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短い夏の盛りを迎える頃、リリアはデニスと共に山の裾野に広がる黄金のライ麦畑の中を通る一本道を馬車で中腹へと向けて登っていた。
垂れた黄金色の穂を大勢の農夫達が汗を滴らせながら一定の動きで次々と刈り入れていく様子が、窓の向こうに延々と広がっている。
「お話で聞いたよりずっと広いですわね」
バラノフ伯爵領は横ではなく縦に広いということだったが想像していたより果てしなくライ麦畑が広がっている。
「なだらかな隆起があって果てが見づらいので実際より広く見えるのでしょう。それでも我が領地は周辺地域の穀物庫としての役目を果たせるぐらいには安定した収穫がありますね」
「やっぱり、実際見てみると違うものですわね」
ここ最近はフィグネリアが新しく手配した教育係によってバラノフ伯爵家について学んでいる。人生で一番学習意欲に燃えているものの、身についているかというと残念ながらそうでもなかった。
(十八もあるなんて思いませんでしたわ)
周囲にたくさん小領主がいるにしても十にも満たないと思っていたら、十八の子爵家男爵家がありさらに四つの派閥に分かれているということだ。あいにく聞いたこともない家名だらけで覚えられていない。今は概要だけでも覚えておくようにとは言われても、いずれ全部把握しなければと思うと気が重い。
学習していて衝撃的だったのは財務感覚の話だ。
数字と計算が大の苦手なので怯んでいたものの、財務管理でなくバラノフ伯爵家の財務状況から一年間で仕立てられるドレスの質と数、催しの規模、雇える使用人の数など日常のことだった。思っていた以上に今の環境が恵まれていることに驚くばかりである。
デニスの言っていた『贅沢』が朧気な状態から輪郭が見えてきたとはいえ、ものを知らなすぎて不安になってしまう。
「いつかここでデニス様と一緒に暮らすのですわね……」
「降りてみますか?」
中腹の木柵で囲まれた市街地の入り口が見えてきたところで馬車が止まりそこで一度馬に補給させることになった。伯爵家の屋敷はまだ少し上ということだ。
「綺麗……」
狭い窓からの景色でも十分すぎるぐらいライ麦畑の広さは見えたが、高いところから見渡すと圧巻だった。刈り入れが終わった下の方でも麦が干されていたり、まさに干している真っ最中だったりと行程がよく分かる。
「ちょうどいい時期にこられてよかったです」
同じように景色を見ているデニスの表情はいつになく柔らかい。つい昨日までアドロフ公家へと挨拶に行っていたのだが、とても緊張していた様子だったので馴染んだ風景に安心しているのかもしれない。
(お母様のおかげね)
祖父に結婚の報告する前、王宮へと伯父が所用でやってきていたのだが想定通り猛反対だった。しかし母への見舞いをすませると多少文句は言いつつもすっかり大人しくなっていた。そして一昨日から昨日まで滞在したアドロフ公家ではつつがなくデニスは歓待された。
「デニス様はご領地のことが好きですのね」
安心感だけでなく人々の営みを慈しむデニスの表情に気付いて、リリアは微笑む。
「ええ。あなたにも気に入っていただけるといいです」
「一番上まで見る頃には好きになっていそうですわ」
そうして市街地を抜け石積みの伯爵邸でデニスの両親に挨拶しその日はそのまま屋敷で滞在し、翌日は山頂部の山羊の群を眺めつつ神殿も訪れ領地を通り一遍見て回った。
デニスの両親とはお互いまだ緊張感はありつつも、ふたりともデニスと似て穏やかな雰囲気であるので先への心配はなかった。
見てきた景色はまだ目新しいものばかりで馴染むも馴染まないもよくわからないものの、デニスの領地に対する愛着と責任感は伝わってきていつかは同じ気持ちでこの地に立ちたいと思えた。
(嫁ぐまでにひとつでも多く覚えておかないといけませんわね)
そのためには苦手な勉強もこれまで以上にしっかりやらねばとリリアは奮起する。
「わたくしもっとしっかりしますわね」
帰りの馬車でそう告げるとデニスが目を細める。
「あなたは日に日に変わっていきますね」
「あら。デニス様もお変わりになられていますわよ」
「そうですか? もうこの年なのであまり変わることはないと思っていましたが……」
「以前より、よく笑顔を見せて下さるわ」
デニスはいつも物腰も表情も柔らかではあったが、最近楽しげな雰囲気の笑みを零すことが増えた。
「あなたが側にいると明るい心地になるからでしょうね」
言葉以上に気持ちがデニスの表情に表れていて、どんなに不安や心配があっても頑張れそうだとリリアは思うのだった。
***
婚礼の日に向けて慌ただしくしている内に短い夏は過ぎ去っていった。ただ短いながらも暑い夏で、オリガの体力を奪い去ってしまっていた。
「お母様」
白い婚礼衣装を身に纏ったリリアは寝台で伏せっているオリガの側に立つ。
「まあ。懐かしい。綺麗ね、リリア」
半身を起こせず横になったままの母が微笑む。
どうしても同じものが着たくてオリガが着ていた婚礼衣装を譲ってもらい仕立て直したのだ。
背丈はそれほど変わらないがやはり若い頃から食の細かったオリガに合わせた衣装は細身で、そのまま着用するのは難しかった。しかし職人達の手腕で大きく形を変えることなく今日という日を迎えられた。
「今から結婚式に行ってきますわ。今夜からここには帰らないなんて、まだ信じられませんわね」
今日という日をもって自分は皇家を離れる。明日の朝はバラノフ伯爵邸で目覚めるというのはいまだに実感がなかった。
「あんなに小さかったあなたがもう嫁ぐだなんて。元気に育ってくれて嬉しいわ」
生まれたばかりの頃はか弱く無事に成長できるかとても心配だったと何度も語っていたオリガの目に、涙が滲んでいた。
「デニス様と結婚できるのもお母様のおかげですわ。たくさん、ありがとうございます」
本当は抱きしめたかったし抱きしめられたかったのだけれど、母が起き上がるのはつらそうなので手だけ繋ぐ。握り替えしてくる力の弱さに涙ぐみそうになりながらも、強い力で握り返す。
「嫁いですぐは忙しいでしょうけど、時々顔を見せてくれると嬉しいわ」
「ええ。お屋敷はすぐ近くですもの。毎日だって来ますわ」
少しでも時間があるのなら本当に毎日だって王宮に母の顔を見にくるつもりだった。
「毎日は大変よ。たくさん新しくやることがあるのですもの」
「それでも会いたくなったらすぐに来ますわ。明日はさっそく結婚式のお話をしに来ますから楽しみにしていて」
ずいぶん早く戻ってくるのねと母が笑い声をもらして、リリアは笑顔のまま結婚式へと向かう。
オリガが穏やかな眠りについたのはこれより半年あまり後のことだった――。
***
神殿での儀礼が終わりバラノフ伯爵邸では晩餐会が行われていた。伯爵邸の広さから招待できる人数は皇女の結婚としてはずいぶん少ないが、近しい者達しかいないのでそれでリリアは十分だった。
日が暮れると慣例通り喋らず飲食もしなかったリリアとデニスは宴の賑やかさに混じる。
皇帝夫妻に第一皇女、アドロフ公家の跡継ぎ夫妻という面々にデニス側の招待客は最初すっかり縮こまっていたものの、酒も入り次第に同じ熱気に包まれていく。
宴の終わる頃にはデニスの父とイーゴルが号泣しながら意気投合していて、デニスは酔いが覚めた後の父親を心配していた。
「フィグお姉様、わたくし、今、すごく幸せですわ」
嫁ぐ、あるいは婿入りする者が最初に退席する慣例のため宴を抜けるリリアは、兄の様子を離れた所で見守っているフィグネリアに声をかける。
「顔を見れば分かる。……明日から伯爵夫人か」
「大丈夫とは言い切れませんけれど、デニス様と一緒に頑張りますわ」
いささか心配そうなフィグネリアがふっと笑みを浮かべてうなずく。
「そうだな。お前にはもうよき伴侶がいる」
「ええ、でも、どうしてもというときは助けて下さる?」
「どうしてもという時はな。……おめでとう」
フィグネリアが一瞬だけ寂しそうな顔を覗かせてリリアは姉に抱きつく。
「フィグお姉様、たくさんありがとう」
ほんの少しフィグネリアと抱き合って、リリアは宴席から離れる。
扉の向こうでは侍女と使用人達が待ち構えていてリリアは湯殿へと案内される。一度化粧はすべて落とし結わえていた髪も下ろして体を清められていると緊張感が漲ってくる。
薄手の絹の夜着を新たに身に纏い薄化粧を施されると次は寝所へと導かれる。
ひとり残されたリリアは深呼吸をして天蓋付の大きな寝台に浅く腰掛ける。この先のこともきちんと学んでいるし、心も決まっているとはいえまったく落ち着いた気持ちにはなれない。
それからどれだけ待っただろうか。
デニスが客人を見送り仕度をすませて寝所へと現れた。緊張しきった自分に比べとても落ち着いてゆったりした様子で寝台へと近づいて来る。
「ようやく、というよりここからですね。リリア様、私の妻となっていただきありがとうございます」
隣に腰かけてそう言う夫の顔をリリアはどきどきしながら見上げる。蝋燭の薄明かりの中では彼の感情までは読み取れない。
「あの、もう嫁いだのですから、リリアと呼んでくださるかしら?」
「ああ。そうですね。明日からはそうしましょう。では、今日はもうお疲れでしょう。ゆっくりおやすみください」
こともなさげにそう言うデニスに、リリアは目を瞬かせる。
「……初夜ではありませんの?」
まさか今夜は指一本触れないつもりだろうかと、恥を忍んで問いかける。
「いえ、どうしても今夜でなければならないということはないので、まだ先でもよいかと……」
どうやらデニスは本当にそのつもりらしくリリアは彼に詰めよる。
「いけません。わたくしはあなたに身も心も捧げるつもりで今日という日を迎えましたのに、こんな半端なことではいけませんわ」
「しかし、お疲れでしょうし、急ぐことでもないので……」
逃げ腰のデニスにいささか腹が立ってきた。
「わたくしの覚悟をなんだとお思いですの。デニス様もお心を決めて下さいませ」
そう迫るとデニスが困った様子で考え込みながらもうなずく。
「少しでも無理だと思われたらやめますので、けして我慢なさらないとお約束できますか」
「約束はいたしますわ。でも、あなただから大丈夫」
ふわりとデニスの頬に口づけると、額へと口づけが返ってくる。
視線が交わってどちらともなく顔を寄せ唇を重ねる。
そうして婚礼の夜は優しさにくるまれるようにして緩やかに過ぎていくのだった。




