第3話「塩三樽ぶんの真実」
棚卸しは思ったより早く進んだ。
数えるものが少ないからだ。
倉庫の麦は袋で18。薪は束で240ほど。鋤と鍬が合わせて31、うち柄の折れたものが9。水車小屋の石臼はひとつが割れたまま放置されている。牛は12頭、豚は数えるのをやめた。逃げるからだ。
テオが荷札の裏に数を書きつけ、俺がそれを口に出して確かめる。少年の字は思いのほか整っていた。誰かに習ったのかと聞くと、館の書き役に教わったという。その書き役は給金が止まって出ていった。
村を回ると、戸口から人が出てくる。数を言えと言われた家は、まず嘘の数を答えた。持っていると知られれば取られる。この土地ではそれが常識として定着している。
俺は嘘の数もそのまま書いた。書いたうえで、翌日もう一度数えに行く。2度目で本当の数を言う家が半分ほど。3度目でようやく言う家がその半分。最後まで言わない家も残った。
言わない家の名も書いておいた。取り立てるためではない。誰がこちらを信用していないかを把握しておくのは、麦の数を知るのと同じくらい実務的な情報だからだ。
3日目の午後、俺は徴税所の戸を叩いた。
「書記を一人、貸してほしい」
リーゼロッテは顔も上げずに答えた。
「税の受領は私の職務です。倉庫の中身は職務ではありません」
「では、命令にする」
ペン先が止まった。彼女がゆっくり顔を上げる。
「……従います」
「嫌なら断っていい。俺は断られたことを記録するだけだ」
「断ると何か困ることが」
「困らない。誰が何を断ったかがわかるだけだ」
彼女は俺を見ていた。値踏みの目つきなのは昨日と同じで、目を離すまでの時間だけが長い。ペン先からインクが一滴落ちて、紙の隅に小さな染みを作った。彼女は帳面を閉じ、インク壺に蓋をした。
「詰所からです。あそこがいちばん散らかっております」
*
守備隊の詰所は村の東の外れにあった。
湿った藁と鉄と汗の匂いが染みついていて、入った瞬間に鼻の奥が刺される。壁際に槍が並び、その隣の棚に紙束が突っ込まれている。突っ込まれている、としか言いようがない置き方だった。
リーゼが束を下ろし、床に広げて日付順に並べ始めた。手が速い。紙の端を揃え、読めない字のものだけを脇に寄せていく。俺は口を出さずに見ていた。人に任せた仕事に横から手を入れると、次から任せられなくなる。
「受け取り書きです。隊が領の倉庫から受け取ったものを、その都度」
「書いたのは」
「隊の書記役です。2年前に亡くなって、それ以降は誰かが適当に」
適当に、の中身は見ればわかる。日付のないもの、数量だけのもの、裏紙に炭で書いたもの。それでも書いてあるだけましだ。館の帳簿室にはこれすらなかった。
俺は紙の山から品目ごとに拾い出し、床に列を作った。麦。薪。獣脂。塩。
塩の列を数え終えたとき、指が止まった。
「リーゼ」
短く呼んでから、俺は自分の口を少し意外に思った。長い名を呼ぶには、この床は埃っぽすぎる。
彼女も一瞬こちらを見たが訂正はしなかった。
「塩の受け取り書きは、全部で何枚ある」
「……9枚です」
「合計は」
「11樽」
俺は倉庫の数え書きを開いた。今朝、自分の目で数えた数がそこにある。
塩の樽、8。
「合わない」
床に並べた紙を、もう一度頭から追った。受け取った側の紙は11樽ぶん。手元に残っているのが8樽。使った分の記録はどこにもない。
3樽が消えている。
「盗まれたのでしょう」
リーゼが言った。責める調子ではない。この土地では珍しくもないという言い方だった。
「そうかもしれない。だが、まだ足りない」
「足りない、とは」
「消えたことはわかった。どこへ行ったかがわからない。数が合わないという話と、誰かが盗んだという話は別だ」
彼女の眉がわずかに動いた。反論したいが言葉が見つからない、という顔だった。
*
冬を越したばかりのこの土地で、塩3樽は小さくない。
麦は減れば腹が減るだけだが、塩がなければ肉が保たない。秋に潰した豚を冬まで持たせるための塩だ。3樽が消えたということは、来る冬に村の誰かが肉を捨てることになる。
俺は受け取り書きの署名をひとつずつ見た。3分の1は同じ筆跡で残りは別々。その同じ筆跡のものだけが、なぜか日付の書き方が違っている。他の者が「霜解けの月 12日」と書くところを、この男だけは「12日 霜解けの月」と日を先に置いている。
癖は隠せない。前世でも伝票の書き方でその部署の誰が書いたか当てられた。
「この字を書く人間を知っているか」
リーゼが覗き込み、少しの間をおいて答えた。
「守備隊の、ヨナスという方かと。徴税所にも麦の受け取りに来られます」
*
ガルフを呼んだのはその日の夕方だ。
詰所の卓に、俺は紙束と数え書きを並べて置いた。ガルフは卓の一歩手前で足を止め、立ったまま黙って見下ろしている。目の動きから、字が追えていないのがわかる。読めないのではなく、数の並びを追う訓練を受けていない目だ。
「塩が3樽足りない」
俺が言うと、ガルフの肩が固くなった。
「……確かなので」
「受け取り書きが11、現物が8。俺が今朝、自分で数えた」
「隊の者を、吊るすおつもりか」
早い、と思った。この男は俺が何を言うより先に、部下が吊るされる絵を思い浮かべている。前の領主がそうしてきたからだろう。
「吊るさない」
「では」
「聞きたいことがある。守備隊の俸給は、いつから払われていない」
ガルフの顔から、表情という表情が抜け落ちた。
数拍のあいだ、詰所の中には藁の匂いしか残らない。外で誰かが桶を落とす音がして、それが遠くに聞こえた。
「……去年の、収穫の後からです」
「何ヶ月だ」
「3ヶ月ぶん」
俺は紙束の中から、獣脂と麦の受け取り書きを引き抜いた。日付を並べると、俸給が止まった時期から受け取りの間隔が短くなっている。足りない分を、隊が倉庫から前借りしていた形だ。
「塩を持ち出したのは、俸給の代わりか」
「……私の指示ではありません」
「指示かどうかは聞いていない。理由を聞いている」
ガルフの喉が動いた。言い訳を選んでいるのではなく、どこまで言うかを選んでいる顔だ。
「隊の者には家族があります。冬のあいだ、麦を買う金がない。私は自分の俸給を割って、いくらかは埋めました。埋めきれませんでした」
その一言で、この男の輪郭がひとつ増えた。
自分の給金を割って部下の穴を埋める代官が数字を軽蔑する。矛盾しているようでしていない。この人は数字が嫌いなのではなく、数字が人を殴る道具にしか使われてこなかったのを見てきたのだ。
そして、自腹で埋めた分はどこにも書かれていない。書けば領への貸しになるのに、この男は書かなかった。書いても踏み倒されると知っているからだろう。
紙の上で人が助かった例を、こいつは一度も見ていない。それが俺が最初に崩さなければならない前提だった。
「ヨナスという男を呼べ」
「伯爵様」
「罰さない。数を確かめるだけだ」
*
呼ばれてきた男は、俺より頭ひとつ大きく、そして俺より震えていた。
塩の行き先を聞くと素直に答えた。2樽は隊の者たちで分け、1樽は村の産婆の家に置いてきたという。産婆は隊の誰かの母親らしい。嘘をつくにしては、細かすぎる筋書きだった。
「産婆の家に置いた理由は」
「あそこは、村で唯一まともに肉を蓄えている家なので。誰かが寝込んだり、産があったりすると、そこから配られます」
「配った記録は」
ヨナスがぽかんとした顔をした。そんなものを書く発想が、この村には存在しない。
つまりこの領には、帳簿に載らない仕組みで人を生かしている場所がある。数えるべきものの一覧に、俺は頭の中で一行を足した。
俺は帳面を開き、テオに墨を摺らせた。
「書く」
ヨナスの顔が青くなった。書かれることを、この男は吊るされることと同じだと思っている。
「守備隊、塩3樽持ち出し。うち2樽、隊内配分。1樽、産婆宅。日付は受け取り書きから拾う」
「伯爵様」ガルフが一歩出た。「それでは、隊の者が盗んだと紙に残ります」
「残る」
「後から誰が読むかわかりませんぞ。王都の役人がその紙を見れば——」
「同じ紙に、こうも書く」
俺はペンを持ち替えた。
「領、守備隊俸給3ヶ月ぶん未払い。相当額を上記の現物にて充当。差額は領の債務として翌年に繰り越す」
ガルフが息を止めたのがわかった。
「盗まれた側が払っていなかったことも、同じ紙に残る。片方だけ書けば嘘になる」
ヨナスが意味を掴みかねた顔でガルフを見上げた。ガルフは答えず、卓の上の帳面を見ていた。読めない数字の並びをそれでも見ている。
「……差額は、いくらです」
「銀貨で40グロッシュほど。塩の相場が去年の秋の値のままならな」
「領は、それを払うので」
「払う。今年は無理だ。来年でもどうかわからない。だから書いて残す」
ガルフは何も言わずに詰所を出ていった。扉が閉まるとき、蝶番が長く鳴く。
リーゼが紙を揃えながら、こちらを見ずに口を開いた。
「なぜ、罰さないのですか」
「罰しても塩は戻らない。次にまた消える」
「では、どうすれば消えなくなるとお考えで」
「俸給を払えばいい。原因を潰さずに人を吊るすのは、穴の空いた桶を叩いて回るのと変わらない」
彼女はしばらく黙っていた。それから、揃えた紙束をこちらへ差し出した。
「明日は、水車小屋の受け取り書きが残っているはずです。あちらのほうが数は多いかと」
*
夜、館の帳簿室にいると扉が叩かれた。
ガルフだった。何も言わずに卓へ紙束を置く。麻紐で乱雑に括られ、端が茶色く焼けている。
「詰所の奥にあった分です。前の書記役が死んでから、誰も触っておりません」
「読めるのか」
「読めません。だから、置いていくだけです」
それだけ言って、男は出ていった。
俺は紐を解き、蝋燭を近づけた。紙束の厚みは指で摘まめる程度しかない。3年ぶんの記録としては薄すぎる。
それでもこの領で誰かが自分から俺に渡してきた記録はこれが最初だった。




