第0話「断罪より先に、気になること」
——この決算書、3箇所も数字が合っていない。
財務院の大広間で、俺は膝をついている。読み上げられているのは俺の罪状だ。横領。公金の私的流用。領地経営の怠慢。区切って発音される単語のひとつひとつが、俺の余生の残りを削っていく。
それなのに頭を占めているのは、正面の書見台に開かれた一枚の紙だった。明細の縦列と、いちばん下の合計欄。その二つが噛み合っていない。
こんな場所で気にすることではない。自分でもそう思う。
半刻前まで、俺はこの紙を読めなかった。
衛兵に両腕を掴まれて広間へ引き出された瞬間、後頭部の内側で何かがめくれた。痛みはない。自分のものではない記憶が、順番も断りもなく流れ込んできただけだ。
白い天井の光。机に積み上がった伝票の束。締め切りまで残り何時間、と数えながら押し続けた印。椅子に座ったまま冷えていく指先。
誰の記憶だ、と最初に思った。次に来たのは飯に毒でも盛られたのではないかという疑いだ。それからようやく——これは俺の記憶かもしれない、という可能性に手が届いた。
理屈では呑み込んだ。胸のほうはまだ追いついていない。帳簿と伝票の海で20年泳いで、最後は決算期の残業で心臓を止めた男の一生を、俺は今しがた終わりまで見せられたばかりだ。
そいつの職業病だけがやたら鮮明に残っている。
だから読めてしまう。
「——以上により、被告ヴェルンハルト伯爵コンラートが領庫より私に流用せし額、金貨6000クローネと算定する」
書記官の声が広間の奥まで届く。傍聴席で低いどよめきが起きた。ひと財産どころではない。中堅の領地なら数年ぶんの収入にあたる額だ。
俺はもう一度、書見台の紙を目でなぞる。明細の頭から順に足していく。ペンも算盤もないが、この程度の桁なら要らない。
合わない。2段目の小計で1度。4段目の繰越でもう1度。そして最後の合計で3度目。
しかも合計欄だけが妙にきれいな数字をしている。6000クローネ、ちょうど。実務で丸い数字が出てくるとき、たいていそれは足した結果ではない。先に決まっていた数だ。
「被告。申し開きはあるか」
法官が言った。形式的な問いだというのは声の温度でわかる。
「恐れながら」
俺の声は思ったよりも落ち着いて出た。膝は震えていたのに、喉のほうは使い方を覚えていたらしい。
「その計算書、合っておりません」
広間の空気がざわりと動いた。傍聴席の誰かが短く笑う。かつて俺の——この体の元の持ち主の周りにいた連中も、そこに混じっていた。目が合うと、みな一様に視線を外していく。
法官が眉を寄せた。
「申し開きは罪状に対して行え」
「罪状の根拠がその計算書であるなら、計算書こそが罪状です。2段目の小計と、4段目の繰越と、末尾の合計。3箇所、和が立ちません。読み上げをもう一度お願いできますか」
書記官が困った顔で壇上を見上げる。壇の上、告発者の席には財務卿がいた。オズウェル・メルクリン侯爵。王国の帳簿と手続きの権威と呼ばれる男は、こちらを見もしない。手元の書面を繰る指だけが動いている。
答えたのはその脇に控えた次席のほうだった。
「その書は財務院の作成にかかり、卿の署名を得ている。誤りはない」
署名。俺は口の中で繰り返した。
署名は正しさの保証ではない。誰が書いたかを示すだけの印だ。印の数が増えるほど、中身を読む者は減っていく。その手の書面なら、見飽きるほど見た記憶がある。
「では、署名の脇に朱でも入れて確かめていただければ済む話です。数字は読み直せば済みます。人の首は読み直せません」
「被告は黙れ」
法官の声が硬くなった。
そこで俺は理解した。この広間の誰も数字の話をしに来ていない。もう決まっていることを、決まった順序でなぞりに来ている。
俺は嘘つきとして裁かれている。ところがこの場でいちばん嘘をついているのは目の前の紙のほうだ。
記憶を辿る限り、この体の元の持ち主は確かに使い込んでいる。仕立屋への払い、賭場、それに馬。細かい掠め取りもやっていた。潔白を主張する気はない。
だがこの額ではない。桁がひとつ違う。
俺が数えたところで誰も数え直さない。それが今日という日の仕組みだった。
法官が羊皮紙を持ち上げた。
「ヴェルンハルト伯爵領および同家財産の一切を没収し、国庫に納める。被告の身柄は北辺境グラウフェルトへ移し、同地の領主として経営に当たらせる。以後、王都への帰還を禁ずる」
処刑ではない。首が繋がったことに安堵しかけて、すぐに気づく。北辺境グラウフェルト。名前だけは知っている。冬が長く、作物が育たず、代々の領主が持ち出しで支えてきた土地だ。その中に、うちの家も入っている。祖父の代までは直に抱えていた領で、以後は代官任せだ。当主が足を向けた話は、この体の記憶のどこにもない。
殺すより安く始末する方法を、この連中は選んだわけだ。
傍聴席を見回しても、身内の顔はひとつもなかった。この体の両親はとうに亡く、叔父と従兄弟は爵位の順番待ちで王都にいるはずだが来ていない。座を埋めているのは、伯爵家の没落を見物に来た他家の使用人ばかりだ。
そういう男だったのだろう、と俺は思う。使い込みを咎める者が一人もいなかったということは、諫める価値もないと見限られていたということでもある。
ためしに、ヴェルンハルト領の帳簿を思い出そうとしてみた。何も出てこない。年の収支どころか、領地を任せていた者の名前すら浮かばない。この体は生まれてからずっと領主の跡取りだったはずなのに、頭の中にあるのは仕立屋の請求書と賭場の借用証だけだ。
見事なものだと感心した。ここまで何も残していないといっそ清々しい。
「執行は本日中に。年度の締めに間に合わせよ」
次席がそう付け加えたとき、俺の中の経理屋が顔を上げた。
年度の締め。つまり没収した財産を今期の国庫に入れなければならない事情がどこかにある。だから審理がこの速さなのか。
急いでいるのは俺ではない。そっちだ。
覚えておこう、と思った。理由は自分でも説明できない。辻褄の合わないものを見たら記録に残す。20年ぶんの体に染みついた癖が、まだ抜けていないだけかもしれない。
*
広間の隣室に移されると、細長い机の上に没収調書が用意されていた。
書記官が羽根ペンを差し出してくる。歴代の財務卿の名を刻んだ銅板が壁に並び、その下でだけ空気が乾いてインクの匂いがきつい。腕を掴んでいた衛兵の手は署名のあいだだけ緩んだ。
俺は文面を頭から読んだ。読み終えるまでにそれなりの時間がかかり、書記官が咳払いをする。
「お早く」
「読まずに署名する人間が、この部屋に何人来ましたか」
書記官は答えなかった。俺はコンラート・ヴェルンハルトと書いた。この手は綴りを覚えていて、指のほうが勝手に動く。
砂を振り、余分を落とし、書記官が紙を引き取ろうとする。俺はその端を押さえた。
「控えを一部いただきたい」
「……控え、とは」
「今しがた私が署名した、この調書の写しです。署名した書類の控えを取らない人間がありますか」
書記官が本気で困惑した顔になった。この男は俺を、往生際の悪い罪人だと思っている。
「前例がございません。被告人に交付する定めは——」
「では、ないと書いてください。『規定なきにより交付せず』と一行。それにも私が署名します」
「そのようなこと」
「財務院の書式に、写しの規定はあるはずです。院が外へ出す文書はすべて写しを残す。あなた方が自分の身を守るために持っている仕組みでしょう。であれば、署名した当人が同じものを求めて不都合はない」
言いながら、俺は少し驚いていた。この理屈は前世の記憶から出てきている。役所の窓口で何度もやり合った男の口ぶりが、そのまま喉を通って出てくる。
書記官は一度、扉の向こうを窺った。壇上の誰かに指示を仰ぐか迷ったのだろう。そして、迷ったまま結論を出した。
「……写しの規定は、確かにございます」
「助かります」
若い書生が呼ばれ、隣の机で同じ文面を書き写し始めた。羽根が紙を掻く音と、蝋を溶かす小さな炎の匂いが混ざる。俺は衛兵に挟まれたまま、それが終わるのを待った。
出来上がった写しには、書記官の受領印と日付が入る。俺はそれを二つ折りにし、机の隅にあった油紙を一枚もらって包んだ。
上着の内ポケット。懐中時計の隣に差し込むと、胸の上で紙と金属が重なる感触があった。父から譲られた古い時計——この体の記憶のほうの父だ——と、俺を追い出す紙切れ。持って出られるのはその二つきりだ。
「意味のないことをなさる」
書記官がぽつりと言った。哀れみが半分、呆れが半分。
「今日のところは、そうでしょうね」
俺は素直に頷いた。実際、この紙で何ができるとも思っていない。署名したものの控えを持たないというのが、どうにも気持ちが悪かった。理由をうまく言葉にできないまま、俺は胸を軽く叩いてみせた。
*
日が傾いてから、俺は裏門に回された馬車に乗せられた。
正門は使わせてもらえなかった。見物人がいるからか、あるいは罪人にそこまでの格を認めていないのか。どちらでもいい。荷馬車を仕立て直したような幌の内側は、藁と獣脂の匂いがした。
霜解けの月の風はまだ冷たく、指先が痺れる。王都の壁が背中で遠ざかっていく。生まれてから26年、この体が一度も出たことのない壁だ。
御者台の男が肩越しに言った。
「北辺境まで、馬車で8日でさ。旦那、酔いやすい口ですかい」
「わからない。今日、初めて乗った気がする」
「そりゃ災難だ」
災難、と言われて少し笑いそうになった。今日いちばん的確な言葉かもしれない。
「向こうには、何がある」
「何がって、雪と石と、痩せた麦でさ。派遣された役人はみんな、ひと冬で顔つきが変わって帰ってきますよ」
帰ってこられるだけましだな、と口に出しかけてやめた。御者に言っても仕方がない。
車輪が石を噛み、幌が揺れる。俺は上着の上から胸を押さえた。紙と時計の角が手のひらに硬く当たる。
馬車で8日。
なら十分だ。あの3箇所を、頭の中で何度でも数え直せる。




