第1話「持ち物は控えが一枚」
幌の隅にもう一人いると気づいたのは、王都を出て2日目の朝だった。
荷袋の陰で膝を抱えたまま、丸1日そうしていたらしい。俺が身じろぎすると、その塊が跳ねるように奥へ寄った。薄い肩と揃っていない前髪。まだ声変わりの途中のような細い息づかいが聞こえる。
「すみません、すみません」
謝られる理由に心当たりがない。俺は口を開く前に、まず自分の手を見た。この体の手は大きく、指の節が太い。殴るための位置に上がりかけていないか確かめてから、膝の上に戻した。
「名前は」
「テオです。テオ、と……お館様の、身の回りの」
「従者か」
こくり、と首が動く。俺が声を荒らげないことのほうが不気味らしく、少年は身構えたままだった。
没収されたのは領地と財産だけで、人までは没収されない。だからといって、この状況でついてくる義理があるとも思えなかった。
「戻れば、どこかの屋敷に雇われ直せるだろう。次の宿場で降りていい」
「……戻る家がありません」
短い返事の中に、余計なものが混じっていない。事実だけで答える子だ。悪くない、と俺は思った。
「なら、飯の心配だけしておけ。給金は当分出ない。出せる金がない」
テオは答えなかった。代わりに、目だけがこちらの様子を測っていた。
*
道は北へ向かうほど荒れていった。石を敷いた区間が途切れ、轍が深くなり、幌の骨がひと突きごとに軋む。宿場の間隔も開いていく。
俺は膝の上で手を組み、この体の記憶を引き出しては仕分ける作業に時間を使った。浮かんでくるのは断片ばかりだ。仕立屋の店先。賭場の煙。人を呼びつける自分の声。
どれも金の出ていく側の光景で、入ってくる側がひとつもない。収入の記憶を持たない人間があれだけ使えていたのなら、どこかに必ず穴がある。
穴を塞ぐ前にまず穴の形を測る。順番としてはそうなる。
そのためにはこの体が何をやったのかを知っている人間から聞くのが早い。乗り合わせているのが一人だけなのは幸運だった。
「この体が——俺が、屋敷で何をしていたか話せ」
「え」
「知っている範囲でいい。順番も要らない。思い出した順に言え」
テオの喉が上下する。答えれば殴られると思っているのが見て取れた。
「怒らない。今から聞くのは、俺の悪口じゃない。記録だ」
テオの視線が幌の床に落ちた。指が膝の布を握って、離す。それだけの間を置いて、少年は最初のひとつを口にした。
「……厨房の下働きの、賃金が。3ヶ月ぶん、止まっています」
「続けろ」
「馬丁のヤンが、蹴られて左腕を折りました。冬の初めです。医者は呼ばれませんでした」
「続けろ」
「布地屋への支払いが、去年の春から後回しのままです。あと、王都の賭場から人が来ていました。月に2度か3度」
そこから先は堰が抜けたように出てきた。庭師の解雇と未払い。銀器の質入れ。館の酒蔵の在庫が半分に減っていること。
聞きながら、俺は妙な安堵を覚えていた。人から話を引き出す作業には手順がある。責めない。遮らない。金額を先に訊かない。前世でそれを覚えたのが取引先の督促だったか身内の不始末だったかは思い出せないが、体のほうが手順を覚えている。
途中で御者に頼み、荷物に付いていた古い荷札を何枚か分けてもらった。焚きつけにするつもりだったらしく、渋りもしなかった。
炭の欠片で、聞いた端から書きつけていく。項目と相手と時期、そして金額の見当。荷札の裏は小さく、すぐに埋まった。
書き出してみると、館の内側で起きていた出来事の輪郭が見えてくる。未払いの相手はいずれも立場の弱い者に偏っていて、取り立ての強い相手には払われている。つまり、この体は金がなかったのではない。払う順番を、力の強い順に並べていただけだ。
その並べ方を続ければ、弱い側から順に人が消える。事実、断罪の知らせが届いたとき、屋敷に残っていた奉公人は片手で足りるほどだったとテオは言った。逃げたのではなく、その前に辞めさせられていた。
「あの」
「なんだ」
「なぜ、そんなものを書くんですか」
揺れる幌の中で炭が滑り、数字の尻が歪む。俺はそれを指で拭ってから書き直した。
「わからないことを、わからないまま置いておくのが気持ち悪いからだ」
「怒らないんですか」
「怒る相手が、今この馬車に乗っているのが厄介でな」
テオが目を丸くした。冗談だと気づくまでに、たっぷり間が空いた。
宿場で出たのは黒パンと塩漬けの肉だ。硬い。噛むと塩の角が舌に刺さって、しばらく味しか残らない。それでも腹には入る。テオは俺の皿の減り方を横目で見ていて、こちらが半分を割って差し出すとまた身構えた。
「毒は入っていない。入れる金もない」
少年は受け取り、両手で持って、鼠のような速さで食べた。
*
8日目の昼過ぎ、御者が「見えましたぜ」と言った。
幌の隙間から覗いたグラウフェルトはまず匂いで来た。雪解けの泥と家畜と燻された煙。土は黒く水を含み、車輪が沈むたびに馬が首を振る。丘の斜面に低い屋根が張りつき、その向こうに麦の畑が広がっているがまだ芽の色は薄い。
領主の館は丘の上にあった。石を積んだ2階建てで、壁の下半分に苔が回っている。門の前に人はいない。
「出迎えは」
「ないでしょうな」と御者。「知らせが着いてても、来ますまい」
馬車が集落を抜けるあいだ、道端に人はいた。薪を割る手を止めた男、桶を提げた女、泥まみれの子ども。誰も声を出さず、誰も頭を下げない。見送る目つきは季節外れの雹が降ってきたときのそれに近い。
天災の扱いだ、と思った。防ぎようがなく、去るまで待つしかないもの。前の領主たちがこの土地でどう振る舞ってきたかが、その視線ひとつで読める。
馬車を降りると、足首まで泥に沈んだ。長靴の縫い目から冷たい水が入ってくる。俺は上着の上から胸を押さえた。油紙の包みは無事だ。持ち物は懐中時計と、没収調書の控えが一枚。それに、炭で汚れた荷札が数枚。
「お館様」と、テオが後ろから小さく言った。「あの、荷は」
「これで全部だ」
少年が黙り込む。主人の全財産が上着の内側に収まる光景を、この子はたぶん初めて見る。
坂の下に低い建物があり、窓の内側で誰かが書き物をしていた。若い女に見えたが、こちらを一瞥しただけで手元に戻る。羽根ペンの動きに迷いがなく、行の間隔が目測で揃っているのが、離れていてもわかった。
徴税所だろう。ここでは領主の到着より、書きかけの帳面のほうが重要らしい。
悪くない態度だ、と俺は思った。
*
館の扉が内側から開き、大柄な男が出てきた。
灰混じりの髪を短く刈り、外套の下に古い革の胴当てを着けている。歳は50の前後だろう。俺の顔を見る目に、遠慮というものが一切なかった。
「代官のガルフレッド・ボーデンです。守備隊も預かっております」
「コンラート・ヴェルンハルト。今日からここの領主だ」
「聞いております。王都で相当なことをなさったとか」
嫌味を包む気もない。俺は頷いた。
「相当なことをしたのは、この名前の男だ。事実だから否定しない」
ガルフが口の中で何か短く言った。聞き取れる音にはならなかった。想定していた返事と違ったのだろう。だがそれで態度が和らぐわけでもなかった。
観察できることは多い。外套の裾は泥で汚れているのに、胴当ての革だけは油が入れてある。武具の手入れを欠かさない男が、身なりには構わない。館の扉を自分で開けたということは、取次をさせる人手がないか、させるつもりがないかのどちらかだ。
指の関節が太く、右手の甲に古い傷が走っている。書き物より、荷と武器を扱ってきた手だった。
「先に申し上げます。ここには差し上げられるものが何もありません。金も、兵も、麦も。王都から流された方が、一冬過ごして音を上げて帰る。この土地では珍しくもない話です」
「帰り道はない。俺は帰還を禁じられている」
「それはご愁傷様で」
言い方は雑だが嘘はついていない。この男は言葉を飾らない代わりに、隠しもしない種類の人間だ。
「倉庫を見せてくれ」
ガルフの動きが止まった。
「今からですか」
「今からだ」
*
領の倉庫は館の裏手にある細長い建物だった。
扉が軋みながら開くと、冷えた土と埃の匂いが押し寄せてくる。中は暗い。屋根板の隙間から糸のような明かりが何本か落ちていて、その下に浮かぶものが、ほとんど何もなかった。
奥の壁際に麦の袋がいくつか。反対側に樽が数個。あとは空いた床が続くだけだ。ガルフが腕を組んだ。
「見ての通りです。これで冬を越しました」
嫌がらせが半分、事実が半分。そういう見せ方だとわかる。
俺は入口で足を止め、順に目を走らせた。
床の埃には四角い跡が並んで残っている。積んであった荷を下ろした跡だ。跡の大きさから、以前はもっと物があった。
棚の縁は擦れて木肌が出ており、使われている棚と使われていない棚がはっきり分かれる。使われていた側は、入口に近い下段に偏っていた。人目につきにくい奥ではなく、出し入れの楽な場所ばかりが減っている。
壁際に据えられた樽は、置き位置がばらばらだ。埃の輪から半分ずれているものが混じっている。誰かが動かして、元へ戻す手間を惜しんだ。
そして、扉の錠が真新しい。建物のどこよりも新しい。中身のない倉庫の錠だけを替える人間はいない。替えたときにはまだ中身があったということになる。
「錠を替えたのは、いつだ」
ガルフの返事が一拍遅れた。
「……去年の秋です」
「理由は」
「古いのが壊れたからです」
なるほど、と俺は言わなかった。代わりに、床の跡の数を頭の中で数えた。4列、7つずつ。28。少なくともそれだけの荷が、以前はここに積まれていた。
ガルフがこちらを見ている。埃だらけの空き倉庫を値打ちのある部屋のように眺める男が理解できない、という顔だ。
「何か、面白いものでも」
「あるかどうかを、これから調べる」
「調べて、どうなさる」
声に苛立ちが混じった。この男にとって、王都から来た人間が最初にやることは決まっている。誰かを吊るすか、誰かから取り立てるか、そのどちらかだ。
「どうもしない。数がわかるだけだ」
「数がわかったところで、麦は増えませんぞ」
「増えない。だが、どこで減っているかはわかる」
ガルフの口が半端に開き、そのまま閉じた。反論の形が見つからなかったのだろう。腹は立っているが、言い返す言葉がない——そういう顔をする男は、俺の経験では悪くない相手だ。話が通じる余地がある。
俺は手を差し出した。
「鍵を」
「は」
「倉庫の鍵だ。領主が持っていて不都合はないだろう」
ガルフは一瞬迷い、腰の輪から鉄の鍵を外して寄越した。渡すときに指がわずかに強張ったのを俺は見た。
冷たい鉄が手のひらに乗る。ずしりと重い。
伯爵領も屋敷も金も名誉も置いてきた。この土地で今日俺が手に入れたのは、この鍵ひとつきりだ。
——なら、まずはこの鍵の中身から確かめよう。




