第5話「机の上と、畑の上」
領の会議というものを、俺は着任して2ヶ月目に初めて開いた。
これまで開かれていなかったわけではない。前の代官たちは詰所で立ち話をして決めていた。それが会議と呼ばれていただけだ。
館の食堂に卓を出し、椅子を6つ並べた。集まったのはガルフとリーゼ。それに水車小屋の親方ヘルマンと、羊飼いの束ね役をしている女のイルゼ。記録係にはテオを座らせた。
卓の上には棚卸しの結果を書き写した一枚を置いた。麦。塩。薪。家畜。道具。人。この領にあるものが、一枚に収まってしまう。
「まず、これが今ある全部だ」
誰も口を開かない。ヘルマンが目を細めて紙を覗き込み、イルゼは腕を組んだまま動かない。数字を見せられること自体に、この人たちは縁がなかったのだろう。
ヘルマンは水車小屋を3代守ってきた男で、指が2本欠けている。石臼に挟まれたのだと後で聞いた。イルゼは夫を早くに亡くし、羊の群れと村の女たちを同時に束ねている。
どちらも呼ばれたから来ただけだという顔をしていた。領主に呼ばれて何か良いことがあった記憶が、この土地の人間にはない。
「次に、これが今年出ていく分だ」
もう一枚を重ねた。2枚目のほうが数が多い。
「見ての通り、足りない」
*
足りないものを配るときに、揉めない方法はない。
俺が出したのは3つの案だった。1つ、種籾を昨年の収量が高い畑に厚く配る。2つ、館の修繕を今年は見送る。3つ、守備隊の街道見回りを月8回から4回に減らし、浮いた人手を春の作付けに回す。
1つ目で、ヘルマンが手を挙げた。
「種籾の前に、水車の石臼です。片方が割れております。今年の秋までに替えないと、挽ける麦が半分になる」
「いくらかかる」
「石を切り出させて、運んで、据えて。銀貨で90グロッシュは」
俺は棚卸しの紙を見た。90グロッシュを出せば、種籾に回す分が確実に足りなくなる。
「今年は見送る」
ヘルマンの顔が固まった。欠けた指のある手が卓の縁を握った。
「割れたまま回せと」
「回してくれ。秋の収穫の後で必ず替える。台帳に、替える約束と期限を書いて残す」
「紙に書いても、石は割れたままです」
「その通りだ。だから、期限を過ぎたらあんたが台帳を持って怒鳴り込んでくればいい。書いてあれば、次の領主にも見える」
ヘルマンは黙った。納得したのではなく、言い返す先が見つからなかっただけだろう。この人は今日から、俺が期限を守るかどうかを数えて生きることになる。
2つ目は誰も反対しなかった。館の修繕を見送ると言われて困る人間はこの領にいない。
3つ目で、ガルフが卓を叩いた。
「それはできません」
「理由を聞かせてくれ」
「盗賊が来ます」
「来た記録が、ここ3年にひとつもない」
「来ていないのは、回っているからです」
俺は反論の形を探した。見回りの費用は隊の俸給と装備の損耗で計算できる。それに対して防いだ被害は数字にならない。起きなかったことは記録に残らないからだ。
これは経理屋がいちばん苦手にする種類の議論だった。
「回らなかった年の話をなさい」
イルゼが横から口を挟んだ。羊飼いの女は日に焼けた顔をこちらに向け、指を3本立てた。
「3年前の冬です。代官が変わって、見回りが止まりました。隣の谷から人が来て、羊が19頭さらわれた。取り返しに行った男が二人、戻ってきておりません」
食堂の空気が変わった。ガルフは何も言わずに座っている。言わずに済むから言わないのだろう。
「その件の記録は」
「ありません」イルゼが即答した。「誰も書きませんでした。書いても仕方がないと」
俺は自分の案を横に線を引いて消した。
「見回りは減らさない。月8回のまま置く」
ガルフがこちらを見た。案を出した人間が自分でそれを消すところを、この男はまだ見たことがなかったのだろう。
「では、作付けの人手は」
「別のところから捻出する。館の使用人を増やす予定を今年は消す。俺の身の回りは自分でやる」
「もともと二人しかおりませんが」
「ゼロにはしない。マルタに死なれると飯が食えない」
ヘルマンが小さく笑った。会議のあいだで、最初の笑い声だった。
*
会議のあと、俺はガルフを残した。
窓の外はもう暗く、卓の上の蝋燭だけが手元を照らしている。獣脂の芯が焦げて、鼻の奥に脂の匂いが残った。この男は座らずに立ったままでいる。
「さっきの件だが」
「撤回されたのはご立派でした」
「褒めているのか」
「半分は。残りの半分は、最初にああいう案を出す人だと覚えておきます」
言い方に刺があった。俺は素直に受け取ることにした。
「その通りだ。俺は畑を知らない。羊も知らない。数だけ見て決めると、ああいう案を出す」
「ご自覚がおありなら結構です」
「だから頼みがある。おかしいと思ったら、今日みたいに卓を叩いてくれ」
ガルフの動きが止まった。
「……叩けと」
「叩かれずに間違えるほうが困る。間違いは早いほど安い」
ガルフはすぐには答えなかった。息を吸う音がひとつ、それだけ長く聞こえる。それから椅子の背をつかんで、ようやく腰を下ろした。
「机の上の数字で、領地は回りません」
「知っている」
「わかっておられない。あなたの数字には、羊を追いかけて死んだ男の名前が入っておりません」
その一言で、俺の中の何かがずれた。
俺が作ってきた資料にも、人の名前は入っていなかった。人は「員」で数え、辞めた者は「率」で表す。数えるという行為には、名前を落とす副作用がついて回る。
「名前を入れる欄を作る」
「は」
「被害の記録に、誰の何が失われたかを書く欄を作る。数と一緒に名前を残す。それなら、数えても消えない」
ガルフは答えなかった。呆れているのか、考えているのか、判別がつかない顔だった。
*
翌日、リーゼが会議の記録を清書して持ってきた。
テオが取った走り書きを、読める形に直したものだ。俺は受け取って、目を通した。
そこで手が止まった。
数字の書き方に癖がある。7に短い横棒が入っている。0は書き終わりがきっちり閉じず、右上が開いたままだ。
桁の区切りの点が揃っていることには、徴税所で帳面を覗いた日から気づいていた。揃っているという事実だけを見て、どこに揃っているかは見ていなかった。点は数字の下ではなく、肩の高さに打たれている。
どれも実用上の意味がある。7と1を見間違えないため。0と6を区別するため。点が下にあると、滲んだときに位取りが読めなくなるため。
こういう書き方は、思いつきでは生まれない。誰かに教わって、何年もかけて体に入ったものだ。
体に入ったものは、書き手の意思より先に紙へ出る。癖はいちばん意識していないところに現れる。
だから、消そうと思っても消えない。
その考えが頭をよぎったとき、なぜか背中の側がざわついた。今すぐ役に立つ話ではない。
「この書き方は、どこで覚えた」
リーゼの肩がわずかに強張った。
「……父の書き方です」
「教わったのか」
「幼いころに。父は、数字は読み間違えられた時点で嘘になると申しておりました」
彼女の目が一度こちらへ向いてすぐ落ちた。話を打ち切りたいときの目の動きだ。
俺はそれ以上聞かなかった。聞けば答えたかもしれないが、聞かれたくないときに聞き出したものは、たいてい後で信用を削る。
「良い癖だ。徴税所の書式にも入れておこう」
「……勝手になさってください」
そう言って出ていくとき、彼女の足取りが入口で一度だけ乱れた。
*
駅逓便が来たのは、その日の午後だった。
木箱ではなく、封蝋のついた一通だけ。村の者が集まる前に、駅逓の男が直接館まで運んできた。それだけで中身の格がわかる。
『王国財務院令 辺境維持特別賦課の件』
俺は帳簿室に戻り、蝋燭を立ててから封を切った。
文面は短い。今年度より、北辺境の4領に対し維持費用の負担を求める。グラウフェルトの賦課額、金貨420クローネ。納期は秋の収穫締めまで。
420。
俺は棚卸しの紙を引き寄せ、この領の年の収入を確かめた。税として入る分と、直営の畑から上がる分を足しても、420には届かない。全部差し出しても足りない額だ。
払えるはずがないと、向こうもわかっている。
払えない額を課すのは、金を取るためではない。払えなかったという事実を作るためだ。滞納は罪状になり、罪状は処分の根拠になる。切りたい相手に無茶な条件を出すやり口は、手口として目新しくもない。
北辺境の4領のうち、他の3つがどう出るかは知らない。おそらく村を絞る。絞れば人が減り、来年はもっと払えなくなる。
文書の後半に、賦課額の算定根拠が付いていた。人口、耕作面積、直近3年の平均収穫高。数字が並んでいる。
俺はその列を上から順に追った。
耕作面積の数は俺が今朝まで数えていた実測と違う。しかも多い。多いほうに間違えている。
平均収穫高の欄も、拾った年が3年ではなく2年ぶんしか入っていない。それでいて「3年平均」と書いてある。
蝋燭の炎が短く煽られた。窓の隙間から風が入っている。
俺は文書の末尾に目を落とした。署名がある。王国財務卿オズウェル・メルクリン。あの日、法廷の壇上でこちらを一度も見なかった男の名前だ。
扉が叩かれ、ガルフが入ってきた。駅逓の男から話が回ったのだろう。
「賦課だそうですな」
「420クローネだ」
ガルフの顔から血の気が引いた。数を読めない男でも、その額がこの領にとって何を意味するかはわかる。
「払えません」
「払えない」
「では、どうなさる。前は払えない年に、代官が村を回って絞りました。それで冬に人が減りました」
「絞らない」
「他に何が」
「聞く」
ガルフが眉をひそめた。
「聞く、とは」
「この額の出し方を聞く。耕作面積の数が実測と違う。3年平均と書いてあるのに、2年ぶんしか足していない。まずそこを確かめる」
「相手は財務卿ですぞ」
「相手が誰でも、足し算は足し算だ」
言いながら、俺は自分の声が平坦になっているのに気づいた。腹の底が冷えている。
この冷え方には覚えがある。どの記憶に紐づいているのかはうまく手繰れない。前世の何かだというところまではわかるのにその先で指が滑る。
ガルフが出ていったあと、俺は蝋燭の芯をもう一度切った。紙を裏返し、上から数を追い直す。
2度追って、答えは同じだった。この賦課には根拠が立っていない。




