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追放された悪役伯爵は帳簿を正しくつけるだけ ~辺境を黒字にしていたら、俺を断罪した王国は粉飾で手遅れになっていた~  作者: 夜凪 蒼


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第2話「白紙の帳簿室」

館の朝は煙の匂いで始まった。


厨房を覗くと、腰の曲がった老婆が竈の前にいた。名をマルタといい、この館に残っている使用人はテオとこの人の二人きりだという。挨拶をしても振り返らず、木の椀に黒パンとぬるい麦湯を入れて差し出してきた。


「毒味は」


「入れる余裕があるなら、とっくに自分が食べとります」


そう言って、老婆は初めてこちらを見た。目は濁っていない。この土地で長く生き延びてきた人間の目つきだ。


パンは前歯では噛み切れず、奥歯で挽くようにして食べた。酸味と、麦の殻の粗さが舌に残る。王都で最後に口にしたものが何だったか思い出せないが、たぶんこれではない。


「帳簿室はどこだ」


マルタの手が止まった。


「そんな部屋、ありましたかね」



あった。館の東の端、階段の裏手の狭い部屋だ。


扉を開けた瞬間、乾いた埃が顔にかかって咳が出た。窓は板で塞がれ、灯りを持ち込まないと文字も読めない。壁の3面が棚で、そこに背表紙のくたびれた帳面が並んでいる。


数は多い。俺は蝋燭を近づけ、端から順に抜き出した。


一冊目。表紙は立派な革張りで、金の箔押しまで入っている。開くと、最初の数頁に几帳面な字が並び、そこから先が白紙だった。


二冊目。同じ構造。3頁で途切れている。


三冊目に至っては、表紙をめくった瞬間から何も書かれていない。


「テオ」


「はい」


「この帳面を買ったのは誰だ」


少年が言いにくそうに答えた。


「……お館様です。王都の文具商から、まとめて」


なるほど、と俺は棚を見渡した。背表紙だけは立派に揃っている。中身のない帳面を並べておけば、部屋は帳簿室に見える。この体の持ち主は、記録をつける気はなくても、記録をつけているように見せる気はあったわけだ。


見栄で買った空の帳面が棚に30冊。皮肉としては上等すぎる。


テオが蝋燭を持ったまま、入口に突っ立っていた。埃で咳き込みながらも、部屋から出ようとしない。


「この部屋に入ったことは」


「ございません。……鍵のことは、王都で伺っておりました」


鍵をかける。中身のない部屋に。


見せたくないものがあるから鍵をかけるのが普通だがこの場合は逆だ。何もないことを見られたくなかった。空の棚を隠すために鍵をかけさせる人間の頭の中を想像して、俺は少し疲れた。


見覚えのある種類の人間だ。数字を出せと言われて、数字を用意する代わりに、用意しているように見える場所を確保する。


俺は蝋燭を置き、埃を払って床に座り込んだ。手当たり次第に開いていく。断片的に残っているのは、7年前までの収穫高と、5年前の税の受領記録。以後は空白が続く。


つまり、この領地に何がいくつあるのかを知っている人間は、この館に一人もいない。



「帳簿なら、徴税所にあります」


ガルフはそう言った。館の玄関で靴の泥を落としながら、こちらを見もしない。


「領の帳簿がか」


「税の帳面です。入ってきた分を書きつけてある。あれがなければ、こちらは何も動きません」


「誰が書いている」


「書記のリーゼロッテです。父親の代からの財務畑だとかで、字は綺麗ですな。それ以外は知りません」


言い方に含みがあった。あの娘には関わるな、という響きではない。関わっても無駄だ、という響きだ。



徴税所は丘を下りた石造りの平屋だった。


戸を押すと、油と紙とインクの匂いが混ざって鼻に来る。中は狭く、机が2つ。片方には書きかけの帳面が開かれ、その前に昨日窓越しに見た娘が座っていた。


濃い亜麻色の髪をひとつに束ね、袖には汚れを防ぐための当て布。羽根ペンを持つ指の関節に、乾いたインクが残っている。


顔を上げたその目に、何の遠慮もない敵意があった。


「グラウフェルト徴税所書記、リーゼロッテ・ファルナーです」


「コンラート・ヴェルンハルトだ」


「存じております」


それきり、彼女は手元へ視線を戻した。ペンが紙を掻く音だけが部屋に残る。


貴族が来たら立って迎える。この国の作法ではそうなっているはずだが、彼女は座ったままだ。無礼を承知でやっている。しかもこちらが咎めるのを待っている顔をしていた。


俺は咎めなかった。代わりに、開かれた帳面を覗き込んだ。


数字の並びがまっすぐだった。


行の間隔が均等で、桁が縦に揃っている。訂正した箇所は消さずに横線を引き、その脇に正しい数と日付が添えてある。金額の区切りに打つ点の位置が、上から下まで一分の狂いもなく同じだ。


こういう帳面をつける人間を俺は知っている。前世で何人か見た。数字が合わないと家に帰れない種類の人間だ。


「これは、あなたが」


「私しか書く者がおりませんので」


「良い帳面だ」


ペンの動きが止まった。彼女が顔を上げる。


「……お戯れは結構です」


「戯れではない。訂正を消していないのがいい。消してしまうと、いつ何を間違えたかが残らない」


リーゼロッテの表情がわずかに歪んだ。褒められて喜ぶ顔ではない。むしろ、殴られる代わりに撫でられたときのような、収まりの悪い顔だった。


「伯爵様。ひとつ申し上げてよろしいですか」


「どうぞ」


「私は、あなた方がこの帳面をどう扱うか知っております。数字を都合よく直させ、直せないとわかれば書いた者ごと片づける。ここに来て帳面を褒めた方が、これで3人目です」


声は低いままだった。取り乱してもいない。事実の報告として言っている。


「3人とも、翌年には王都に戻られました」


俺は口を開きかけて、やめた。何を言ってもこの場では言葉が軽い。彼女の言い分に反論できる材料を、俺はまだ何ひとつ持っていない。


「ひとつだけ聞きたい」


「どうぞ」


「その帳面に載っているのは、税として入ってきたものだけか」


「そうです」


「出ていったものは」


リーゼロッテが目を細めた。質問の意図を測っている。


「……記録はありません。守備隊の受け取り書きが、詰所に少し残っている程度かと」


「領にある現物は」


「数えたことがある方は、おられないと思います」


やはりか、と俺は思った。この領は片目で経営されている。入る金は見えていて、出ていく先も、手元に残っている物も見えていない。


入る金だけを見て回している勘定は、前触れもなく倒れる。最後の月まで、当人は自分が黒字だと信じている。


もっともこの娘に落ち度はない。徴税所の書記に与えられた仕事が税の受領記録だけなら、それ以外を書く権限も紙もないはずだ。片目でしか見ていないのは、この領を任せてきた側だった。


「明日から数える」


「は」


「領にあるものを全部だ。麦。塩。薪。道具。家畜。数えて、書いて、突き合わせる」


彼女は答えなかった。ただ、その沈黙は拒絶ではなく、値踏みの沈黙だった。



村の広場に人が集まったのはその日の午後だ。


集まったというより、ガルフが触れを出したので仕方なく来た、という顔つきが並んでいる。冬を越したばかりの土地の空気は湿っていて、泥の匂いが濃い。子どもが親の後ろから俺を覗いている。


俺は木箱の上に立ち、要件だけを言った。


「明日から、この領にあるものを数える。倉庫も詰所も、水車小屋も家畜も。数えたら帳面に書く。書いたものは誰でも見られるようにする」


沈黙が数拍あって、後ろのほうで笑い声が上がった。


「数えて、麦が増えるんですかね」


「領の倉庫の床に、荷を下ろした跡が28ある。四角い跡だ。数えたのは昨日の夕方だ」


笑い声の列が乱れた。数を言い返されるとは思っていなかったのだろう。


「跡は消えないが、荷は消えた。俺が知りたいのは、その差のほうだ」


納得はされていない。それでも笑いは戻ってこなかった。中年の男が前に出てきた。


「去年の冬、うちは種籾まで持っていかれました。あれも数えれば戻ってきますか」


「戻らない。それは俺が持っていった分だ」


広場が静まった。ガルフがこちらを見たのが視界の端に映る。


「持っていった記録がないから、いくら持っていったかも言えない。だから数える。数え直したうえで、返せる分は返す。返せない分は、返せないと書いて残す」


「書いて、それで終わりでしょう」


男の声は震えていた。怒りというより、諦めのほうが勝っている。


「終わりにはしない。書いたものは消えないからだ」


我ながら、腹の足しにならない言い分だと思った。飢えた人間に紙の話をしている。この場で効く言葉ではない。


だから、もうひとつ付け足した。


「今年の領主俸給は受け取らない。全額を領の勘定に戻す。これも帳面に書く」


ざわめきが起きた。今度は笑いではない。


人垣の後ろに、束ねた亜麻色の髪が見えた。徴税所の書記が来ている。俺の話を聞きに来たのか、村の女に呼ばれて来たのかは判断がつかない。


その隣で、桶を抱えた女が彼女の袖を引き、何かを尋ねていた。


「リーゼさん、あれ、本当のことなの」


呼ばれた本人は答えなかった。頷きもしないし、首も振らない。それでいて、こちらから目を逸らそうともしない。


信じていないのだろう。当然だ。俺が同じ立場なら、王都から流されてきた男が広場で何を言おうと、まず来年まで見てから決める。


「その代わり、こちらも数える。誰がどれだけ納めて、誰がどれだけ受け取ったか。全部だ」


答えは返ってこなかった。人々は互いの顔を見て、それから散っていった。信じた者はいない。それでいい。信じるかどうかを決めるのは、こちらの言葉ではなく来年の帳面のほうだ。


ガルフが横に来て、低く言った。


「俸給を返上したところで、麦は増えませんぞ」


「昨日も同じことを言われたな」


「同じことを言わせているのは、あなたです」



日が落ちてから、俺は帳簿室に戻った。


30冊の白紙のうち、いちばん装丁の粗末な一冊を選ぶ。見栄で買われた革張りは使う気になれなかった。蝋燭を立て、削った羽根ペンにインクを含ませる。


最初の行に書いた。


『412年 霜解けの月 グラウフェルト領 現物棚卸 第1日』


インクが乾くまで、俺はその一行を見ていた。何の証明にもならない一行だ。これで麦が増えるわけでも、種籾が戻るわけでもない。


それでも白紙よりはましだった。


明日は2行目を書く。

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