第4話「隠さないという武器」
駅逓便がグラウフェルトに来るのは月に2回だ。
王都からの公文書と、運がよければ商人の手紙が一緒に届く。今月の便は俺が着任してから最初のものだった。
村の者は便の日を覚えている。丘の下に人が集まり、荷が解かれるのを遠巻きに眺めていた。手紙を受け取る者はほとんどいない。それでも集まるのは、外の世界がこの土地をまだ忘れていないことを確かめるためだろう。
公文書の束から先に開いた。中身は王国全域に配られる通達の写しばかりだ。度量衡の改定。祝祭日の告知。街道の通行料の改定。
グラウフェルトという地名は一度も出てこない。
俺の着任についての指示も、問い合わせも何ひとつない。北の端に厄介者を置いた。中央にとってはそれで案件が閉じている。
好都合だ、と思うことにした。見られていないうちに、こちらは数を揃えられる。
荷を下ろした駅逓の男が、木箱をひとつ地面に置いた。
「ヴェルンハルト伯爵宛て。財務院からです」
蓋には焼き印と、走り書きの札が結んである。札の文字を読んで俺は少し感心した。
『没収に値せざる遺物』
嫌味を書くにも書式がある。この一行を考えた役人は、たぶん楽しんで書いた。
*
木箱を帳簿室へ運び込むとテオが後ずさった。
「開けますか」
「開ける。手伝え」
少年は動かない。木箱そのものではなく、そこに入っているはずのものに怯えている。前の主人の匂いが染みついたものを、この子はまだ触りたくないのだろう。
「無理ならいい。マルタに茶を頼んでこい」
テオは首を横に振り、木箱の縁に手をかけた。
蓋を外すと、黴と香水の混じった匂いが上がってきた。中身は紙ばかりだ。仕立屋の請求書。宝飾商の見積もり。賭場の借用証。誰かからの手紙。そして底のほうに、革の表紙がすり切れた小さな手控えが埋まっていた。
開いた瞬間、俺は思わず声が出た。
「書いてある」
「何がです」
「全部だ」
日付。金額。相手。用途。領庫から引き出した金が、ひと月ごとに整理されて並んでいた。字は雑だが抜けがない。
意外だった。この体の持ち主は、記録をつけない男だと思っていた。
拾い読みしていくと、その男の一日が浮かんでくる。昼過ぎに起き、仕立屋を呼び、日が落ちてから賭場へ出る。負けた額はきちんと書いてあるのに、勝った額の記載がどこにもない。
勝ちは自分のもの、負けは領のもの。線の引き方が徹底している。
ひとつだけ、金額の欄が空白の行があった。用途の欄に「口止」とだけ書いてある。日付は去年の夏。
テオに見せると、少年は首を横に振った。心当たりはないという。俺は行の頭に印をつけて先へ進んだ。わからないものを推測で埋めると、あとで自分の書いた嘘に足をすくわれる。
*
読み進めるうちに理屈が見えてきた。
これは領のための帳面ではない。自分の取り分を管理するための帳面だ。使った金を書いているのではなく、いくら引き出せたかを書いている。
執事や管財人に抜かれないよう見張るには、自分で数を持っておく必要がある。人を疑う人間ほど、自分の勘定は正確につける。そういう男を一人知っている。部下の使った金には目を光らせるくせに、自分の遣いだけは誰にも触らせない。
俺は紙と炭を出し、手控えの数字を月ごとに拾い直した。
半日がかりの仕事になる。窓のない部屋で蝋燭を3度替え、腰が固まったころに合計が出た。
領庫からの引き出し、総額で金貨580クローネと少し。
俺は数字を見つめた。
もう1度、月ごとの数を上から足し直す。指の先で行を押さえながら、順に。答えは動かない。桁を読み違えたのかと思って、書いたばかりの自分の字を明かりへ近づけた。580。5と8と0。並びは変わらない。
断罪の場で読み上げられた額は6000だった。桁がひとつ違う。
もちろん、この手控えに書いていない金の動かし方もあるだろう。だがこれだけ自分の取り分を几帳面に数える人間が、その10倍を別口で抜いておいて記録し忘れるとは考えにくい。
数字の性格は人の性格に似る。これを書いた男はけちで疑り深く、そして自分の懐については嘘をつかない。
つまり、あの法廷で読み上げられた6000という数は、この男の手から出たものではない。
もうひとつ、気になることがある。
あの計算書はこの手控えを根拠にしていない。根拠にしていたなら、額は580の近くに落ちたはずだ。つまり財務院はこの手控えを見ていないか、見たうえで採らなかったかのどちらかになる。
見ていない資料をもとに数を出せる人間は、その数を先に持っている。
上着の内ポケットで、油紙の包みが胸の骨に当たった。あの日、書記官に頼み込んで持ち出した控えのことを思い出す。今それを開いたところで、合わない箇所が合うようになるわけでもない。
どこから出てきたのかは、今の俺にはわからない。わからないものは、わかるまで置いておく。だから俺はこの一冊を無くさない場所に移した。
*
夕方、リーゼが徴税所の日誌を届けに来た。
彼女は帳簿室の入口で足を止め、床に広げられた紙の海を見た。俺の周りだけ、まるで紙で堤を作ったようになっている。
「片づけを手伝いましょうか」
「片づけない。これから台帳に写す」
「……写す、とおっしゃいましたか」
「領の台帳だ。前領主が領庫からいくら持ち出したか、全部書く」
リーゼの表情がはっきりと変わった。今まで見せたどの顔とも違う。驚きでも軽蔑でもなく、何かの答え合わせをしている顔だった。
「本気ですか」
「写す手が足りない。手伝ってくれるなら助かる」
「伯爵様」
彼女は一歩、部屋に入ってきた。
「これを台帳に載せれば、記録として残ります。写しは徴税所に置かれ、いずれ王都の役人の目にも触れます。そのとき、この額を実際に持ち出したのはあなただということになる」
「なる」
「わかっていて書くのですか」
「書く。後から他人に見つけられるより、自分で書いておくほうが安い」
リーゼは黙った。それから、袖の当て布を直しながら床に膝をついた。
「日付順に並べます。金額の桁は縦に揃えてください。あなたの字は、桁の間隔が広がる癖があります」
言われて自分の書いた紙を見ると、確かに右に行くほど数字が間延びしていた。
「指摘されたのは久しぶりだ」
「前にもどなたかに」
前世の直属の上司に、同じことを毎年言われた。とは言えない。
「昔の同業者に」
彼女はそれ以上聞かなかった。
*
写し終えるのに3日かかった。
台帳の一節がまるごと前領主の浪費で埋まった。仕立屋への支払いが領庫から出ている。賭場の負けが領庫から出ている。館の酒が領庫から出ている。
書き写しながら、テオの手が何度も止まった。
「あの」
「なんだ」
「これは……お館様の、罪の記録です」
「そうだ」
「なぜ、隠さないのですか」
少年の声は震えていた。恐怖ではなく、理解できないものに触れたときの震え方だ。
俺はペンを置いた。
「帳簿は俺の味方じゃない。事実の味方だ。俺に都合の悪いことを書かない帳簿は、都合のいいことを書いても信じてもらえない」
「でも、書けばあなたが」
「不利になる。当たり前だ」
インクの匂いが濃い。蝋燭の芯が伸びきって、炎が煤を吐いている。俺は芯を切りながら続けた。
「逆に聞くが、この記録を隠したとして、どこに隠す。燃やすか。燃やしたら、次に誰かが同じ話を持ってきたとき、こちらには何もない」
テオは何も言わない。
「ここに全部書いてあると言えるほうが、こちらは強い。俺が持っている中でいちばん都合の悪い紙を、いちばん見やすい場所に置いておく」
*
ガルフがそれを聞いたのは翌日だった。
台帳の写しを詰所にも一部置くと言ったところ、この男は珍しく長い間黙り込んだ。
「……正気ですか」
「正気だ」
「隊の者に、領主が領の金を使い込んだ記録を読ませると」
「読ませる。ついでに、俸給の未払いも同じ台帳に載っている。どちらも読める」
ガルフは何か言いかけて、うなり声のような音だけを出した。
「あなたのやり方は、危なっかしくてかなわん」
「そうだろうな」
「王都のやり口はご存じでしょう。弱みを見せた者から順に潰される。あなたは自分から弱みを机の上に並べておられる」
「並べた弱みは、拾われても驚かない。驚かないぶん、こちらは考える時間がある」
ガルフが鼻から息を抜いた。納得ではなく、議論を打ち切る音だった。
「褒めてはおりませんぞ」
「わかっている」
とはいえ、この男が写しを断らなかったことのほうが重要だった。読めないと言い張っていた紙束を、置いておけとは言った。
*
写しは3部作った。館、徴税所、詰所。
そのうえで、水場のそばの掲示板に一枚貼った。領の台帳は徴税所で誰でも見られる、という一行だけの告知だ。字を読める者は少ないが、読める者が読んで村で話す。それで足りる。
数日して、リーゼが報告に来た。
「閲覧に来られた方は4人です。3人は自分の納めた税額を確かめに。残るお一人は、前領主の項をご覧になって、何も言わずに帰られました」
「何も言わずに」
「泣いておられました。冬に種籾を持っていかれた家の方です」
俺は返す言葉を持たなかった。書いても麦は戻らない。書いたことで、戻らないと本人に確認させただけかもしれない。
それでもと自分に言い聞かせる。持っていかれた事実が記録に残っていない状態と、残っている状態は違う。違うと信じられなければ、この仕事は続かない。
リーゼは何も言わずに立っていた。慰めもしないし、詰りもしない。ただ、帰り際にひとつだけ口にした。
「閲覧の記録も、つけておきました。誰がいつ見に来たか。……そういうものも、残したほうがよろしいかと思いまして」
言われるまで、そこまで頭が回っていなかった。
*
その晩、テオが墨を摺りながら、妙に長く手を止めていた。
「書き足したいことがあるなら書け」
「……いいのですか」
「未払いは未払いだ。誰のものでも同じ扱いにする」
少年はしばらく迷ってから、ペンを取った。字は整っているのに、この一行だけは震えていた。
『従僕テオ、賃金未払い 9ヶ月ぶん』
この領で俺が背負った債務の一件目は、隣に立っている子どものものだった。




