第6話「謹んでお尋ね申し上げます」
怒りを書いた文書はたいてい負ける。
前世で嫌というほど見た。強い言葉で書かれた抗議は、内容ではなく態度を理由に握り潰される。相手が握り潰す口実を与えないことが、この種の文書の第一条件になる。
だから俺は下書きの一枚目を丸めて竈に放り込んだ。
2枚目も同じ末路をたどった。3枚目でようやく腹の底の熱が抜けた文面になった。
『謹んでお尋ね申し上げます』
書き出しはそれでいい。喧嘩を売る文書ほど、頭を下げて始める。
*
リーゼが徴税所から戻ってきたとき、俺は4枚目を清書していた。
彼女は肩越しに文面を読んだ。読み終えてもすぐには口を開かず、指先で紙の端を揃えてから言った。
「これでは、受理されません」
「理由を」
「財務院に宛てる文書には型があります。冒頭に受領した令の番号と日付。次に、こちらの領名と職名。本文はその後です。型を外れた文書は、内容を読まれる前に返送されます」
俺はペンを置いた。
「その型を知っているのか」
「父が書いていたものを、写して覚えました」
さらりと言った。彼女の口から父の話が出るのはこれで2度目だ。前は数字の書き方、今度は書式。この娘の中身は父親から受け継いだ実務でできている。
「教えてくれ。全部書き直す」
リーゼが少し驚いた顔をした。教えろと言われることに慣れていないのだろう。
「……令の番号は、封の裏に押されている印の下です。灯りに透かすと見えます」
*
型が整うと、文面の仕事は「何を聞かないか」になる。
賦課そのものへの不服は書かない。書けば、不服の申し立てとして処理され、財務卿の判断ひとつで却下できる。
代わりにこう書いた。
『貴令に付されたる算定根拠につき、当領にて照合いたしましたところ、耕作面積の数値が当領実測と相違いたしております。今後の納付計画を立てる必要がございますため、根拠数値の出典をご教示賜りたく』
聞いているのは出典だけだ。文句は言っていない。
続けて、収穫高の欄について。
『「直近3年平均」と記載されたる欄につき、当領の記録では該当する年が2年ぶんのみ確認できております。残る1年ぶんの数値の所在をご教示賜りたく』
これも教えてくださいと言っているだけだ。
答えれば、こちらの手元に文書が残る。答えなければ、答えなかったという事実が残る。どちらに転んでも、こちらは記録を一枚得る。
こういうやり方に、俺は名前を持っている。証跡を取る、と言う。
*
ガルフに照会状を読んで聞かせたのは、清書が仕上がった晩だった。
字は読めないと言うので、俺が声に出して読む。この男は一度も口を挟まずに最後まで聞き、短く息を吐いた。
「藪をつついておられる」
「藪の中に何がいるか知らずに冬を越すよりましだ」
「王都の連中は、藪をつつかれると藪ごと焼きますぞ」
言い返しにくい指摘だった。この男の言い分には、いつも具体的な死人の匂いがついている。
「焼かれたときのために、写しを取る」
俺は同じ文面をもう一通書き、日付と自分の署名を入れて帳簿室の棚に置いた。
「送った文書は、こちらの手を離れる。手元に残るのは写しだけだ。何を送ったかを証明できるのは、この一枚になる」
「向こうが、そんな文書は届いていないと言えば」
「駅逓の受け取り印を貰う。それも一緒に綴じる」
ガルフは棚の写しをしばらく見ていた。
「……妙な戦い方をなさる」
「刀を持ったことがない。持てば負ける」
「それは、拝見すればわかります」
失礼な男だが事実なので怒る理由がない。
それでいて、この男は帰りぎわに一度だけ振り返り、写しの置かれた棚の位置を確かめていった。焼かれたときのため、という言葉を、たぶん本気で受け取っている。
*
翌朝、封をしようとした手をリーゼが止めた。
「本当に、お出しになるのですか」
「出す」
「根拠を問うということは、根拠が誤っていると申し立てるのと同じです。財務院はそう読みます」
「読むだろうな」
「読んだうえで、書いた人間を覚えます」
声が硬かった。書式を教えていたときの落ち着きが、そこだけ剥がれている。
「覚えられて困ることがあるか」
「……ございます」
それ以上は言わない。俺も聞かなかった。この娘には触れられたくない何かがあり、今の俺にはそれを確かめる手立てがない。
「ひとつ約束する。この文書の差出人は俺だ。書式を誰に教わったかは、どこにも書かない」
リーゼが顔を上げた。何か言いかけて、結局、頭を下げた。
「……封蝋は領主の印で。徴税所の印は使わないでください」
「わかった」
彼女が出ていってから、俺は封蝋を溶かした。赤い蝋が紙に落ちて広がる匂いは、王都の法廷の隣室で嗅いだものと変わらない。あのときは俺が署名する側だった。
*
駅逓の袋に入れるとき、テオが受け取り印の紙を持って走ってきた。
「印、貰ってきました。日付も入れてもらっています」
「上出来だ」
少年は得意げな顔をしかけて、すぐに引き締めた。褒められることに慣れていないので、顔の作り方がわからないらしい。
「往復で、どれくらいかかるのですか」
「片道10日。向こうが受け取った日に返事を書いても、戻ってくるのは20日後だ」
「長いですね」
「長い。だが、その間にこちらの手が空くわけでもない」
*
照会状が駅逓の袋に入った日から、俺は村を回り始めた。
もうひとつの仕事がある。台帳の整備だ。
これまでこの領では、税は「代官が来て、持っていく」形で成立していた。誰がいくら納めたかを書いた紙はどこにも残らない。だから翌年、同じ家に同じ理由でもう一度来られても、誰も反論できなかった。
俺がやろうとしたのは単純なことだ。納めた者に、納めた分を書いた紙を渡す。
説明を3度繰り返して、3度とも同じ顔をされた。
「書いてどうするんです」
麦の袋を抱えた男が言った。名はグレゴール。額の広い、疑い深そうな目をしている。
「あんたの手元に、納めた証拠が残る」
「証拠を持ってると、余計に取られるんじゃないですか」
「逆だ。2度目に来られたとき、その紙を出せば断れる」
「断れた例がありませんが」
「今年から作る」
グレゴールは麦袋を地面に下ろし、腰に手を当てた。
「失礼を承知で申しますが、旦那は来年おられますか」
その質問には正直に答えるしかなかった。
「わからない。帰還は禁じられているから、たぶんいる。だが確約はできない」
「なら、紙の値打ちも確約できませんね」
「値打ちは俺が決めるものじゃない。あんたが決める」
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その日、受取書きを持ち帰った家は1軒もなかった。
翌日は2軒。その次の日は5軒。
理由は俺の説得ではない。イルゼが動いたからだ。羊飼いの女は村の井戸端で、こう言って回ったらしい。
「もらっとけばいいだろう。紙一枚だ。取られて困るもんでもなし」
理屈ではなく、実利でもなく、面倒くささの比較で人は動く。新しい様式が定着するのは、正しさを説明したときではなく、使ったほうが楽だと気づかれたときだ。
リーゼが徴税所で控えを綴じながら言った。
「イルゼさんは、あなたを信じたわけではないと思います」
「だろうな」
「では、なぜ」
「損しないからだ。信用より先に、損得で人は動く。信用はその後でついてくるか、こないか」
彼女はペンを止めて、こちらを見た。
「ずいぶん、人を低く見ておられますね」
「低くは見ていない。順番の話をしている」
リーゼは何か言いかけて、やめた。代わりに、綴じ紐を締める手が少し強くなった。
*
数日して、グレゴールが徴税所に来た。手には俺が渡した受取書きがある。
「去年の分も出してもらえますか」
「去年の記録がない」
「じゃあ、うちが去年納めた分は、なかったことになるんで」
リーゼが答えようとしたのを俺は手で止めた。これは領主が答えるべき質問だ。
「なかったことにはしない。あんたの言い分を、あんたの言葉のまま台帳に書く。ただし、証拠のない申告として区別して書く」
「証拠がなけりゃ、意味がないでしょう」
「今は意味がない。だが、同じ申告が何十軒も並べば、それ自体が形になる」
グレゴールは俺を睨んでいた。睨んだまま、納めた麦の量と月を口にした。リーゼが書き取る。
書き終わると、この男は自分の言った数を確かめるように紙を覗き込み、無言で出ていった。
納得はしていない。それでも数は言った。人が数を口にするのは、それを誰かが書き留めると思ったときだけだ。
*
10日ほどで、村の3分の1が受取書きを持つようになった。
紙を渡すたびに、俺はその場で控えに写す。渡した紙と手元の控え。同じ内容の紙が2箇所にある状態を作る。片方が焼けても片方が残る。
もっとも全部が上手くいったわけではない。
納める量の決め方を、代官の裁量から畑の面積と前年の収量に変えたところ、これまで少なく済んでいた家の負担が増えた。当然、揉めた。
いちばん揉めたのが、村はずれで馬を飼っているブレントという男の家だ。この家は代々、代官と付き合いが深い。取り分は毎年、話し合いという名の顔で決まっていた。
「筋が通りませんな。うちは昔からこの額です」
「昔からの額の根拠を教えてくれ。それが書いてあるなら、そちらを使う」
根拠は出てこなかった。出てこないことをこちらは知っていて聞いている。性格の悪い聞き方だが、こういうときに遠慮すると制度が最初の一年で死ぬ。
ブレントは捨て台詞を残して帰った。イルゼが横で肩をすくめる。
「あの家に恨まれると、面倒ですよ」
「もう恨まれている。今年増える分は、書いて残す。恨みの理由がはっきりしているほうが、後で話ができる」
*
思えば、この紙を最初に持ち帰ったのは——受け取る家がようやく2軒になった日の、グレゴールの隣に住む老人だった。
耳が遠く、話は半分も通じていない。それでも紙を受け取ると、両手で持って日に透かし、それから胴着の内側に押し込んだ。
「そんなところに入れると、汗で滲むぞ」
老人は聞こえていない顔で笑った。
紙は食えない。焚きつけにしかならない。それでもしまう場所を選ぶ程度には値打ちがあるものらしい。




