにデニスはなんとも言えない複雑な気持ちになる。
自分が年下の少女に説いたことを姪に言われるとは思いもしなかった。
「……若い女性が自分のような年上に好意を持つとは、どういう心境なのだろうか」
「そうねえ。単純な憧れだとか、父親代わりだったりとかかしら? 結婚してからお互い少しずつ歩み寄っていって妥協していくものだけれど好意はあった方がいいですわね。私も夫に対しては結婚前は『無難』ぐらいでしたけれど、三年も一緒にいれば『妥当』には変わりましたわ」
そこまで言ってふと何かを思い出したようにマーシャが苦笑する。
「叔父様と叔母様は結婚前からとても仲がよかったのですものね。若い女の子よりよっぽど結婚に夢見がちなのですわ」
「夢見がち……」
突きつけられた言葉があまりにも自分に不似合いでつい繰り返す。
「叔父様、相思相愛にならないと結婚できないと思っているのではなくて?」
自分でもよく見えていなかった心の奥底のわだかまりを掴み取られてデニスははっとした。
「そうかも、しれない」
亡き妻以上に愛せる相手でなければ結婚してはいけないのではないか。そうしてそんな人は一生出会うことはないはずだという思考に足を止められていたのだと、今ならはっきり分かる。
貴族の結婚はそういうものではないと理屈は分かっていても、結局本音はそこだ。
「……お考えを変えるのは大変でしょうけれど、整理がついたらお声をかけてくださいませ。お取り次ぎしますわ。急がないでとは言いたいところですけれど、できるだけ早くですよ」
「ああ。君はすっかり大人になったな……」
マーシャがよちよち歩きをしていた頃を思い出して感慨深くなる。
「まあ。とっくに大人ですわよ。そんな年寄りじみたことを仰っていると体の内から老け込んでしまいます」
最後まで手厳しい姪に首をすくめつつ、デニスは厨に茶器を戻す役目を引き受けて部屋を出る。
(お断りする以前の問題だったな)
今までリリアを傷つけず申し出を断ることばかり考えていた。自分の本心すら理解できなかったというのに、納得させられる理由ができるはずもないのだ。
(仕事が落ち着いたら、遠駆けにお誘いしよう)
まずは自分のことをわかった上で話すことからしなければ断ることすら始められない。
その先にもう一度、お互いじっくり考えた方が後悔のない決断ができるだろうとデニスはリリアと向き合う覚悟を決めたのだった。
***
「ねえ、フィグお姉様、結婚するのにお家柄ってそんなに大事なものかしら」
リリアは一緒に昼食をという口実でフィグネリアのいる小宮を訪ねていた。
あれからまだデニスからは手紙ひとつ来ていない。
縁談は上手くいっていないという噂や、執務が忙しいらしいという話は耳に入っているのでじっくり待つつもりだ。
とはいえできるかぎりデニスが断る口実を封じなければならないので、最も障害になりそうなことを賢い姉に聞いてみることにした。
「大事だな。皇族や貴族の結婚において第一に考えるべきことだ」
「それが一番だなんてつまらないですわね。例えばわたくしがお嫁に行くならどんなお家の方かしら」
「……そうだな。まずは九公家。それから侯爵家、あとは一握りの伯爵家といったところか。国外の王家も候補に挙がるが今のところお前を嫁がせる状況にはない」
デニスの言い様ではバラノフ伯爵家はどうやら一握りの内には入らないらしい。
「伯爵家同士でも家格の差がありますのね……」
「それは治めている領地や家系による。もう少し細々とあるのだが、それは教育係に教わっただろう」
「……難しくて、それはあんまりよく覚えていませんわ」
教育係がこんこんと説明してくれても、五つ覚えたら前に覚えた三つは忘れてしまうので最終的によく分からないでいつも終わってしまうのだ。
リリアが目を泳がせていると、フィグネリアはしばし沈黙する。呆れているのでなく、なにか考えている様子だった。
「今、リリアが嫁ぐとしたら侯爵家が最有力候補だろう。その中でも上下はある。この間の昼食会のあの家はまず候補にない」
「大きなお屋敷をもっていますし、あのお家に降嫁された方もおられるのでしょう?」
それはそれで安心なのだが、実例があるのにないというのも不思議な話だ。
「先代の御当主はできたお方なのだが、今の侯爵はな。爵位を継いだというのに領地に戻らず帝都の屋敷で派手な催しをやっているのはいただけない。財は適度に使っていかねばならず、社交の場というのは必要だが限度をこえている。跡継ぎは難点があってもまだましだが、今の所表面的な付き合いだけで距離は置いておきたい家だ。そういったように現在状況も加味される」
「では、御当主のよしあしによっても変わることもありますのね」
デニスは官吏としても有能とはフィグネリアは以前言っていた。それに中立派であるとなるとまったく無理な話ではなさそうだ。
リリアは希望を見いだしてうんとうなずく。
「もしわたくしが家格の見合わないお家の方に嫁ぐならフィグお姉様は反対なさる?」
そして踏み込んだ質問をするとフィグネリアが怪訝そうな顔をする。
「……どうだろうな。相手によっては考慮しないこともないが、リリアは皇帝陛下の妹でアドロフ公の孫だ。嫁いだとしてもなにかと政の面倒がつきまとう。小さくとも平穏に保たれていた家を大嵐の真っただ中へ放り込むことになりかねない。大きな力に振り回されない最低限の力がなければ、安易に嫁がせることはできない」
そしてフィグネリアは一度言葉を切って、躊躇いがちに口を開く。
「リリア、お前が望まない結婚を押しつけないことは約束できる。だが、お前が望む結婚を許諾できるとは言えない。分かるか?」
姉の言いたいことはなんとなく理解できると、リリアは静かにうなずく。
「私も、兄上達も、アドロフ公家もリリアが幸せになれることをちゃんと考えている。縁談もお前の意思を聞かずに進めることはないから、相談したいならいつでも聞く」
「ええ。もし気になる方がいるならちゃんと話しますわ。フィグお姉様もよい方がいるなら内緒にしないでね」
デニスと結婚したいと言ったらフィグネリアはどう反応するだろう。
気にはなるけれどまだデニスの意思を聞く前なので聞けず、リリアは少しずつ話題を別方向へずらしていく。
フィグネリアも自分が話題に出さない限り縁談の話は持ち出さず、長めの昼食の時間は終わった。
それから自分の部屋に戻ると、デニスからの手紙が届いていた。
「大丈夫。きっと悲しいことは書いていませんわ」
リリアは自分に言い聞かせて思い切って開く。
デニスの性格からして文章だけで大事なことを告げる人ではないと分かっていても、もう会えないなどと書かれていたらどうしようと不安でしかたなかった。
幸い核心的なことはなにもなくほっとする。
「……これはどちらかしら」
その代わりの遠駆けの誘いは一体どんな意味を持つのだろう。これで最後なのか、それとも先に向けてなのか。
何も分からないまま、リリアは期待と不安を抱えて約束の日まで過ごすことになるのだった。




