第30話「決算は、辺境で」
裁定の3日後、財務院の書棚に封が下りた。
法官庁の書生が朝から入り、棚ごとに麻紐を回して結び目に蝋を落としていく。俺は廊下から見ていた。中へは入れない。請求人は調べの当事者であって、調べる側ではない。
封をされた棚は42。数えたのは俺ではなくテオだ。少年は柱の陰に腰を下ろし、書生の出入りする回数まで書き取っていた。
「お館様。封の紙に番号が振ってございます」
「飛びはあるか」
「17と18のあいだが空いております」
俺はその一行を綴りに写した。写したところで、こちらに調べる権限はない。権限がなくても書いてあれば後で誰かが読む。
*
オズウェルは登城を止められ、屋敷で調べに応じている。
逃げてはいない。院の書記が2人つき、毎日、問いと答えを紙に起こしているという。答えは全部出しているらしい。出さない理由がないのだろう。数の在り処をいちばん正確に知っているのは隠していた本人だ。
俺はその話を宿の卓で聞いた。聞いて、麦湯の椀を持ったまま何も返さなかった。
返す言葉がない。あの人の首が飛んでも、東への支払は来年も来る。
*
5日目の午後、ドミニクが宿へ来た。
監査部の制服ではない。腕に法官庁の布を巻いている。院の人間のまま、院を調べる側へ出された形だ。
「西方街道の帳簿が出ました」
「どこから」
「特別出納の綴りの、いちばん下の箱です。5年ぶん揃っておりました。普請の実体はございませんが、金は動いております」
卓に置かれた紙は分厚い。8万4000の内訳に、実体のない普請へ払われた実体のある名が並んでいる。請負の元締め、石工の組、荷の請け。
「この頁を、ご覧いただきたい」
欄の下のほうに、見覚えのある名があった。
ヴェルンハルト伯爵コンラート。額は300クローネ。摘要の欄に、路の見分の謝礼、とある。
「3年つづけて、同じ額が同じ摘要で立っております。年は、証書の日付と重なります。締めて900」
「証書は860だ」
「初めの年の300のうち、40が預け入れの前に引き出されております。両替商の帳簿にございました」
俺は自分の指の関節を見た。震えていない。震える種類の話ではない。
原主は見に行っていない路の見分に判を押して金を受け取った。受け取って、2年目からは手をつけずに預けた。怖くなったのか、使い道を思いつかなかったのかは、もう誰にも聞けない。
*
空白の欄が埋まった。
埋まった中身はこういうものだ。俺の家はあの穴を掘る側の列に並んでいた。並んで、分け前を受け取って、黙っていた。
口止、の一語が、その黙っていた代金にあたる。
「相手は」
「特別出納を扱っていた院の役です。名は調べに出ております。わたしの口からは申し上げません」
「言うな。聞くと、こちらが先に喋る」
ドミニクは頷き、紙をもう1枚出した。
「去年、当領の帳簿室へ入った者に払われた金も、同じ出納から出ております。3人ぶん、締めて14クローネ」
「額まで書いてあるのか」
「書いてございます。出納は、書く場所ですので」
俺は詰所の火のそばで読んだ紙のことを思い出した。あの指示書は今も綴りにある。使えない紙のまま、日付だけを持って綴じられている。
日付は残っていた。残った日付の隣に今日の額が並ぶ。
*
長官が扱いを整理したのは翌日だ。
填補に使った182クローネ11グロッシュは、10年で国庫へ返す。原資は返上している俸給の年18。手をつけていない677クローネ9グロッシュは、出所が国庫から出た金と判明したので、供託のまま国庫へ移す。
隠し金の運用そのものについての告発は取り下げられない。院の規則に取り下げの定めがないからだ。調べが終わるまで判断は止まる。
「では、私は罪人のままですか」
「そうなる」
長官は書きながら答えた。
「不服か」
「ありません。宙に浮いた勘定を、浮いたまま帳面に残していただければ結構です」
「浮いたまま」
「閉じられない勘定を無理に閉じると、閉じた者が嘘をつくことになります」
*
番号の飛びに答えが出たのは6日目の朝だった。
17番と18番のあいだの棚は、封を落とされていなかったのではない。すでに封がしてあった。書生が入る前の晩に、誰かが自分で紐を回して蝋を垂らしている。
中身は綴りが1冊きり。40年ぶんの索引だった。
財務院次席ヴァイスが、自分の書いた書面の番号を年ごと件ごとに書き出したものだ。最後の頁に一行ある。
『これは弁明ではない。読む者の手間を減らすために作った』
ケラーが写しを持って宿へ来た。この数日、府と法官庁のあいだを歩き通しで、目の下が黒くなっている。
「東の街道の宿駅を、3つまで当たりました。名がございません」
「乗り継ぎ札の理屈か」
「使いました。出ません。あの方は、自分の通った跡が紙に残る道を選んでおられません」
俺は索引の頁を繰った。8年前の欄に、ファルナーの名で始まる綴りの番号が5つ並んでいる。うち1つに、後から入れた印がついていた。
追いました、1度だけ。宿場の火のそばでそう言った人の、その1度がここにある。
*
再審理は10日後に開かれた。
六家とグラウフェルト領の没収額の算定を、あらためて審理する場だ。俺は請求人ではなく、当事者の1人として席にいる。
その日、俺は1つだけ申し立てをした。
前へ出て、書見台の手前に立つ。1年前に膝をついた場所から、2歩ほど奥だった。
「8年前、王国財務官マティアス・ファルナーが、没収計算書の検算欄に一行を書いております」
俺は読み上げた。
「合計欄と明細の和、相違あり。再確認を要す」
書記のペンが動く音がした。
「この一行の上に、二重線が引かれております。線の向きと、書き直された4の頭の形は、先の場で同一の手と認められたものに一致いたします」
長官が顎を引いた。
「ファルナーは翌年、東の徴税所へ移されました。罪状は、院の文書を許しなく写して持ち出したこと。2年後に獄で死んでおります」
俺は次の一行を、間を置かずに続けた。急いでも遅らせても情になる。同じ速さで読むしかない。
「その者が写して持ち出した綴りが、先の場に出された物証の1つです。持ち出されていなければ、あの場は開かれておりません」
「請求は」
「記録の訂正を。恩給の話ではありません。8年前に一行を書いた人間が、正しく書いたのだと、院の紙に残していただきたい」
読み終えて、俺は後ろを振り返らなかった。
*
裁定は短かった。
『故王国財務官マティアス・ファルナーにつき、職務上の非違は認められず。記録を訂正し、院報に告示する。遺族に対し、8年ぶんの俸給を遡って支給する』
読み上げが終わると、傍聴の席で紙を繰る音が起きた。
宿へ戻る道は市の裏を通る。轍が乾いて固まり、踵が引っかかる。リーゼは道の途中で一言も喋らなかった。
一階の卓に着いてから、彼女はようやく口を開いた。
「恩給は、受け取ります」
「受け取るのか」
「取引でしたら、受け取りませんでした。裁定ですので、受け取ります」
彼女は綴りの表紙に手を置いた。
「父が8年、働いて受け取るはずだったものです。働いた者が受け取るのは、施しではございません」
「そうだ」
「……1つだけ、決めかねております」
「聞く」
「父の墓が東にございます。移すべきかどうかを、まだ決めておりません」
俺は答えを持っていなかった。持っていないと正直に言うと彼女は笑う。声を出して笑うのを聞くのはこれが初めてだ。
*
再審理の告示はその日のうちに街の柱へ出た。
六家の名が並んでいる。モルヴィッツ伯爵家。エッシェン子爵家。トラウン男爵家。ラウテンベルク家。シュタイベル家。ヴェルトハイム卿。
2日後の夕方、宿の主人が困った顔で俺を呼びに来た。
一階の隅に、歳が30ほどの女が立っていた。外套は着ていない。宿へ入るのに外套を脱いでくる人間は、遠くから来ていない。
「モルヴィッツの家の者です。今は、その名ではありません」
俺は椅子を勧めた。座らなかった。
「この春、伯爵の書状を返したのは、わたしの伯父です。読まずに焼けと書いた人です。あのとき、もう床についておりました。先月、死にました」
「存じませんでした」
「ですので、今はもう、断る人間がおりません」
女は掲示の紙を1枚持っていた。柱から剥がしてきたものだ。折り目が深く、角が擦れている。
「わたしは織物屋で7年働いておりました。おとといから、行っておりません。暇を出されました。理由は、書かれておりません」
「書かれていないと、争えません」
「はい。……伯父の名を知っている者が、あの店に1人おりました」
*
俺は自分の持っているものを頭の中に並べた。
金は動かせない。677は国庫へ移り、182は10年に割った。私財と呼べるものは時計が1つきりだ。
名を消す手続きはない。告示は取り消せない。開いた審理は取り下げられない。それを定めた規則を、俺は自分の側の武器として使ってきた。
残っているのは1つだけだった。
「北で働く場所を作れます。うちの徴税所と、坑の飯場と、宿場の組合に伝手があります」
「北へ参りますと、北へ参った者として名が残ります」
女は即座に言った。考えて出た答えではない。ここへ来る前に何度も数えた人間の答え方だ。
「弟が2人おります。別の街で、別の名で働いております。まだ知られておりません」
「いつまで持つ」
「わかりません。伯爵は、おわかりになりますか」
俺は答えなかった。
「では、書いておきます」
言ってしまってから、自分が何を言ったのかに気づいた。
「書かないでください」
女は紙を畳んだ。
「書かれた紙が、ここまで来たのです」
*
女は泊まらずに帰った。
名も行き先も聞かなかった。聞いて書き取れば、また1つ紙が増える。
その晩、俺は填補の綴りを開き、順位の欄を長く見ていた。1番はヨストの母親。2番はカルルの孫3人。3番から下に、家を焼かれた者と荷を失った者が並ぶ。
この欄に、今日の人は入らない。
損を出したのは領の判断ではない。俺が王都で紙を並べた結果だ。書けば入れられる。入れれば額が増えて、20年が伸びる。
俺は綴りを閉じた。閉じたまま、卓の上に手を置く。
ガルフが扉のところで見ていたが、何も言わずに行った。
*
殿下に呼ばれたのは、王都を発つ前の日だ。
府の一室に卓が1つと椅子が2つ。壁には何も掛かっていない。殿下は自分で椅子を引いて座り、俺にも座れと言った。
「調べは3年かかる。院を建て直す者が要る」
「そうでしょうね」
「貴殿の名が挙がっておる」
俺は聞き違いを疑わなかった。疑うほど意外でもない。ほかに挙げる名がないから挙がっている。
「お断りします」
「早いな」
「私は再審理の当事者です。別の告発も止まったまま残っております。罪人が院の長になれば、次に院の数を疑う人間は、まず私の罪から数え始めます。そこで1年潰れます」
「余が押し切ればよい」
「押し切って据えた人間の出す数は、押し切った方の数になります」
殿下は指で卓を1度叩いた。
「では、誰がやる」
「決めるのは私ではありません」
「答えになっておらん」
「なっておりません。名を挙げれば、挙げられた者が私の側の人間として数えられます。今それをやると、その者は当分、数を出せなくなります」
殿下は俺の顔を見て、それから椅子の背に体を預けた。
「貴殿は、逃げるのか」
「逃げます」
俺は正直に答えた。
「私は386のうち1つしか数えられません。1つを数えるだけで1年かかりました」
「1つは要らん。余には386要る」
「では、386人お探しください。……辺境に、俺の帳簿があります」
*
殿下は返事の代わりに、卓の紙を1枚こちらへ滑らせた。
府の年費の算定根拠だ。3年ぶりに院から出てきたという。項目が並び、いちばん下に領の数が386と書いてある。
「余の書記官が、自分の金で北へ行った。その旅費を、今年から府の帳面に載せる」
「載せてよろしいのですか」
「載せる。載せて、誰がどこへ行ったかを院に読ませる。読まれて困る用で人を出すのは、今日で終いだ」
俺は紙を返した。返しながら、この人の言い方に去年の冬の書記官の顔が重なった。当たれば殿下がお得をなさり、外れれば私が消えます。当たったほうの勘定が、ようやく紙になっている。
*
ラウテンベルク家の娘が再審理に出したのは、5年前の書付だった。
監査の指摘が7点、番号を振って書いてある。当時の監査官の署名は、いま法官庁の布を巻いている男のものだ。
「7点のうち、6点はうちの落ち度でございました」
娘はそう言った。
「残る1点は、院から回ってきた数と合わないというものでした。母は、その1点の意味が今日までわかりませんでした」
ドミニクは席から立たなかった。立って詫びれば場が動く。動かせば、その紙の値打ちが下がる。
長官が書付を証拠に採り、綴じ番号を振らせた。
その日の終わりに、あの男は俺のところへ来て言った。
「5年前、わたしは7点を書きました。7点目の意味がわからないまま署名しております」
「今はわかるのか」
「わかります。ですので、今度は書けます」
それだけ言って、法官庁の側の扉から出ていった。同じ広間から出るのに、こちらとは別の扉を使う。所属が違うというのはそういうことだ。
*
発つ前の朝、俺はガルフと市を歩いた。
王の裁可を経て財政を公にする日取りが決まっている。それを待たずに、院の特別出納の3本は廃された。直轄地の歳出は一律に切られ、東への使節が来月出る。
パンの値札は10日でもう1度書き直されていた。上から4度目の塗りだ。両替の店先の列は1年前より長い。
ガルフは列の端から端まで歩き、数を取ってから戻ってきた。
「王都の麦が、うちの村の値の3倍になっております」
「1年前は」
「2倍でした」
「上がるな」
「上がります。来年、うちの麦は王都へ買われます。買われれば、村に残る麦が減ります」
俺は頷いた。
「あなたが数を出したせいではありません。出さなくても、来年は同じことが起きました」
ガルフは列のほうを見たままだった。
「違うのは、村が理由を知っていることだけです」
*
門の手前で、ガルフが足を止めた。
「去年の秋に、伺ったことがございます」
「覚えている」
「その紙で、村の冬が温かくなりますか、と申し上げました。……答えを申し上げます」
「聞く」
「温かくなりません」
こちらを見ずに言った。
「1つも温かくなりません。水路の石は今年も出ません。填補は20年です。王都の値は上がります」
「そうだ」
「ですが、去年までは、寒くなる理由が誰にもわかりませんでした。理由のわからない寒さには、備えようがございません」
この人は外套の襟を直した。
「私に申し上げられるのは、その値段までです。安いとは思っておりません」
*
帰りは8日かかった。
行きと同じ日数で、乗っている人間が1人増えている。マグダは荷台の隅で什一の抄本を膝に載せ、宿ごとに帳面を見せろと言い出した。3軒目で断られ、断られた理由のほうを書き取っていた。
「北は、麦が不味いと伺いました」
「不味い」
「祖父様の畑の豆は、もっと不味うございました」
丘の下に坑の煙が2本立って見えたとき、テオが先に降りて走っていった。
*
帰って最初に片づけたのは、詰所に残っていた一件だ。冬に捕らえた若い男を関の代官へ引き渡す。段取りは隊がつけ、俺は引渡書の末尾に本人の名と、折れた腕の見込みを入れさせた。字が書けないというので、聞き取ってテオが代わりに書く。
掲示は帰った翌日に出した。
柱の前に村の者が集まり、ガルフが読み上げる。約束していたことだ。
弁済182クローネ11グロッシュ。10年に割って年18。原資は領主俸給の返上分。供託した677クローネ9グロッシュは国庫へ移り、領の勘定には入らない。賦課の未納420のうち、冬に現物で納めた31は納付済みと認められた。前領主の代の未納金の残り216は、根拠なしとして落ちた。
填補の見積もり260のうち、埋まったのは182。残りは78。積む原資は坑の1割の4。
「年に4で78を積みますと、20年でございます」
ガルフの声は張っていない。張らずに、いちばん後ろまで届く読み方をする。
人垣は散らなかった。散らないまま、誰も何も言わない。
先に口を開いたのはブレントだ。
「216が落ちたってのは、うちらの借りが減ったってことですかい」
「減った」
「じゃあ、その分で石を出せますね」
「出せない。落ちたのは借りで、金が入ったわけじゃない」
「ややこしいな」
「ややこしい。だから貼ってある」
後ろでイルゼが短く笑った。羊飼いの女は20年の欄を顎で示す。
「20年後に、あんた幾つだい」
「46だ」
「じゃあ、逃げられないね」
人垣が笑った。掲示の前で人が笑うのを、俺は見たことがなかった。
*
その晩、テオが帳簿室に来た。
手に掲示の写しを持っている。柱に貼った紙と同じ文面を、自分でもう1枚こしらえたらしい。
「お館様。1つ、書き足してよろしいですか」
「何を」
「20年の欄の下です」
少年は写しを卓に置き、余白の位置を指で押さえた。
「王都で、名を読まれた家がございました。掲示に出た6つのうち、1つは、名を出さないでほしいと書いてこられた家です」
俺はペンを置いた。
「それが、どうした」
「その家のことを、うちの帳面は何も書いておりません。損の欄にも、填補の順位にも入っておりません」
「入れられない」
「なぜでしょう」
「書けば、また名が残る。残ったものは、消すのに手続きが要る」
言ってから、その理屈を去年の春に自分で使ったことに気づく。あのときは名が残るほうが人を守った。
テオは写しの余白を見ていた。
「では、どこに書けばよいのでしょう」




