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追放された悪役伯爵は帳簿を正しくつけるだけ ~辺境を黒字にしていたら、俺を断罪した王国は粉飾で手遅れになっていた~  作者: 夜凪 蒼


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第28話「俺にも向く刃」

テオドール、という名が読み上げられたあと、広間はしばらく静かにならなかった。


傍聴の席で誰かが名を繰り返し、隣の者に説明している。少年の使いが証書を運んでいた、という話は、貴族の横領の話よりも耳に残る形をしている。


俺は後ろを振り返らなかった。振り返れば、あの子が立ち上がる。


背中で、椅子の脚が床をこする音がした。


「座れ」


俺は前を向いたまま言った。声は張らない。この広間は小声のほうがよく通る造りになっている。届いたはずだ。


音が止まった。それから、椅子が元に戻る音がした。


長官が卓を打った。


「請求人。答弁を」



俺は足元の革袋から、綴りを2冊出した。


1冊は薄い。もう1冊は分厚い。どちらも王都へ持ってきていた。持ってきた理由は1つで、今日この話が出るとわかっていたからだ。


「争いません。全部こちらから申し上げます」


長官の眉が動いた。


「否認せぬのか」


「事実ですので」


俺は薄いほうを開いた。


「証書は3枚。両替商の名と、預り高が金貨860クローネ。前領主が3年前から去年にかけて預けたものです。冬に、館の従者から私に渡されました」


「なぜ届け出なかった」


「届け出ておりません。届け出ずに、綴りを立てました。この綴りです」



書記が受け取り、読み上げを始めた。


日付。相手。額。用途。1グロッシュ単位で並んでいる。


宿場の焼失で家族を失った者への手当。家を焼かれた組合員への支払い。荷を失った軒への分。焼けた店の建て直しの前払い。全部で182クローネと11グロッシュ。


残りの額も読み上げられた。677クローネと9グロッシュ。手をつけていない。


「用途の欄に、名前が書かれておりますな」


「書きました。掲示には出しておりません。受け取ったことが村に知れると、その家は施しを受けた家として扱われますので」


「では、なぜ帳面には書く」


「掲示と帳面は用が違います。掲示は村のためのもので、帳面は後で数え直す人間のためのものです」


読み上げは続いた。


いちばん上の行に、ヨストという名の母親への手当がある。次がカルルという年寄りの孫3人。その下に、火傷を負った女の名と治療の薬の代。名前と額が交互に並び、書記の声だけが石の壁に当たって返ってくる。


俺は聞いていた。自分で書いた行を人の声で聞くのはこれで2度目だ。1度目は1年前、この部屋で、自分の家の値段を聞いた。


順番のいちばん上に死んだ者の遺族を置いたのは俺ではない。宿場の組合の元締めが書いて寄越した。あの男は自分の店の順位を3番目に落として、若い行商の母親を1番にした。


その一行も書記は同じ調子で読んだ。



俺は分厚いほうの綴りを長官の前に置いた。


「こちらは、求められておりません。ですが一緒に出します」


「何だ」


「前領主の領庫からの引き出しの記録です。総額580クローネ。使途まで整理してあります。着任した年の春に手控えを見つけ、そのまま台帳に記帳しました。写しは村の掲示に貼ってあります」


広間の隅で笑いに近い息が漏れた。誰が笑ったのかは見なかった。


「自分の家の横領を、自分で書いて貼ったのか」


「貼りました。隠した帳面は、間違いのある帳面より信用されませんので」


長官が書記に渡し、書記が頁を繰った。繰る音が長く続いた。



オズウェルが立ったのは、その音が終わってからだ。


「よく整っておる」


言い方に皮肉はなかった。


「用途は1グロッシュまで書かれておる。誰に渡したかも書いてある。……余が伺いたいのは、そこではない」


この人は一歩前に出た。


「入りの欄だ」


俺は黙っていた。


「証書の裏には、両替商の入金の控えが貼ってある。預けた者の名は前領主。では、どこから来た金だ。誰が、何のために、あの男に860を渡した。貴殿の綴りの、その欄には何と書いてある」


「空白です」


「空白か」



オズウェルは書記に俺の綴りを開かせ、その頁を指した。


「読み上げよ」


書記が読んだ。


「用途、口止。金額の記載なし。相手方の記載なし」


「口止、とだけ書いてある」


この人は俺のほうを見た。


「これは記録ではない。ほのめかしだ。誰の口を止めたかを書かずに、口止とだけ書けば、読む者は勝手に誰かの顔を思い浮かべる。貴殿は今日、余の帳簿の空白を並べて責めた。同じことを、余は貴殿に問うておる」


「問われる筋合いがあります」


俺は認めた。


「その欄は空いています。私は、あの金がどこから来たのかを知りません」



広間が静まった。


長官が確かめるように聞いた。


「知らぬ、と」


「知りません。調べました。両替商の帳簿はこちらからは見られません。前領主は死んでおり、証書を運んだ従者は字が読めませんでした。3年、追いましたが、届いておりません」


「調べた、と言うたな。何を調べた」


「前領主の手控えの日付と、証書の日付を突き合わせました。3枚のうち1枚が、手控えの空いた行と重なります。その行の用途の欄に、口止と書いてありました。それだけです」


「それだけで、貴殿は口止と書いたのか」


「書いてあったものを、書いてあった通りに写しました」


オズウェルは短く息を吐いた。


「写しは便利だな。書いた者の責めを負わずに済む」


その一言はこちらの腹の底に届いた。


届いたが俺は言い返さなかった。言い返す材料がない。持っていない材料で殴りに行くのは、今日ここまでやってきたことの逆になる。


「では、貴殿の帳面は、いちばん大事な一行が空いておる」


オズウェルが言った。


「空いた欄のある帳面を、この場は信じるのか」


俺はそこで初めて、この人の顔を正面から見返した。



「書けないことを、書けないと書きました」


俺の声は自分でも思ったより平らだった。


「わからないものを、わかったように書くこともできました。原主が誰それから受け取ったと書けば、今日この場では通ったかもしれません。通った瞬間に、この綴りの中身は全部疑わしくなります」


「屁理屈だ」


「屁理屈です。ですが、私が今日申し上げた121も、72も、31も、同じ手で書いた紙から出ています。片方を都合よく埋める人間は、もう片方も埋めます」


俺は綴りの表紙に手を置いた。


「この帳面は、私にも刃を向けます。だから、信じていただける」



そこで俺は用意してきたことを言った。


「填補に使った182クローネと11グロッシュを、国庫へ返します。原資は、返上している領主俸給の年18クローネと、私の私財です。私財と申しましても、時計が1つきりですが」


「10年か」


長官が計算した。


「10年です。手をつけていない677クローネと9グロッシュは、本日この場に供託します。出所が明らかになった日に、出所へ返すか、国庫に納めるかを決めていただきたい」


「填補を受けた者から取り戻すのではないのか」


「取り戻しません。あれは領の判断で出した金です。判断した者が返します」


供託の手続きには半刻かかった。


証書3枚を院の出納が検め、両替商へ使いが出され、額が確かめられて戻ってくる。そのあいだ、俺は立っていた。座ってよいと言われたが、座ると膝が笑いそうだった。


リーゼが供託の受取書きの控えを求め、書記に2枚こしらえさせている。1枚をこちらの綴りに綴じ、番号を振った。振る位置はいつもの内側だ。


彼女は綴じ終えてから、小声で言った。


「10年でございますね」


「10年だ」


「では、10年ぶんの欄を作っておきます。今日から毎年、いくら返したかを書きます」



短い休みに、ガルフが俺のところへ来た。


この人は座らずに立ったまま、低い声で言った。


「10年、俸給を出されるのですな」


「出す」


「では、填補の積立はどうなります」


俺は答えなかった。答えは向こうも知っている。


「填補の見積もりは260を超えておりました。あの金から出た182で、そこまでは埋まっております。残りは78」


「78だ」


「年22の原資のうち18が消えます。残るのは坑の1割の4だけです。年4で78を積めば、20年かかります」


「かかる」


「カルルの孫は、20年待てません」


「待てない」


ガルフは口を結んだ。結んだまま、俺の顔を見ていた。


「……申し上げておきます。あなたは今、王都で立派なことをなさった。うちの村の勘定では、それは損です」


「わかっている」


「わかっておられるなら、結構です。帰ったら、掲示に書いてください。私が読み上げます」



午後、長官が本件の扱いを整理した。


前領主の横領そのものは、断罪の判決で処理済みである。隠し金の運用については、新たな告発の手続きによる。今日の場は王国会計の適否を問うものであり、両者を混ぜて裁くことはしない。


殿下がそこで口を挟んだ。


「混ぜれば、双方が罰されて終わる。それでは数が出ん」


「殿下」


オズウェルが言いかけた。


「余は数が知りたい。伯の罪はその後だ」


殿下は卓の縁を指で押さえた。


「明日、請求人の残りの提出を聞く。それで終いにする」



広間を出るとき、テオが柱の陰で待っていた。


「座れと言われましたので、座っておりました」


「よく座った」


「……わたしの名が、あの部屋で読まれました」


「読まれた」


「消えますか」


「消えない。読まれた名は残る」


少年は自分の靴の先を見た。それから、手にした紙を差し出した。傍聴の出入りが書いてある。入った者が61人、途中で出ていった者が9人。出ていった刻限まで書いてあった。


「9人のうち、4人は同じ方角から入って、同じ順で出ていかれました」


俺はその紙を受け取り、綴じ番号を振った。



宿に戻ったのは日の落ちた後だった。


一階の卓に灯りが2つ。マグダが3年ぶんの什一の抄本を広げて、頁の端を石で押さえていた。エッシェン子爵は椅子で舟を漕いでいる。


「祖父様が、今夜のうちに数えておけと」


「読めるか」


「教区の書式は、うちの畑の割り当てと同じです。読めます」


リーゼが向かいに座り、六家の没収計算書の抄本を並べ始めた。テオが墨を摺る。ガルフは扉の内側に椅子を置いて、外の音を聞いている。


俺は上着の内から油紙の包みを出し、卓の真ん中に置いた。


1年前、俺が自分の署名の下から持ち出した紙だ。ずっと胸にあって、比べる相手がいなかった。


マグダが什一の抄本を引き寄せ、その隣に並べた。

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