第26話「嘘の利払い日」
王都の壁が見えたのは8日目の昼だった。
1年前、俺はこの壁を幌の隙間から見送った。今度は正面から近づいている。石の色が思っていたより白い。あのときは日が傾いていて、影のほうを見ていたのだと気づいた。
門で召喚状を出すと、番の者は蝋の割れ口を指で確かめてから上役を呼びに行った。上役はもう1度読み、書き写し、それから通した。
「馬車は左の道です。中央の通りは、通行の許しが要ります」
「持っていない」
「では、左の道でございます」
罪人としての扱いは変わっていない。変わったのは追い出す側ではなく呼び込む側が手続きを踏んでいることだけだ。
*
左の道は市の裏を通る。
俺は幌を上げて外を見ていた。1年ぶんの差はこういうところに出る。
パンの値札が書き直されていた。上から3度塗り直した跡がある。塩の量り売りの升が、辺境で使っているものより小さい。両替の店先に人が並び、並んでいる連中の手にあるのは銀貨ではなく銅の細かいのばかりだ。
物乞いの数を数えようとして、やめた。数えれば書きたくなり、書いても、この街には俺の綴りを読む人間がいない。
「値が上がっておりますね」
リーゼが幌の内側から言った。
「上がっているというより、銀が軽い。同じ銀貨で買える麦が減っている」
「王都でそれをやると、どうなりますか」
「王都は文句を言える街だ。文句を言えない場所から先に、値の重さを持っていく」
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宿は西の門に近い安宿を取った。
ケラーが先に部屋を押さえておいてくれた。府の名では取っていない。取れば院に読まれる。宿帳には北から来た羊毛商の一行と書いてあった。
ヴェルトハイム卿は前日から来ていた。歳は40半ばで、背が低く、声が大きい。挨拶より先に「あの男は来るのか」と聞いた。エッシェンのことだ。
「6日の道程で発たれています。今日か明日には」
「80だぞ。死ぬぞ」
「死んだら、私が数えて記録します」
ヴェルトハイム卿は一瞬黙って、それから笑った。笑い方に品はなかったが、こういう笑い方をする人間は嘘が下手だ。
エッシェン子爵の馬車が着いたのはその日の夕方だ。孫娘が御者の隣に乗っていて、宿の前で先に降り、祖父に手を貸した。老人は手を借りずに降りようとして、結局借りた。
マグダは荷を降ろすと、いちばんに麻布の包みを俺のところへ持ってきた。
「教区の抄本です。3年分ございました。6年前のと、その前後です」
「重かっただろう」
「膝の上に載せて参りました。荷台に置くと、宿で盗られると祖父様が」
老人は椅子に沈み込んだまま、片手を振った。
「道中、この子が2度、宿の帳面を見せろと言い出した。困った孫だ」
「見ました。1軒目は、うちの馬の飼葉が2度書きしてありました」
俺はその一言で、この子を雇う決心を固め直した。
*
その晩、リーゼは宿の窓辺から動かなかった。
窓の外は路地で、向かいは桶屋の裏だ。見るものは何もない。それでも彼女は暗くなるまでそこにいた。
「8年ぶりか」
「8年ぶりでございます」
「変わったか」
「わかりません。私が最後に見たのは、東の門から出ていく荷車の上からで、こちら側は見ておりませんので」
彼女は窓の桟に指を置いた。塗りの剥げた木だ。
「においだけ、覚えておりました」
「何の」
「川です。この街の川は、夏でなくても匂います。父はこれが好きではありませんでした」
*
その夜遅く、宿に人が来た。
財務院の使いだ。書状には明日の午前、財務院の大広間にて面談を請う、とある。監査規則に定めのない私的な面談であること、記録は取らないこと、随行は2名までとすること。
署名はオズウェル・メルクリン。
ガルフが真っ先に反対した。
「行く必要がありません。明日は明日で並べればよろしい」
「必要はない」
「では」
「必要のない用で会いたいと言ってきた。それが情報だ」
「あなたは、そういう理屈で危ないところへ行かれる」
「行く。あんたが1人ついてこい。もう1人はリーゼだ」
ガルフは何か言いかけて、代わりに槍を置いていくかどうかを聞いた。置いていけ、と俺は言った。
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翌朝、大広間に通された。
1年前と同じ部屋だった。壇があり、書見台があり、傍聴の席が並んでいる。人がいないだけで、こんなに広い場所だとは思っていなかった。石の床は磨かれていて、靴の音がよく響く。
俺が膝をついたのは、書見台の手前の2歩ほどの位置だ。今日はそこに立っている。
待たされたのは半刻ほどだった。
その半刻で、俺は部屋の物を数えた。壁の銅板が14枚。窓が6つ。傍聴の長椅子が9列。柱の根元に、椅子を引きずった跡が扇形についている。1年前、あの跡の上に人が座って、俺の家の値段を聞いていた。
ガルフは入口の脇に立ったまま動かなかった。この人は広間に入るとき、天井を見上げず、出口の数だけ確かめていた。
奥の扉が開いて、男が1人入ってきた。
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オズウェル・メルクリンは、思っていたより小柄だった。
1年前は壇の上にいて、こちらを見なかった。今日は同じ高さで正面に立っている。髪は白く、背筋がまっすぐで、外套の袖口が擦り切れていた。靴は踵を打ち直してある。侯爵の靴ではない。
「ヴェルンハルト伯」
「財務卿」
「顔を見たことがなかった」
「私は見ました。壇の上でした」
オズウェルは否定も肯定もせず、書見台に手を置いた。
「余は、貴殿の帳面を読んだ。北辺境の1年ぶんと、その前の白紙をだ。よくできている」
「恐れ入ります」
「よくできているから、困っている」
*
そこから、財務卿は数を並べ始めた。
紙は出さない。俺と同じで、この程度の桁は頭に入っているのだろう。
「王国の年の歳入は、28万クローネだ。良い年でその額で、悪い年は届かん」
「承知しています」
「では、84万という数を貴殿はどう読む」
俺は答えなかった。答えは冬に聞いている。歳入の3年ぶん。
「12年前、東のヴァルデンと講和を結んだ。負けたほうが結ぶ講和だ。条項は5つ公になり、1つは公になっておらん。年7万クローネ、12年」
7万かける12。頭の中で数が並んだ。
「84万」
「そうだ」
*
「西方街道の普請費が8万4000。何年ぶんです」
俺が問いを返すと、答えのほうが早かった。
「5年だ。42万」
「河川の浚渫が3万6000。こちらの手元では、2年ぶんしか読めておりません」
「7年だ。25万2000。……よく調べた」
「もう1本あるはずです」
オズウェルの目が、そこで少し細くなった。
「軍備更新費。2万8000を6年。16万8000だ。3本で84万、きっかりになる。貴殿が自分で言うだろうと思って待っていたが、そこまでは届いておらんかったな」
「届いていません。今、届きました」
「そうか」
この人は自分の隠したものを自分の口で埋めた。埋めながら、顔色ひとつ変えなかった。
*
「なぜ隠す」
「破綻が知れれば、講和が破れるからだ」
即答だった。
「あの条項は、王国が払える限りにおいて有効とされている。払えぬとわかった瞬間に、東は履行不能を宣する。宣すれば国境の3郡が消える。3郡には人が9万住んでおる」
「9万」
「数えてある。余は数える男だ」
俺は自分の指が動くのを感じた。数える男。その言い方には覚えがある。
「では、六家は」
「穴を埋めた」
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「4万5000です」
俺は言った。冬に書いて、線で囲んだ数字だ。
「六家の没収と、私の分を足して4万5000。84万に対して、5分の1でも10分の1でもない。20分の1を、少し超える程度です」
「超えたところで、穴は穴だ」
「首を7つ集めても、西方街道の1年ぶんの半分です」
「半分だ」
オズウェルは書見台の縁を指でなぞった。
「だから、やめられん。1つ狩れば1つ埋まると思う者は、途中でやめられる。埋まらんと知っている者は、やめると穴だけが残る」
この人は数字に正直だった。自分の罪の効き目のなさまで、正確に把握している。
*
「余は私腹を肥やしておらん」
「見ればわかります」
「では、何が問題だ」
俺はそこで少しのあいだ黙った。
言う言葉は決まっている。決まっているのに、口の中でいちど転がさないと出てこなかった。
「嘘は複利で膨らみます」
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「複利」
「1年目に隠した額は、7万でした。2年目には、7万に加えて、1年目の項目の辻褄を合わせるための書き足しが要ります。3年目には、2年目の書き足しに合う書き足しが要る。項目が1本では足りなくなって、2本になり、3本になった」
俺は指を3本立てた。
「その利息を、あなたは金では払っていません。人で払っています。8年で7人。私で7人目です」
「必要な支出だ」
「支出です。だから、こう申し上げます。今日が利払い日だ」
大広間の空気が動かなかった。
オズウェルは瞬きを1度した。それから、初めて声の温度を落とした。
「貴殿にはわかるまい。1人で9万の首を担いだことがなければ」
*
「わかります」
俺の口から出た声は、自分でも思っていたより低かった。
「昔、俺は数字に嘘を書けと言われて、書いた側の人間だ」
オズウェルの目がこちらに留まった。
「その年の決算は通りました。誰も死にません。翌年、前の年の嘘に合わせてもう1箇所書きました。3年目には、どこが本当だったかを俺自身が思い出せなくなっていた」
俺は書見台の上を見た。1年前、そこに置かれていた紙のことを考えていた。
「あなたは、余は数える男だと言いました。俺もそうです。だから言えます。数える人間が嘘を書き始めると、いちばん先に嘘だとわからなくなるのは、書いた本人です」
「余はわかっておる」
「今はわかっています。8年後もわかっていますか」
*
長い沈黙があった。
背後でガルフの足が床をこすった音がした。リーゼは動かない。俺の斜め後ろで、両手を前で組んだまま立っている。
オズウェルは書見台から手を離し、外套の裾を直した。擦り切れた袖口が、動いたときだけ光った。
「明日は規則どおりに進める」
「そうしてください」
「余の書いた規則だ。貴殿は不利だぞ」
「規則が公平である必要はありません。同じであれば足ります」
この人は扉のほうへ歩き、途中で足を止めた。振り返らずに言った。
「ひとつ伺っておく。貴殿の領の帳面に、どこから来たか書けぬ金はないか」
俺は答えなかった。
答えるべき言葉が出てこなかったのではない。出てくる言葉が「ある」しかなかったからだ。
オズウェルは扉に手をかけた。
「明日、その欄を読み上げるのは、余のほうだ」




