第27話「突き合わせ」
年度末の締切日は朝から雨だった。
宿を出る前に、テオが俺の外套の埃を落とした。少年は王都へ来てから口数が減っている。街の音が大きすぎるらしい。
「わたしは、外におります」
「入れる。傍聴は誰でも入れる」
「では、入ります。……数えるものがございますので」
「何を数える」
「人です。誰が来て、誰が途中で出て行くかを。お館様は前を向いておられますから、後ろが見えません」
俺はその案を採った。この子は言いつけたこと以外を勝手に見つけてくる。
*
大広間には人が入った。傍聴の席の3列目までが埋まっている。院の書記が両側に並び、法官庁の書生が入口で綴りを配っていた。
エッシェン子爵は最前列に座った。座ってすぐ、孫娘に什一の抄本の位置を確かめさせている。ヴェルトハイム卿は座らずに立っていたが、長官に注意されて渋々腰を下ろした。
王太子ルーデガーは壇の下に椅子を据えさせた。壇には上がらない。上がらないのは謙遜ではなく、上がった者が裁定すると規則に書いてあるからだ。裁定は最後にすると、この人は先に宣言した。
歳は30を越えている。顔立ちは父王に似ていない。腰を下ろすと、まず卓の脚の高さを直させた。
「見えぬ位置に紙を置かれると、読めん」
それがこの日の殿下の最初の言葉だった。
*
進行は法官庁の長官が務めた。
冒頭、オズウェルが立った。手には何も持っていない。
「請求人の適格に異議がある。ヴェルンハルト伯は処分を受けた者であり、王国会計の適否を問う立場にない」
「連署の2名は」
「エッシェン子爵およびヴェルトハイム卿。爵位は有する。ただし両名とも財産を没収されており、これも処分を受けた者だ」
長官が規則を繰った。繰る音だけが広間に響いた。
「規則には、爵位の有無のみが定めてございます。処分の有無は要件に含まれません」
「では、規則どおりに」
オズウェルは腰を下ろした。抗ってみせたのではない。要件を1つずつ確かめさせて、後で蒸し返せなくしている。
*
次に、物証の書式が問われた。
こちらの綴りは規則の様式で番号を振ってある。院の書記が1枚ずつ確かめ、不備なしと読み上げた。
そこでリーゼが立ち、追加の提出を申し出た。教区什一の抄本と、シュタイベル家から届いた引渡目録。期限を過ぎている。
「期限外である」
オズウェルが言った。長官が却下しかけた。
そこで、オズウェル自身が続けた。
「——が、受けよ」
広間がざわついた。
「本日は王国会計の適否を問う場である。請求人の手の内に取りこぼしがあれば、後日、同じ件が別の形で持ち出される。規則は同じ件で二度は開かぬと定めておるが、別の件と称して開かれることは防げぬ」
長官が殿下を見た。殿下は顎を引いた。
「全部出させよ。今日で終わらせる」
*
リーゼが席に戻ったとき、俺は彼女の手元を見た。
指はまっすぐ揃っていた。震えていない。震えていないことに自分で気づいて、彼女はその手を膝の上に置き直した。
「ようございました」
小声だった。
「よくない。向こうは、全部見ても勝てると踏んでいる」
「はい。……ですが、出せます」
*
本題に入るまでに、さらに半刻かかった。
俺が申し立てたのは1つだ。北辺境グラウフェルト領と王国財務院とのあいだの、金の出入りを突き合わせること。
「なぜ辺境1領の話から始める」
長官が聞いた。
「王国全体の帳簿は、私には読めません。読めるのは、自分が渡した金と受け取った金だけです」
俺は綴りを開いた。
「当領は、中央との金の出入りをすべて二枚で残しております。同じ文面を2枚こしらえ、重ねて端に割印を押し、1枚は当領、1枚は相手方が持ちます。院への納付には、院の受領印をいただいております」
「印のある紙は」
「ここに38枚」
*
読み上げは院の書記が行った。
こちらが読むと疑われる。向こうの書記に、向こうの帳簿と、こちらの紙を交互に読ませた。
「1件目。辺境守備兵糧補助、年24クローネ。院の歳出帳、当年支給済みと記載」
「当領の受領記録は」
「ございません」
俺は紙を差し出した。
「支給停止の通知が、当領に届いております。日付はこちら。理由の欄には、領政の健全性に疑義あり、と。受領印を押して控えを取ってあります」
書記が読み比べ、そこで手が止まった。
「……院の帳簿には、支給済みと」
「院の歳出帳は、3年つづけて支給済みと記載しております。当領の受領記録は、3年ともございません。3年ぶんで72クローネ」
*
2件目に移った。
「特別賦課、420クローネ。当領はこのうち31を、冬のあいだに現物で納めております。麦と、坑の塩でございます。院の受領印はこちら」
「院の債権帳の記載は」
書記が頁を繰り、額のところで指を止めた。
「……420。そのままでございます」
「納めた31が、引かれておりません。当領は420を負ったままです」
「では、その31はどこへ行った」
「消えたのではありません。同じ頁の下に、特別出納への繰入が31あります。日付が、受領印の日付と同じです」
長官が顔を上げた。
3件目は駅逓の維持費だった。
当領は駅逓の宿と馬の飼葉を現物で出している。受取印のある紙が8枚。院の帳簿ではその現物の代金を院が当領へ支払ったことになっていた。3年ぶんで18クローネ。
「支払われておりません」
「受け取っていないことを、どう証明する」
「できません」
俺は正直に答えた。
「受け取っていないものを証明する紙は、この世にありません。ですので、こちらは何も申しません。院の帳簿に支払済みと書いてあることだけを、記録に残していただければ結構です」
長官が書記に頷いた。書記が書き取る音がした。
4件目。前領主の代の未納金請求は、総額310クローネ。このうち当領が認めて払ったのは94で、残る216は根拠がないものとして否認してある。院の債権帳には310が全額そのまま立っていて、否認した216は翌年の歳入見込みに算入されていた。
「認諾していない額を、歳入に見込んでおられます」
「見込みは見込みだ」
「見込みで穴は埋まりません。翌年になれば、また別の見込みが要ります」
*
読み上げが終わったのは、昼を過ぎてからだった。
人いきれで広間の空気が重い。朝は封蝋の匂いのしていた場所が、今は濡れた外套の獣くささに変わっている。俺は綴りの端を握っていた指を開いた。紙が指の湿りを吸って、めくった端が波打っている。
俺は最後に、差の合計だけを言った。
「締めて121クローネ。3年ぶんを含みます。それとは別に、認諾していない216が、債権のまま立っております」
数字を言い終えて、俺は口を閉じた。
言い足すことはない。この場の誰も俺の腹の中の話を聞きに来ていない。
長官が咳払いをした。
「その額は、王国の歳入から見れば」
「小さい額です」
俺は頷いた。
「当領は北辺境の、麦の育たない領です。その領1つで121クローネ。……王国には、領が幾つありますか」
広間の音が引いた。
殿下が卓の上で指を1度動かした。
「386だ」
答えたのは殿下だった。長官が慌てて何か言いかけたがこの人は続けた。
「領と直轄地を合わせて386。数えたのは去年だ。余の家政の額の根拠を尋ねたら、院から領の数を送ってきた。根拠ではなく、数だけをな。数だけ寄越されると、人は掛け算を始める」
そこで殿下は初めてこちらを見た。
「伯。同じ突き合わせを、他の領でもやったのか」
「やっておりません。やれば、他の領に迷惑が及びます」
「では、貴殿の数は貴殿の領のものにすぎん」
「にすぎません。1領ぶんの紙で申し上げられるのは、この領で121消えたということだけです」
殿下は指を止めた。
「それでよい。憶測を並べられると、余が困る」
*
オズウェルが立った。
「記帳の時期が違うだけだ。院は年で締める。辺境は届いた日で書く。ずれは必ず出る」
「では、ずれた分は翌年に戻るはずです。翌年の帳簿には戻っておりません」
「様式が違う。当領の様式は院の様式ではない」
そこはこちらの用意した場所だった。
「規則の第4条です」
リーゼが立ち上がり、条を読んだ。
「院が受領印を押した書面は、その受領の事実について院の記帳に優先する。——院の規則でございます」
オズウェルは遮らなかった。遮らずに、最後まで聞いてから答えた。
「余が書いた条だ」
「存じております」
*
ドミニクが呼ばれたのは午後だ。
この男は監査部の制服で立った。辞令を断り、地方へ回される辞令を待っている身で、まだ院の人間の格好をしている。
「西方街道の視察を命じられ、行ったか」
「参りました。5日で全区間を見ております。普請の跡はございません」
「報告書は」
「書きました。院の記録に、その報告書は残っておりません」
「なぜ残っていない」
「存じません。わたしが確かめられるのは、書いたことと、無いことだけでございます」
長官が続けた。
「秋の未納金請求の明細に、貴殿の署名がある」
「ございます。中身はわたしが作ったものではございません。監査部へ回ってきたものに署名いたしました」
「知らずに署名したのか」
「知らずに署名しました。それが、わたしの落ち度です」
ドミニクは言い訳を1つもしなかった。しないことで、残りの言葉が全部重くなる。
傍聴の席で、誰かが席を立って出ていく音がした。テオが後ろで数えているはずだ。
*
そのあいだ、ガルフはずっと入口の脇に立っていた。
昼の休みに、この人が俺の隣へ来た。
「121と申されましたな」
「言った」
「うちの村の水路の石が、年に18です。121あれば、6年ぶんと少し積めます」
「積める」
「王都の連中には、小さい額に聞こえておりました。私には、6年に聞こえました」
俺は頷いた。頷いてから、午後の読み上げでその言い方を使わせてもらうことにする。使う許しは取らなかった。取るとこの人は嫌がる。
*
午後の終わりに、長官が休廷を告げようとした。
そこでオズウェルが立ち上がった。
「こちらからも提出がある」
広間の空気が動いた。
「請求人ヴェルンハルト伯は、断罪の後も、前領主が王都の両替商に預けた金を運用しておる。証書は3枚、預り高は金貨860クローネ。これは横領の継続である」
俺は動かなかった。
来ると思っていた。昨日、あの人は自分で予告している。
「証書の所在を院はどう知った」
長官が聞いた。
「両替商の帳簿である。預けた者の名と、引き出しに用いる符牒と、証書を運んだ使いの名が記載されておる」
書記が受け取った紙を読み上げた。
使いの名が読み上げられる。テオドール。
耳の裏が熱くなった。熱は首筋を伝って襟の内側へ下りていく。俺は膝の上で手を組み、親指の付け根を押した。押した場所だけが痛い。痛いところが1つあると顔が動かずに済む。
館で墨を摺っている少年の、洗礼の名だ。




