第24話「数字の筆跡」
監査規則を頭から読むのに3日かかった。
禁止の条項は読まない。読むのは何を出してよいと書いてあるかのほうだ。役所の規則は人を縛るために書かれているように見えて、実のところは処理を早くするために書かれている。早くするには迷わず受け取ってよいものを決めておく必要がある。
読むのは二人でやった。俺が前から、彼女が後ろから。会ったところで突き合わせる。テオが蝋燭を替え、切った芯の数を紙の隅に書いていく。夜に何本焚いたかは、後で油の勘定に載る。
1日目は何も出なかった。2日目の昼、目が滑って同じ行を4度読んでいることに気づき、俺は外へ出て雪解けの水で顔を洗った。指の先が痛くなるほど冷たい水だ。戻ると、彼女は同じ姿勢のまま条を追っていた。
2日目の夕方、リーゼが指を止めた。
「ございました」
彼女は条を声に出して読んだ。
「院が発した公文書、およびこれに付属して発せられた書面は、その体裁および記載の一切を証拠として提出することを妨げない」
「記載の一切」
「一切、と書いてございます。文言だけとは書いておりません」
俺は卓の端を掴んだ。掴んでから、自分の手が先に動いたことに気づいた。
*
棚から綴りを1冊おろした。
去年の春に綴じたものだ。返書と、送り返されてきたこちらの照会状が同じ番号で並んでいる。腹の立つ紙ほどきちんと綴じておいたのがここで効いた。
返書のほうを卓に置く。
『貴殿の照会は領主の職掌を越えるものと認む——』
文末に署名がある。王国財務院財務卿、オズウェル・メルクリン。院印と、発送の番号と、こちらの受領の日付。
「これは公文書だ」
「公文書でございます」
「では、これと一緒に返ってきた紙は」
俺は照会状のほうを隣に並べた。赤い線が2箇所。こちらの数を消して、向こうの数が書き込まれている。
「付属して発せられた書面です。同じ封で、同じ日に、同じ受領印で入っております」
*
俺は2枚を並べたまま、しばらく動かなかった。
朱筆には署名がない。書いた人間の名はどこにもない。ふつうなら、それは弱点だ。
だがこの紙は院が正式に発したものだ。院は「誰が書いたか知らない」と言えない。知らない紙を院印を押して外へ出したことになるからだ。
「向こうは、2つのうちどちらかを言うことになる」
俺は指で紙を叩いた。
「朱を入れたのは誰かを答えるか、院が誰の書いたかわからない紙に印を押して発送したと認めるか」
「どちらも、答えたくない答えでございます」
「答えたくない問いを、規則のほうから聞かせる」
*
そこからは照合の仕事だ。
朱筆の癖は2つある。訂正の消し線が右下から右上へ抜ける二重線であること。書き直された数の4の頭が閉じていないこと。
リーゼが横から釘を刺した。
「桁の点を下に打つのと、7に横棒を入れないのは、使えません」
「王都の書式だからか」
「はい。院で書く者は全員そう書きます。あれを持ち出すと、院の者ならば誰でも当てはまると返されます」
俺は消し線と4だけを紙に写し取り、比べる相手を並べた。
六家の没収計算書。法官庁が正式に交付した抄本でこちらも公文書だ。4組に訂正の跡があり、消し線の角度が揃っている。書き直された数の4の頭が開いている。
そして、父ファルナーの検算欄。合わないと書いた一行の上に引かれた二重線と、脇に書き足された一行。
「私文書は1枚も使っておりません」
彼女は3つの束を順に指した。
「院の発した紙。法官庁の交付した抄本。どちらも、向こうが自分で外へ出したものです」
言い終えてから、彼女は父の検算欄の写しを手前へ引いた。引いて、そこで手を離した。
「この一行が、証拠になるのですね」
「なる」
「8年、私文書だと思っておりました。父が家で書いた紙の類だと。……役所が自分で交付した抄本の裏に、父の字が乗っていたのです」
彼女は目を上げなかった。目を上げないまま、指で紙の縁をそろえた。皺のひとつも寄らない揃え方だ。
「父は、家に何も持ち帰りませんでした。持ち帰らなかったから、残ったのだと思います」
俺は返事をせずに、その抄本に綴じ番号を振った。振る位置を、彼女はいつもの場所より少し内側にした。端が擦れると番号から消えるからだ。
*
その晩、俺たちは数のほうへ移った。
抄本には明細がない。項目の名と、小計と、合計だけが写されている。それでも小計を足せば合計が出るはずだ。
6件とも合計のほうが大きかった。
差額を小計の和で割る。算盤はないので、紙の上で桁を落としながら割った。
1件目が出た。書き留める。2件目を割り、書き留める。3件目の途中で、俺は割り算の終わりを待たずに手を止めた。
途中の桁まで、前の2つと同じ並びが出ている。
残り3件も割った。テオが読み上げ、リーゼが書き取り、俺が確かめる。6つの数が縦に並んだ。
同じ数字だった。
「6件とも同じでございます」
リーゼの声が低い。俺は自分の控えを出して、同じ検算にかけた。
俺の分だけ、割り切れなかった。
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3箇所ある。
2段目の小計。4段目の繰越。末尾の合計。1年前の広間で数えたときと同じ場所だ。その3箇所を直せば、俺の分も6件と同じ数字に乗る。
なぜ俺の分だけ手が入っているのか。俺は紙の余白にその問いを書いて、線を引いて囲んだ。
「わかりません、と書いておきます」
「そうしてくれ。わかったふりで出すと、向こうに読み替えられる」
彼女は綴りの端に一行を入れた。
『6件に共通の率あり。7件目のみ不一致。理由は不明』
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ドミニクの11枚を書式に整え直しているとき、彼女がもう1本を見つけた。
『河川浚渫費 金貨3万6000クローネ』
支払先の欄は西方街道の項と同じだ。王国財務院の特別出納。外へ出ていない。
「この2年、同じ額で並んでおります。手元にあるのは、その2年ぶんだけでございます」
「同じ川を同じ値で浚うのか」
「浚っていれば、川の名が変わるはずでございます。上流から順に浚いますので」
その川のその区間が、去年も今年も同じ値で浚われている。何年前から並んでいるのかは、この2枚からは出てこない。数字は正しく足されていて、正しく足されていること以外に何ひとつ正しくない。
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連署は2通が続けて届いた。
ヴェルトハイム卿のものは、書式も何もない紙に名前と印だけが押してあった。書き添えはひとことだけ。
『日取りを寄越せ』
エッシェン子爵のほうは、また字が大きかった。
『署名する。什一の写しは監査の日に持って行く。教区は原本を出さん。抄本を作らせておる』
行が変わって、続きがある。
『王都へは行けぬと書いたが、あれは、あんたに来させて値踏みをするためだ。老人にも段取りはある』
俺はその紙をリーゼに渡す前に、行の下の余白を見た。老人の字は紙の下半分を使わない。使わない余白のぶんだけ、書くのに手間がかかっている。彼女は読み終えると、日程表の欄をひとつ書き足す。老人の馬車の日数を、彼女は往路6日で見積もった。
「4日ではないのか」
「80のお歳です。1日に2度、休みを取っていただきます」
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物証は2組こしらえた。
同じ番号を振った同じ内容のものを2つ。1組は隊の者2人が街道を、もう1組はバルツの組合が荷に混ぜて別の道を行く。府に着いたほうが受取印を取り、もう1組はそのまま持ち帰る。
「両方着いたら」
「片方は開けずに持って帰らせる。着いたという事実だけが要る」
ガルフは隊から出す2人を自分で選んだ。名を読み上げてから、この人は一言足した。
「この2人は、字が読めません」
「なぜ選んだ」
「途中で開けても読めませんし、拷問されても喋る中身がありません」
「本人には言ったのか」
「言いました。2人とも、字を習うのは戻ってからにすると申しております」
俺は2組の綴りに封をした。封蝋の匂いが部屋に立つ。この匂いを嗅ぐたびに、あの法廷の隣室が戻ってくる。1年前に俺が写しを1枚もぎ取った部屋も、同じ蝋を焚いていた。
出立は夜明け前だ。テオが両方の荷に番号札を結び、結んだ番号を帳面に書いた。書いてから、少年は自分の書いた行をもう1度読み直していた。
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送り出して6日目に、宿場から包みが1つ届いた。
差出人の名がない。中身は教区什一台帳の抄本が1年分と、家財の引渡目録の写しが1綴り。地方の教会の書式で綴じ紐は新しい。
シュタイベル家だった。3年前の断罪で、当主は領内に蟄居している。
「手紙がございません」
「書けないんだろう。門の出入りが記録される家だ」
俺は目録の合計と、抄本にある没収額を並べた。
合わない。没収額のほうが多い。
俺はそこで手を止めた。1軒だけでは多いという以上のことは言えない。多い理由が向こうの水増しなのか、こちらの目録の抜けなのかを分ける材料がない。
「番号を振って綴じろ。期限には間に合わん。当日に持ち込む」
「持ち込めますか」
「規則を読む。読んで駄目なら、駄目と書いてあることを確かめてから諦める」
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府からの通知が戻ったのはそれから12日後だ。
『御前監査の開催を許す。連署の資格および物証の書式、いずれも適法と認む』
日取りの欄は別の行にあった。
『期日は財務院年度決算の締切日とする』
俺はその一行を長く見ていた。
日を決めたのは殿下ではない。院だ。年度末の締めの日に呼ぶということは、こちらを最も忙しい日に引きずり出すという意味であり、同時にその日までは何も動かさずに済むという意味でもある。
「1年だな」
俺の口から出たのはその一言だった。あの広間で膝をついてから、暦がひと回りする。
その晩、掲示板に通知の写しを貼った。読める者が読み、読めない者に読んで聞かせる。人の集まり方は去年の秋の決算の日より静かだったが散り方は遅かった。
グレゴールが最後まで残って、掲示の紙を指で押さえていた。
「領主様が王都へ行かれて、戻られなかった場合は、どうなりますんで」
「代官が回す。書いたものは全部ここに残る」
「戻ってくださるほうが、こちらは楽です」
「俺も楽だ」
ガルフは何も言わずに、村の者を先に帰らせた。
*
通知と同じ便に、短い紙がもう1枚入っていた。
差出人の署名はいつもの書き方だ。財務院監査部、ドミニク・アシェル。
『院の書庫番が2人、職を辞しました。1人は郷里へ帰り、1人は行方が知れません。書庫の鍵は現在3人が持っております』
俺はその行を読み返した。
鍵を持つ人間が2人減った。減ったぶんだけ、あの書庫の紙は誰にも見られずに動く。今このときも動いている。




