第9話「正確すぎるという罪」
監査官が来ると聞いたのは来る3日前だった。
先触れの文書には、来訪の目的が2行だけ書かれていた。特別賦課の納付見込みの確認と領政の実地調査。日付と、供の人数と宿の手配の要求。
「宿はない」
俺がそう言うと、テオが困った顔をした。
「館にお泊めしないと、ご機嫌を損ねるのでは」
「損ねる。だが、ないものはない。館の空いている部屋を掃除しろ。寝台は俺のを使ってもらえ」
「お館様はどこで」
「帳簿室で寝る。どうせ夜も書いている」
*
ドミニク・アシェルは、思っていたより若かった。
歳は俺と変わらない。細身で、旅装なのに襟の折り目がまっすぐ立っている。馬を降りて最初にしたのは挨拶ではなく、館の外壁を見上げることだった。
「修繕をなさっていませんね」
「今年は見送った」
「記録に理由が書いてありますか」
「書いてある」
「結構」
それだけ言って、この男は中へ入っていった。無礼というより、無駄がない。挨拶に使う時間があるなら仕事を始めたいという型の人間だ。
俺はこの種の人間を知っている。外から監査に来る若手に、何人かこういうのがいた。優秀で、融通が利かず、そして自分の仕事に誇りを持っている。
厄介な相手だった。
*
ドミニクの監査は丁寧だった。
まず綴りの目録を要求し、次に帳簿室と地下の保管箱を見て回り、それから村に出た。3日のうち2日は外に出ている。実物を見に行く監査官は、実のところ多くない。
倉庫の樽の数を自分で数え、村の家を無作為に選んで受取書きの控えと突き合わせた。イルゼの羊の頭数まで確かめに行ったらしい。
徴税所へ入ったのは2日目の午後だ。俺は同席しなかった。監査官が書記に事情を聴く場に領主が座っていると、聴取の意味が半分消える。
後で聞いた話では、この男は帳面の書式について3つ質問し、それ以外は一言も口を利かなかったという。
「怖くなかったか」
「怖かったです」
リーゼはあっさり答えた。
「あの方が帳面を開いたとき、指が震えました。父の話が出るのではないかと」
「出たか」
「出ておりません。ですが、書き方はご覧になっています」
*
守備隊の詰所では、ガルフが露骨に不機嫌だった。
「王都の犬が、隊の飯の数まで数えて何になるんです」
「数えられて困る数があるのか」
「ありませんが、気分が悪い」
「気分は帳面に載らない。載らないものは、向こうも突けない」
そう言うと、この男は鼻を鳴らして、詰所の受け取り書きを全部卓の上に出した。出し方は乱暴だったが、抜いた紙は1枚もなかった。
着任した春には考えられない光景だ。
*
4日目の朝、この男は帳簿室の卓に紙を並べて座っていた。
「指摘が7点あります」
「聞こう」
「棚卸しの数え書きに、数えた者の署名がない箇所が9つ。日付のみで、誰が数えたかが辿れません」
「直す」
「受取書きの控えのうち、11枚が徴税所に置かれています。原本と控えが同じ建物にあるのは、保管の分散として不備です」
「移す」
「守備隊の俸給未払いの記載に、利息の扱いが書かれていません。債務として繰り越すなら、増えるのか増えないのかを明示すべきです」
「増やさない。そう書き足す」
俺は言われた端から書き取っていた。ドミニクの指摘はどれも正しい。腹は立たない。腹が立つのは間違った指摘をされたときだけだ。
7点目まで聞き終えて、俺はペンを置いた。
「他には」
ドミニクが顔を上げた。
「他には、ありません」
*
その沈黙は俺にとっては良い知らせだったはずだ。
ところがこの男の顔つきのほうが不穏だった。腕を組み、卓の上の綴りを見下ろしている。まるで、探し物が見つからないのが自分の落ち度であるかのように。
「ひとつ、伺ってよろしいですか」
「どうぞ」
「この綴り——前領主の領庫からの引き出し記録。これはあなたが書かせたものですか」
来た、と思った。
「俺が書いた。写しは村の掲示にも出してある」
「総額580クローネ。使途まで整理されています」
「原本の手控えも保管してある。見るか」
「拝見しました。2日目に」
ドミニクは指を組んだ。爪がきれいに切り揃えられている。
「わたしは、この記録を発見したことにして報告書を書くつもりでした。着任した領主が前任者の横領を隠蔽している——それが、この監査で最も書きやすい筋書きです」
「隠していない」
「隠していない。それが問題です」
この男は本気で困っている顔をした。
「隠蔽の証拠は、隠されているから証拠になります。自分から書いて、掲示板に貼ってある記録は、告発材料になりません。むしろ、あなたの誠実さの証明として読まれます」
「そう読んでくれるなら助かる」
「助かるのはあなただけです」
*
ドミニクは綴りをもう一冊引き寄せた。割符の控えだ。
「この様式は、同じ紙が商人の手元にもあるということですか」
「ある」
「では、こちらの控えを書き換えれば済むのでは」
「済まない。向こうの1枚と合わせれば、印の線がずれる。数字も食い違う」
「商人がこちらと通じていれば、両方を揃えて偽れます」
「揃える手間と、揃えて得られる額を比べてくれ。うちの取引で偽って浮く額は、その手間に見合わない」
この男はしばらく黙って、割符の端を指で撫でていた。印の切れ目に爪を当て、断面の凹凸を確かめている。紙は繊維が裂けて切れるので、同じ形にもう一度切ることができない。
「……これを考えたのは、あなたですか」
「そうだ」
「王国の財務院に、これに相当する様式はありません」
言い方が引っかかった。ないのは知っている、という言い方だった。
*
ドミニクは立ち上がり、窓のない壁に沿って歩いた。
この部屋には見るものが何もない。それでもこの男は棚に並んだ綴りの背を指でなぞりながら歩いた。番号の飛びを確かめている。
「割符という様式は、どなたの案です」
「俺だ。改良は徴税所の書記が」
「あの女性ですか」
声の温度がそこで変わった。
「彼女の書き方は、王都の書式ではありませんね。桁の点を肩に打つのは、財務院では10年以上前に廃れた流儀です」
背筋の後ろがわずかに冷えた。
この男は書き方を見て出所を推測できる目を持っている。俺が思っていたより、ずっと厄介だ。
「古い流儀のほうが読み違えが少ない。それだけの理由で使っている」
嘘ではない。もっともすべてでもない。
ドミニクはそれ以上を聞かなかった。聞かなかった。だが覚えたのだろうということはわかる。
*
最終日、俺はこの男を村まで送った。
馬を引きながら、ドミニクは丘の下の畑を眺めていた。麦は伸びている。去年より人が出ているとイルゼが言っていた。理由は俺ではなく、受取書きを持つ家が増えたからだ。取られる量が読めるようになれば、人はその分だけ余計に働く。
「賦課の納付見込みは」
ドミニクが言った。
「現状では立たない。全部差し出しても届かない」
「そのように報告します」
「そうしてくれ」
「ただ、書き添えます。当領の記録は王国内の同規模の領のいずれよりも整備されており、納付不能は経営の怠慢によるものではない、と」
俺は歩きながら、この男の横顔を見た。
「書いていいのか、そんなことを」
「事実ですから」
言い方が平坦だった。誰かに評価されたくて言っているのではない。書くべきことを書くと言っているだけだ。
この男は俺と同じ種類の人間かもしれない。そう思った瞬間に嫌な予感がした。
*
村の入口で、馬に足をかけたドミニクが振り返った。
「ヴェルンハルト伯」
「なんだ」
「余計なことを申し上げます」
「聞く」
この男は言葉を探していた。探しているのがわかるくらい、そこだけ間が空いた。
「正確すぎる帳簿が罪になる土地を、ご存じですか」
風が畑を渡って、麦の穂が一斉に傾いた。
「王国のことか」
「どことは申しません」
「では、答えようがない」
「そうでしょうね」
ドミニクは馬に乗り、手綱を引いた。それきり、こちらを見なかった。
土埃が上がり、供の二人がその後に続く。俺は道の真ん中に立ったまま、その背中を見送った。
*
戻ると、徴税所の前でリーゼが立っていた。
顔色がよくない。この4日間、彼女は必要なこと以外を口にしなかった。監査官が村を回っているあいだ、徴税所の帳面の前から動かなかったのも知っている。
「終わりましたか」
「終わった。指摘は7点。全部直せる」
彼女の肩から力が抜けるのが、外から見てわかった。自分がそんな顔をしたことに気づいたらしく、すぐに姿勢を戻した。
「父のときは、指摘が30点あったそうです」
「30」
「そのうち、24点は父が着任する前の記録に対するものでした。それでも、報告書には父の名で載りました」
俺は何も言えなかった。
指摘の数はその気になれば作れる。書式の細部、署名の欠落、日付の書き方。粗を探すつもりで見れば、どんな帳面からでも30は出る。だから指摘の数は、書いた者の落ち度ではなく、監査する側の意思を表している。
彼女の父の報告書を書いた人間には意思があった。
「今日のあの方は、そういう書き方をなさらなかった。……そういう方も、いるのですね」
「いるらしいな」
「ですが、あの方は財務卿の下におられます」
「そうだ」
そこで話は終わった。終わらせたのは俺のほうだ。この先を口に出すと、まだ形になっていないものに名前をつけてしまう気がした。
*
その晩、俺は上着の内ポケットから油紙の包みを出した。
春に王都を出てから、一度も開いていない。折り目が白い筋になって、指で押すと粉のようなものが落ちた。
中の数字は当然ながら何ひとつ変わっていない。俺は蝋燭を近づけ、上から順に目を通した。合わないところは、まだ合わないままだ。
そして、あの言葉を思い返した。
正確すぎる帳簿が罪になる土地。
妙な言い方をする。罪になった帳簿を実際に見た人間でなければ、あの順番では言葉が出てこない。
俺は油紙を畳み直し、もとの場所へ戻した。




