第28話「俺にも向く刃」
テオドール、という名が読み上げられたあと、広間はしばらく静かにならなかった。
傍聴の席で誰かが名を繰り返し、隣の者に説明している。少年の使いが証書を運んでいた、という話は、貴族の横領の話よりも耳に残る形をしている。
俺は後ろを振り返らなかった。振り返れば、あの子が立ち上がる。
背中で、椅子の脚が床をこする音がした。
「座れ」
俺は前を向いたまま言った。声は張らない。この広間は小声のほうがよく通る造りになっている。届いたはずだ。
音が止まった。それから、椅子が元に戻る音がした。
長官が卓を打った。
「請求人。答弁を」
*
俺は足元の革袋から、綴りを2冊出した。
1冊は薄い。もう1冊は分厚い。どちらも王都へ持ってきていた。持ってきた理由は1つで、今日この話が出るとわかっていたからだ。
「争いません。全部こちらから申し上げます」
長官の眉が動いた。
「否認せぬのか」
「事実ですので」
俺は薄いほうを開いた。
「証書は3枚。両替商の名と、預り高が金貨860クローネ。前領主が3年前から去年にかけて預けたものです。冬に、館の従者から私に渡されました」
「なぜ届け出なかった」
「届け出ておりません。届け出ずに、綴りを立てました。この綴りです」
*
書記が受け取り、読み上げを始めた。
日付。相手。額。用途。1グロッシュ単位で並んでいる。
宿場の焼失で家族を失った者への手当。家を焼かれた組合員への支払い。荷を失った軒への分。焼けた店の建て直しの前払い。全部で182クローネと11グロッシュ。
残りの額も読み上げられた。677クローネと9グロッシュ。手をつけていない。
「用途の欄に、名前が書かれておりますな」
「書きました。掲示には出しておりません。受け取ったことが村に知れると、その家は施しを受けた家として扱われますので」
「では、なぜ帳面には書く」
「掲示と帳面は用が違います。掲示は村のためのもので、帳面は後で数え直す人間のためのものです」
読み上げは続いた。
いちばん上の行に、ヨストという名の母親への手当がある。次がカルルという年寄りの孫3人。その下に、火傷を負った女の名と治療の薬の代。名前と額が交互に並び、書記の声だけが石の壁に当たって返ってくる。
俺は聞いていた。自分で書いた行を人の声で聞くのはこれで2度目だ。1度目は1年前、この部屋で、自分の家の値段を聞いた。
順番のいちばん上に死んだ者の遺族を置いたのは俺ではない。宿場の組合の元締めが書いて寄越した。あの男は自分の店の順位を3番目に落として、若い行商の母親を1番にした。
その一行も書記は同じ調子で読んだ。
*
俺は分厚いほうの綴りを長官の前に置いた。
「こちらは、求められておりません。ですが一緒に出します」
「何だ」
「前領主の領庫からの引き出しの記録です。総額580クローネ。使途まで整理してあります。着任した年の春に手控えを見つけ、そのまま台帳に記帳しました。写しは村の掲示に貼ってあります」
広間の隅で笑いに近い息が漏れた。誰が笑ったのかは見なかった。
「自分の家の横領を、自分で書いて貼ったのか」
「貼りました。隠した帳面は、間違いのある帳面より信用されませんので」
長官が書記に渡し、書記が頁を繰った。繰る音が長く続いた。
*
オズウェルが立ったのは、その音が終わってからだ。
「よく整っておる」
言い方に皮肉はなかった。
「用途は1グロッシュまで書かれておる。誰に渡したかも書いてある。……余が伺いたいのは、そこではない」
この人は一歩前に出た。
「入りの欄だ」
俺は黙っていた。
「証書の裏には、両替商の入金の控えが貼ってある。預けた者の名は前領主。では、どこから来た金だ。誰が、何のために、あの男に860を渡した。貴殿の綴りの、その欄には何と書いてある」
「空白です」
「空白か」
*
オズウェルは書記に俺の綴りを開かせ、その頁を指した。
「読み上げよ」
書記が読んだ。
「用途、口止。金額の記載なし。相手方の記載なし」
「口止、とだけ書いてある」
この人は俺のほうを見た。
「これは記録ではない。ほのめかしだ。誰の口を止めたかを書かずに、口止とだけ書けば、読む者は勝手に誰かの顔を思い浮かべる。貴殿は今日、余の帳簿の空白を並べて責めた。同じことを、余は貴殿に問うておる」
「問われる筋合いがあります」
俺は認めた。
「その欄は空いています。私は、あの金がどこから来たのかを知りません」
*
広間が静まった。
長官が確かめるように聞いた。
「知らぬ、と」
「知りません。調べました。両替商の帳簿はこちらからは見られません。前領主は死んでおり、証書を運んだ従者は字が読めませんでした。3年、追いましたが、届いておりません」
「調べた、と言うたな。何を調べた」
「前領主の手控えの日付と、証書の日付を突き合わせました。3枚のうち1枚が、手控えの空いた行と重なります。その行の用途の欄に、口止と書いてありました。それだけです」
「それだけで、貴殿は口止と書いたのか」
「書いてあったものを、書いてあった通りに写しました」
オズウェルは短く息を吐いた。
「写しは便利だな。書いた者の責めを負わずに済む」
その一言はこちらの腹の底に届いた。
届いたが俺は言い返さなかった。言い返す材料がない。持っていない材料で殴りに行くのは、今日ここまでやってきたことの逆になる。
「では、貴殿の帳面は、いちばん大事な一行が空いておる」
オズウェルが言った。
「空いた欄のある帳面を、この場は信じるのか」
俺はそこで初めて、この人の顔を正面から見返した。
*
「書けないことを、書けないと書きました」
俺の声は自分でも思ったより平らだった。
「わからないものを、わかったように書くこともできました。原主が誰それから受け取ったと書けば、今日この場では通ったかもしれません。通った瞬間に、この綴りの中身は全部疑わしくなります」
「屁理屈だ」
「屁理屈です。ですが、私が今日申し上げた121も、72も、31も、同じ手で書いた紙から出ています。片方を都合よく埋める人間は、もう片方も埋めます」
俺は綴りの表紙に手を置いた。
「この帳面は、私にも刃を向けます。だから、信じていただける」
*
そこで俺は用意してきたことを言った。
「填補に使った182クローネと11グロッシュを、国庫へ返します。原資は、返上している領主俸給の年18クローネと、私の私財です。私財と申しましても、時計が1つきりですが」
「10年か」
長官が計算した。
「10年です。手をつけていない677クローネと9グロッシュは、本日この場に供託します。出所が明らかになった日に、出所へ返すか、国庫に納めるかを決めていただきたい」
「填補を受けた者から取り戻すのではないのか」
「取り戻しません。あれは領の判断で出した金です。判断した者が返します」
供託の手続きには半刻かかった。
証書3枚を院の出納が検め、両替商へ使いが出され、額が確かめられて戻ってくる。そのあいだ、俺は立っていた。座ってよいと言われたが、座ると膝が笑いそうだった。
リーゼが供託の受取書きの控えを求め、書記に2枚こしらえさせている。1枚をこちらの綴りに綴じ、番号を振った。振る位置はいつもの内側だ。
彼女は綴じ終えてから、小声で言った。
「10年でございますね」
「10年だ」
「では、10年ぶんの欄を作っておきます。今日から毎年、いくら返したかを書きます」
*
短い休みに、ガルフが俺のところへ来た。
この人は座らずに立ったまま、低い声で言った。
「10年、俸給を出されるのですな」
「出す」
「では、填補の積立はどうなります」
俺は答えなかった。答えは向こうも知っている。
「填補の見積もりは260を超えておりました。あの金から出た182で、そこまでは埋まっております。残りは78」
「78だ」
「年22の原資のうち18が消えます。残るのは坑の1割の4だけです。年4で78を積めば、20年かかります」
「かかる」
「カルルの孫は、20年待てません」
「待てない」
ガルフは口を結んだ。結んだまま、俺の顔を見ていた。
「……申し上げておきます。あなたは今、王都で立派なことをなさった。うちの村の勘定では、それは損です」
「わかっている」
「わかっておられるなら、結構です。帰ったら、掲示に書いてください。私が読み上げます」
*
午後、長官が本件の扱いを整理した。
前領主の横領そのものは、断罪の判決で処理済みである。隠し金の運用については、新たな告発の手続きによる。今日の場は王国会計の適否を問うものであり、両者を混ぜて裁くことはしない。
殿下がそこで口を挟んだ。
「混ぜれば、双方が罰されて終わる。それでは数が出ん」
「殿下」
オズウェルが言いかけた。
「余は数が知りたい。伯の罪はその後だ」
殿下は卓の縁を指で押さえた。
「明日、請求人の残りの提出を聞く。それで終いにする」
*
広間を出るとき、テオが柱の陰で待っていた。
「座れと言われましたので、座っておりました」
「よく座った」
「……わたしの名が、あの部屋で読まれました」
「読まれた」
「消えますか」
「消えない。読まれた名は残る」
少年は自分の靴の先を見た。それから、手にした紙を差し出した。傍聴の出入りが書いてある。入った者が61人、途中で出ていった者が9人。出ていった刻限まで書いてあった。
「9人のうち、4人は同じ方角から入って、同じ順で出ていかれました」
俺はその紙を受け取り、綴じ番号を振った。
*
宿に戻ったのは日の落ちた後だった。
一階の卓に灯りが2つ。マグダが3年ぶんの什一の抄本を広げて、頁の端を石で押さえていた。エッシェン子爵は椅子で舟を漕いでいる。
「祖父様が、今夜のうちに数えておけと」
「読めるか」
「教区の書式は、うちの畑の割り当てと同じです。読めます」
リーゼが向かいに座り、六家の没収計算書の抄本を並べ始めた。テオが墨を摺る。ガルフは扉の内側に椅子を置いて、外の音を聞いている。
俺は上着の内から油紙の包みを出し、卓の真ん中に置いた。
1年前、俺が自分の署名の下から持ち出した紙だ。ずっと胸にあって、比べる相手がいなかった。
マグダが什一の抄本を引き寄せ、その隣に並べた。




