エピローグ「新しい台帳の一行目」
収穫締めの3日を俺は坑で過ごした。
行かなくてもよかった。ヘルマンの炉は3つに増え、汲み出しの手順も掘り出しの記録も、こちらが口を出す余地はもうない。それでも俺は毛布を担いで上がり、3晩、岩の匂いのする小屋で寝た。
出る前に、テオに言ったことは1つだけだ。
「締めておけ」
「わたしがですか」
「お前がだ」
少年は返事をしなかった。返事の代わりに、卓の上の墨の位置を直している。
*
丘を下りたのは4日目の朝だった。
秋の風は乾いていて、麦の埃が喉に絡む。館の前に荷車が2台停まっていて、見たことのない馬がつながれていた。
帳簿室に入ると、卓の上に綴りが積んである。積み方に癖がある。厚いほうを下、薄いほうを上、綴じ紐の結び目を全部同じ向きに揃えてある。
テオが立ち上がった。目の下が黒い。
「締まりました」
「読め」
「収入、金貨で512クローネと4グロッシュ」
少年の声は途中で裏返らなかった。去年の掲示のときは3度裏返って、そのたびに誰かが笑った。
「支出を」
「冬支度224。守備隊の俸給72。坑の入用41。財務院への分割19。填補の積立9。その他を締めて44です」
「差引は」
「103クローネと4グロッシュ」
*
俺は綴りを開かなかった。
開いて上から足せば、この桁なら半刻もかからない。去年までは必ずそうしていた。最後にもう1度、俺が数えてから判を押す。
今年は判だけを押した。
蝋を垂らし、印を当て、日付を入れる。それで終わりだ。
テオが何か言いかけて、やめた。やめてから、あらためて聞いた。
「……ご覧にならないのですか」
「見ない」
「間違っておりましたら」
「そのときは、間違ったものに俺の判が押してある」
少年は自分の指先を見た。爪のあいだに墨が入っている。3晩、洗う暇がなかったのだろう。
「怖いです」
「怖いだろうな」
俺は椅子を引いて座った。
「3年前、お前は読めない字を運んでいた。読めないから使われていると、後で気づいた。今は読める。読めるうえに、書いた責めが自分に来る」
「はい」
「そっちのほうが怖い。当たり前だ」
テオは綴りの表紙に手を置いた。置いてから、番号を振る位置を確かめている。振る位置は内側だ。誰に教わったかは聞くまでもない。
*
掲示は昼に出した。
『413年 収穫締め 差引残 金貨103クローネ4グロッシュ』
去年の紙は色が褪せて、柱の裏に重ねて貼ったままにしてある。並べると、52と103が上下に並ぶ。
読み上げたのはマグダだった。テオが番を代わったわけではない。マグダのほうが声が通るからで、決めたのは村の女たちだ。
「羊にすれば、40頭ちょいだね」
イルゼが最初に言った。1年前と同じ勘定の仕方をする。
「去年の倍だ」
グレゴールが言うと、イルゼは鼻を鳴らした。
「倍になったのは坑のおかげだよ。麦は去年と同じさ」
「同じだ」
俺が認めると、人垣が少しざわついた。認められると思っていなかったらしい。
「麦は増えていない。増えたのは塩で、塩は掘れば減る。減る前に、麦のほうを増やす話をしないといけない」
ブレントが柱の前へ出てきた。
「じゃあ、増やす話はいつするんです」
「雪の前だ。集会所に貼る」
「今年は貼るんですね」
「去年も貼った」
「去年は読めませんでした」
読めるようになったのはブレント自身だ。冬のあいだ、徴税所で字を習っている。俺はその話をここでしなかった。したら、この男は二度と来ない。
*
見たことのない馬の主は、南の領の徴税役だった。
3人来ている。うち2人は書記で、1人は代官の甥だという。うちの割符の様式を写しに来たと言った。
「宿がございませんな」
ガルフがそう言うと、いちばん若いのが顔色を変えた。去年までなら俺は同じことを言って、館の部屋を掃除させていた。
「村の家に泊まってもらう。3軒に1人ずつだ」
「別々にですか」
「別々だ。うちの様式は、書く人間が3人いれば3通りに崩れる。崩れ方を見て帰ったほうがいい」
教えたのはマグダだった。
この娘は割印の切り方から入る。俺なら帳面の立て方から入る。マグダは紙を2枚重ねて端を切らせ、切った断面を並べさせ、繊維の裂け方が二度と同じにならないことを指で触らせた。
「これが最初でよいのか」
俺が聞くと、娘は手を止めずに答えた。
「わたしは、これが最初でした。これがわからないと、後の話が全部お説教になります」
*
ドミニクが来たのは、その3人が発った翌日だ。
腕に法官庁の布はない。監査部の制服でもない。灰色の外套に、見慣れない銅の徽章が1つ。
「調べの実地でございます。当領は、算定に疑義のあった領の1つですので」
「何を見る」
「去年から今年にかけての受け払いを全部です。3日いただきます」
3日のあいだ、この男は歩き通しだった。館ではなく坑の飯場から入り、村の家を3軒、こちらに選ばせずに選んで回る。徴税所へ入ったのは2日目の午後で、俺は同席しなかった。
4日目の朝、卓に紙を並べて座っている。
「指摘は」
「ございません」
「7つくらい出るだろう」
「出しました。出して、こちらで潰しました。潰せる指摘は指摘として書きません。書くと、直す手間より読む手間のほうが増えます」
俺は笑いそうになって、こらえた。この言い方をする人間を、俺はもう1人知っている。
「代わりに、持ち帰るものがございます」
ドミニクは割符の綴りを1冊、卓の上で示した。
「様式そのものを、規則の別記に入れます。来年の年度から、中央との受け払いは二枚と受領印になります」
「院が呑むのか」
「呑みません。呑ませます。……わたしが書きますので」
*
書状は秋のうちに3通来た。
1通目は字が大きい。行の終わりが右下へ流れ、紙の下半分が余っている。代筆を頼まない人の書き方だ。
『孫は達者か。畑の豆はこちらのほうが不味い。返還は屋敷の中身だけで、母の代の食器は割れて戻った』
2通目はヴェルトハイム卿で、要件が1行、あとの5行は王都の物価の悪口だった。3通目はラウテンベルク家の娘から来た。婚家の名は今年も書かれていない。
シュタイベル家は蟄居が解けた。解けたという通知だけが法官庁から回ってきて、本人からは何も来ない。トラウンの村はどこにも見つかっていない。
もう1つ、来ないものがある。
俺は駅逓の袋を空にするたび、底を1度余計に確かめる癖がついた。確かめて、何も入っていないことを綴りに書く。書く欄は自分で作った。
『モルヴィッツ家 消息 なし』
日付だけが年に何度も増えていく欄だ。埋まる見込みはない。それでも書く。書く場所を作っておかないとこちらが忘れる。
*
王国財政の告示が出たのは夏だった。
歳入28万に対して隠れた負債が84万。院内の特別出納3本。東への年7万の支払。数字はほとんど俺たちが並べたままの形で公にされた。
出た後で何が起きたかというと、値が動いて人が怒り、それから静かになった。
東への使節は成果を持って帰っていない。支払の年限を伸ばす話は、向こうが利息を要求してきた時点で止まっている。調べは春から季を二つ跨いで、まだ院の書棚の半分にしか手が届いていない。
オズウェルは屋敷から出ずに、問われたことに答え続けているという。
俺のほうの告発も止まったままだ。宙に浮いた勘定は、浮いたまま帳面に残っている。
*
填補の掲示を読み上げたのはガルフだった。
去年と同じ柱の、同じ高さ。読み方も同じで、声を張らずにいちばん後ろまで届かせる。
「填補の残り78のうち、今年積んだのが9。残りは69」
人垣が黙った。
「坑の1割が、去年の4から9になっております。この調子で積みますと、8年」
「20年でしたよね」
宿場から来ていた男が言った。バルツの組合の若いのだ。
「20年でした」
ガルフは紙をたたまずに答えた。
「8年になりました。私が申し上げておきたいのは、そこではありません」
この人は柱の前から半歩下がって、村のほうを向いた。
「8年、私はこれを毎年読み上げます。読み上げる年に額が減っていなければ、私が領主を詰りに参ります。去年もそう申し上げました。今年も同じことを申し上げます」
俺は人垣の後ろでそれを聞いていた。
カルルの孫の上の子はいま8つになる。8年後に16だ。受け取る本人が受け取れる歳になる。それを喜んでいいのかどうかは、いまだに決めかねている。
*
宿場からの荷には、いつも通り割符の様式で書付が付いてきた。
『店は建った。前より小さい。ミナの腕は動く。ヨストの母親は夏に村の妹のところへ移った』
その下にもう1行ある。
『あんたの正しさの値段は、まだ払い終わっとらん。こっちの帳面では、あと8年だ』
俺はその一行を写し、填補の綴りの表紙の裏へ貼った。表側に貼らなかったのは、村の誰かに読ませるための紙ではないからだ。
*
その晩、リーゼが日程表を持ってきた。
来年の分だ。種蒔きと坑の炉入れ。駅逓の便。王都への物証の写しの発送。細い炭で線が引いてあり、余りの日はいつも通り後ろの端に寄せてある。
寄せてある、はずだった。
俺は端から順に数えて、途中で指を止めた。
「1日、前に置いてあるな」
「置きました」
「余りは前に置くと使う、と言っていた」
「はい」
彼女は炭を布で拭いた。指の腹の黒は落ちない。落ちないのを知っていて、それでも毎回拭く。
「使うつもりで置きました」
「何に」
「まだ決めておりません」
彼女は日程表を卓の上で回し、こちらから読める向きに置き直した。
「決めましたら、申し上げます」
俺は頷いた。頷いて、その1日の欄に何も書かなかった。書けば、書いた通りにしか使えなくなる。
*
夜が更けてから、俺は帳簿室に1人で残った。
窓の外は坑の煙が2本と村の灯りが幾つか。1年半前、この部屋の棚には白紙の帳面が30冊並んでいた。今は棚が2つ埋まって、3つ目の枠を大工に頼んである。
俺は新しい台帳を引き寄せた。
綴じたばかりの紙は白い。まだ折り目もついていない。
1行目に日付を入れ、その隣に繰越の欄を作る。
『繰越 填補未済 69クローネ』
黒で締めた年の、次の年の1行目が借りから始まる。それでいい。始まりの一行に嘘がなければ、後の頁は勝手に埋まっていく。
砂を振り、余りを落とした。
隣の卓で、テオが自分の台帳を開いている。最初の頁は、まだ白い。




