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追放された悪役伯爵は帳簿を正しくつけるだけ ~辺境を黒字にしていたら、俺を断罪した王国は粉飾で手遅れになっていた~  作者: 夜凪 蒼


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第8話「写しは二枚」

商人を探すのにひと月かかった。


正確には探すのに数日、断られるのにひと月だ。


街道筋の宿場を回って、荷を扱う男に片端から話をした。グラウフェルトの領主だと名乗った時点で、半分は顔つきが変わる。残りの半分は名乗る前に隣の男から耳打ちされて変わる。


「あそこは払わん」


その一言で終わる。理由の説明すら要らない。前領主が作った信用の残高は、綺麗にゼロを割っている。


日に焼けて背中の皮が剥ける頃になって、ようやく話だけは聞くという男が現れた。麦がまだ青い、夏の盛りだった。



バルツは街道の宿場町で荷を集める行商の元締めだった。


宿場の外れにこの男の店がある。店といっても荷を積み替えるための土間と帳場、それに家族の住む2階があるだけの建物だ。土間には荷札の束が壁から吊るされ、風が通るたびに乾いた音を立てていた。


「うちは大きくありません。街道の細かい荷を集めて、まとめて南へ流す。組合といっても、同じことをやってる連中が12軒集まってるだけで」


12軒。俺はその数を覚えた。相手が一人でないなら、こちらのやり方はその12軒に広がる余地がある。


歳は40の半ばほど。背は低いが胴が太く、握手の力が万力のようだった。指が短く、爪の中に埃が詰まっている。座るなり、俺の靴を見た。


「泥だらけですな」


「歩いてきた」


「馬もない領主様が、俺に何を売るんです」


「買いたい。塩と獣脂と、干し草を」


バルツは笑った。腹の底から出る種類の笑い方だ。


「前金は」


「ない」


「掛けで、と」


「そうだ」


「お帰りください」


早い。俺は椅子に座り直した。


「まだ条件を言っていない」


「条件は関係ありません。あんたの前任者は、うちの組合の男を3度踏み倒した。3度目のときは荷を積んだ帰りに、代金の代わりに鞭をくれたそうです」


聞いていない話だった。俺は懐の帳面を出し、その場で書いた。


「日付は」


バルツの眉が動いた。


「……何をしてるんで」


「今の話を書いている。誰が、いつ、いくら踏み倒されたか。教えてくれれば台帳に載せる。載せたぶんは領の債務として扱う」


「今さら払えるとでも」


「今は払えない。払えないと書く。それでも、書かないよりましだ」


バルツは俺の手元を見ていた。それから、腰を上げかけていた体をもう一度椅子に戻した。



この男が話を聞く気になった理由は、後で本人から聞いた。


「あんた、書きながら顔色が変わらなかった。都合の悪いことを書くとき、たいていの役人は指が止まるんですよ」


商人は人の指を見ている。俺にも似た癖があるから、その感覚はわかる。


そのときの俺が出した提案は単純なものだった。


「取引のたびに、伝票を2枚同時に書く。同じ文面、同じ数字。書き終えたら2枚を重ねて、端に印を押す」


「印を」


「重ねたまま押す。だから印の絵は半分ずつになる。1枚はうちで保管し、もう1枚はあんたが持って帰る」


俺は宿の卓の上で実際にやってみせた。安物の紙を2枚重ね、領主の印を端にまたがるように押す。離すと、それぞれの紙の端に印の半分だけが残った。


「合わせると、線が繋がる」


バルツが2枚を並べ、指で端を寄せた。切れていた線が一本になる。


この男は無言でそれを眺めていた。並べた2枚から目を離さない。


「……なるほど。片方だけ書き換えると」


「合わなくなる。線がずれるし、数字も食い違う」


「両方書き換えれば」


「あんたの荷車の中と、うちの保管箱の両方に忍び込むことになる。手間の割に儲からない」


バルツは紙を指で弾いた。


「これは、俺があんたを疑うための仕組みでもありますな」


「そうだ。うちが払っていないと言い張ったら、あんたはその紙を出せばいい」


「領主様が、自分を縛る紐を自分で編んでおられる」


「縛られる用意がない相手と、誰が掛けで取引する」



条件の詰めにはそこからさらに2日かかった。


バルツは慈善家ではなかった。掛け売りの利は隣の谷の相場より3割高い。量にも上限を付けられ、最初の取引は塩と獣脂だけ、干し草は履行を見てからだと言われた。


「高いな」


「高いですよ。あんたが飛ぶかもしれん分の値段です。信用のない相手には、その値がつく」


反論の余地がない。俺は条件を飲んだ。


飲んだうえでひとつだけ足した。


「履行するたびに、利を下げる書き付けをくれ。3回払ったら2割、6回で1割5分。前倒しで払ったら、その回は据え置きでいい」


バルツが目を細めた。


「……随分と細かい」


「値段が下がる道筋が見えていないと、こっちは払い続ける気になれない。あんたも取りっぱぐれより、長く付き合うほうが儲かるはずだ」


この男は口の端を一度舐めてから、太い指を一本立てた。


「ひとつ言っておきます。俺はあんたの味方じゃない。儲かるから乗るだけだ」


「そのほうが安心する」


「妙な人だ」


帰りぎわ、バルツが荷車の縁に手をかけた。


「ひとつ、余計なことを申し上げても」


「どうぞ」


「あんたのやり方は、正しいと思いますよ。だからこそ目立つ。目立つ相手と組む商人は、目立たない相手と組むより高い値をつけるもんです」


「値段の話に戻るのか」


「商人ですから。正しさってのは、どこかで誰かが値を払ってる。今のところ、払ってるのはあんただ」


値の交渉の続きだろう、と俺は受け取った。



割符の様式を清書させるつもりで、俺はリーゼに草案を渡した。


彼女は徴税所の卓でそれを広げ、黙って読んでいる。読み終える前に、余白へ炭の芯で線を引き始めた。


「ここに、通し番号を入れます」


「番号を」


「1枚ごとに続き番号を振り、2枚とも同じ番号にします。番号が飛んでいれば、抜かれた枚数がわかります。印だけでは、まるごと1枚捨てられたときに気づけません」


俺は自分の草案を見直した。確かにその通りだった。


「それと、行間を詰めます。日付と品目と数量を一行に収めて、下に余白を残さない。余白があると、後から書き足されます」


「書き足す人間がいると」


「おります」


即答だった。


リーゼは線を引き終えると、炭を置いて、両手を膝の上に揃えた。


「この様式は、私の父が使っていたものです」



窓の外で、荷車の車輪が鳴っていた。


夏の徴税所は暑い。壁の石が日を吸って、夕方まで熱を吐き出し続ける。彼女の額に汗が浮いているのに、拭おうともしなかった。


「父は、王都の財務官でした。城の勘定を扱う部署です」


「聞いていない話だな」


「言っておりませんから」


彼女は卓の木目を見ていた。


「ある年の決算で、父は数字が合わないと申し立てました。どこが、とは私も存じません。ただ、直せと言われて、直さなかったそうです」


俺は口を挟まなかった。


「その年の暮れに、父は東の徴税所へ移されました。次の年に、もっと遠くへ。3度目の異動のあとで、公金の不正を疑われて捕えられました」


「証拠は」


「ございません。取り調べの途中で亡くなりました。牢の中です」


言葉の速度が一定だった。何度も自分の中で繰り返してきた文章なのだとそれでわかる。感情の入る隙間を、あらかじめ削ってある話し方だ。


「母はその翌年に病で亡くなり、私はこちらへ来ました。書記の口があったのは、父の名を知らない土地だけでしたので」


「それで、貴族が嫌いか」


「はい」


まっすぐ返ってきた。俺は少し笑いそうになって、やめた。ここで笑うのは違う。


「俺も嫌いだ。特にこの体の前の持ち主が」


リーゼが顔を上げた。その目に、敵意ではない色が混じっていた。



慰める言葉を俺は持っていない。


そういうものを差し出す仕事を、俺は前世でもしてこなかった。代わりに、俺は彼女の引いた線をもう一度なぞった。


「番号を振るのと、行間を詰めるのと。どちらもいい。父上は他に何か言っていたか」


「……なぜ、そこをお聞きになるのですか」


「使えるものは全部使いたい。あんたの父上は、俺よりこの手の仕事に詳しかった人だ」


彼女はしばらく俺を見ていた。値踏みでも敵意でもない、うまく名前のつかない目だった。


やがて、彼女は清書に一行を書き足す。


「両端に印を押します。上と下の2箇所。片方の隅が破れても、もう片方で照合できます」


俺はその一行を清書に写した。



割符を収める場所として、俺は館の地下の食糧庫を空けさせた。


石を積んだ小部屋で、夏でもひんやりしている。湿気が心配だったが、床に板を渡して箱を浮かせれば持つ。書き物をするのは帳簿室、綴じたものを置くのは地下と分けた。


火が出たときに、両方をまとめて失わないためだ。


管理はテオに任せた。番号を振り、日付を書き、綴じる。少年は最初、番号をひとつ飛ばして真っ青になった。


「飛ばしたなら、飛ばしたと書け」


「……書くのですか。間違いを」


「間違いを消した帳面は、間違いのない帳面より信用されない」


テオは筆を持ったまま動かなくなり、やがて欠番の理由を余白に書き込んだ。それ以来、この子は番号を飛ばさなくなった。



最初の割符を交わしたのは、様式が固まった数日後だ。


バルツの荷車が丘を上ってきた朝、俺は徴税所の前で待っていた。塩12樽と獣脂の樽。荷を降ろし、数を二人で確かめ、紙を2枚重ねて上下に印を押した。


切り離すとき、紙の繊維が裂ける短い音がした。


「これで、あんたも俺も逃げられませんな」


「逃げる必要のない相手と取引したい」


「そう言った人を、俺は何人か知ってます。半分は逃げました」


「残りの半分は」


「今も付き合いがあります」


バルツは自分の側の1枚を油紙に包み、胸の内側へ入れた。俺が控えをしまう場所と同じで少し可笑しい。


俺の側の1枚は地下の箱へ収めた。


合わせなければ意味を持たない紙が、この領で最初の信用になった。


日が傾くころ、荷車が坂を下っていく。


去り際、荷を見送りながらリーゼが言った。


「父の様式です。お使いになって、結構です」


許しをもらったのではなく、預けられたのだと気づくまでに、俺は少し時間がかかった。

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