第23話「父の名を、あなたの口から」
丘を上りきったとき、坑の煙が2本立っていた。
出るとき1本だった。ヘルマンが2つ目の炉に火を入れたということだ。留守のあいだに勝手に進む仕事があるというのは、そう悪い眺めではない。
館に入る前に、俺は上着の内側を1度押さえた。紙が2つ。硬さの違うものが重なっている。
*
テオが門のところまで走ってきて、俺の荷を取る前に留守中の帳面を差し出した。
「不在のあいだの出入りです。人が3人、荷が2口。全部書いてございます」
「読む前に、口で言え」
「行商が1人。宿場の使いが1人。それと、旅の方が1人、徴税所の前に立っておられました」
「名は」
「名乗られませんでした。半日おられて、何も買わずに帰られました」
俺は帳面を受け取り、その行に自分で印をつけた。名乗らない旅人が徴税所の前に半日立っていて、それを書き留める従者がいる。片方は面倒事で片方は財産だ。
「よく書いた」
「書かないと、後で誰も思い出しません」
言い方が俺の口移しになっている。自分の癖が子どもの口から出てくるのは、褒められているようで少し落ち着かない。
帳簿室で、俺はまずエッシェンの件を報告した。
連署は取れていない。取れていないが什一の台帳の請求には署名をもらった。教区の書式なので、院の目を通らずに動く。届くのは早くて20日後だ。
「6年前の年の分だけですか」
「頼んだのはその年だ。前後の年も付いてくるだろう。教会は年で綴じる」
リーゼは日程表に線を1本足した。線の端に、届くはずの日を書き入れる。書き入れてから、こちらを見た。
「もう1つ、ございますね」
俺は油紙の包みを卓に出した。
「王都の次席が、宿場で待っていた。あんた宛てだ。俺は開けていない」
彼女は包みに手を伸ばさなかった。伸ばさないまま、しばらく卓の上のそれを見ていた。
「……お読みになっていないのですか」
「読んでいない。中身の見当はついている。向こうが口で言ったからだ」
「では、見当をお聞かせください」
「言わない」
*
彼女の眉が動いた。
「なぜです」
「俺の口から聞くと、あんたは俺の顔を見ながら考えることになる。顔は勘定に入れなくていい」
「入れます」
「入れるな、と言っている」
俺は椅子を引いて立ち上がった。
「明日から2日、坑に泊まる。ヘルマンの炉の記録を取る用がある。返事は俺に言わなくていい。院へ直に出せ。出したあとで、出したとだけ教えてくれればいい」
「お館様」
「これは俺の判断だ。あんたに投げているんじゃない。投げているように見えるとしたら、俺の書き方が下手だ」
彼女は包みに手を置いた。置いただけで開かなかった。
*
その晩、詰所へ寄るとガルフが待っていた。
俺が包みの話をすると、この人は卓に肘を突いて聞き終え、それから短く言った。
「渡すべきではありませんでした」
「なぜだ」
「あれは毒です。飲ませる必要はありません」
「毒かどうかを決めるのは、飲むほうだ」
「そこです」
ガルフは肘を上げた。
「あなたは、決める権利をよく人に配られる。配られたほうは、その重さを一人で持ちます。私は隊で20年、決める権利を渡さずにやってまいりました。渡さないほうが、部下は寝られます」
「寝られたか」
「寝ておりました。凍傷を出すまでは」
この人はそこで口を閉じ、麦湯を飲んだ。
「……渡すのが正しいのは、わかっております。正しいから腹が立つのです」
*
坑では2日、数を取った。
炉が2つになって、汲み出しの人手が足りない。1つ目の炉の記録と突き合わせると、水の量が読み違えられていた。ヘルマンが自分で気づいて、書き直してある。書き直しの脇に、日付と自分の名が入っていた。
「誰に習った」
「テオ坊です。番号を飛ばしたら理由を書けと、うるさく言われました」
俺は笑いそうになった。この土地では俺の作った書式が俺の知らないところで人から人へ移っている。
坑の中は外より暖かい。岩肌から染み出す水が塩気を含んでいて、掌をなめると舌の奥に苦みが残った。ヘルマンは炉の火を落とさずに一晩置く算段をしていて、薪の消えを1晩ぶん多く見積もっている。多めに見積もる癖のある男は、たいてい現場で数を痛い目にあわされた人間だ。
夜、坑の小屋で毛布にくるまりながら、俺は自分が何をしているかを考えた。
彼女が受けたら、こちらの物証は半分になる。父の帳簿の写しも、徴税所の綴りも消える。連署が揃っても中身が空になる。
考えて、それから考えるのをやめた。やめても眠くはならなかった。
*
戻ると、彼女は徴税所の卓で写しを綴じていた。
「出しました」
「そうか」
「昨日の便です。控えはこちらに」
差し出された紙は短い。俺は立ったまま読んだ。
『訂正の要否は記録が判断するものと存じます。訂正を対価として受け取ることはできません。父が正しかったのなら、父の書いた行が残っているはずで、残っているのなら、それを読めば済みます。読まずに認めていただく必要はございません』
その下に2行あった。
『申立は取り下げません。恩給は受け取りません』
俺は紙を返した。返す手が思ったより重かった。
「8年ぶんだぞ」
「はい」
「受け取っても、誰も責めない」
「責めます。私が」
*
彼女は次の紙に手を伸ばし、伸ばした手を途中で止めた。
指の先が震えている。震えを止めるために、彼女はその手を膝の上へ下ろした。下ろした先で握り込むのではなく、開いたまま置いた。
「1つ、申し上げてよろしいですか」
「どうぞ」
「あの申し出を読んでいたとき、私は、父の名が院報に載っている紙を思い浮かべておりました。文字の大きさまで思い浮かべました」
窓の外で、荷車の車輪が石を踏む音がした。彼女はそちらを見ずに続けた。
「母が生きておりましたら、受けておりました。母は、証拠ではなく、紙が欲しかった人でしたので」
「あんたは違うのか」
「違います。……違うと言い切るのに、2晩かかりました」
*
彼女は綴じ紐を通し、いつもの位置に番号を振った。振ってから、手を止めた。
「1つだけ、迷いました」
「アシェルのことか」
「はい」
彼女は別の紙をもう1枚出した。ドミニク宛ての控えだ。
『私が断りました。あなたの辞令については、私に決める権利がないことを承知のうえで断りました。お詫びは書きません。詫びを書くと、あなたが受け取らねばならなくなりますので』
「これも、もう出したのか」
「同じ便で」
「詫びないと書くほうが、詫びるより難しい」
「難しゅうございました。3度書き直しました」
彼女は書き損じの2枚を炉に入れず、卓の隅に伏せて置いていた。捨てない癖がついている。誰の癖かは聞くまでもない。
*
その日から、物証を書式に整える仕事に入った。
府へ出すのは開催の10日前まで。院の監査規則の様式に沿って番号を振り、綴じ、写しを添える。並べる順まで規則で決まっていた。
やってみると、こちらの持ち物の輪郭がはっきりする。
父の帳簿の写し。王国決算の付属明細。ドミニクの持ってきた11枚。焼け残った割符の綴り。六家の判決と没収計算書。
六家の計算書のところで、リーゼの手が止まった。
「これは、抄本でございます」
「抄本」
「明細の内訳が省かれております。項目の名と、小計と、合計だけ。中身の一行一行は、原本にしか書かれておりません。原本は財務院に」
俺は5組を並べ直した。確かに、俺の控えにある明細の縦列がこの束にはない。額の外枠だけが写されている。
数は読める。数の内側は読めない。
「原本を出せと言えば」
「言えます。院は、なしと答えます。府の照会にもうそう答えております」
「同じ答えを3度目に取ることはできる」
「できますが、3度目を出すと、こちらが額の内側を見たがっていることが向こうに伝わります」
ケラーと同じことをこの人も言った。役所で紙をやり取りしてきた人間は、みな同じ場所に線を引く。
俺は自分の控えを取り出し、束の隣に置いた。俺の1枚だけが明細を持っている。7人目の分だけが、抄本になる前の形で残っている。
並べても比べる相手がいなければ意味は出ない。1軒ぶんの内訳は、その1軒がいくら持っていたかを知っている紙と並べたときにしか喋らない。什一の台帳が届くのは20日後だ。
俺は控えを油紙に戻し、内ポケットへ入れた。
*
もう1つの壁のほうが厚かった。
規則の証拠の章を読んでいたリーゼが、指を1箇所で止めた。
「……採らない、と書いてございます」
「何を」
「筆跡です。私文書に現れた筆勢、字体、癖の類は、証拠として採らない。書いた者を特定する用には供しない」
俺はその条文を自分でも読んだ。読んで卓に肘をついた。
朱を入れた人間の癖は、俺の手元に2系統ある。8年前から去年までの没収計算書の訂正と、父の検算欄の上書き。癖は揃っている。揃っていて、規則の外にある。
「これが私文書なら、俺たちが持っているのは絵と同じだ」
「同じでございます」
彼女は条文の上に指を置いたまま動かなかった。
*
蝋燭の芯が長くなって、炎が煤を吐いた。
俺は芯を切り、卓の上を片づけ始めた。片づけながら、頭のほうは条文の続きを探している。採らないと書いてあるなら、採ると書いてあるものがどこかにあるはずだ。役所の規則は禁じるためではなく処理を早くするために書かれている。
「明日、規則を頭から読む。禁止の側ではなく、許可の側を」
「お手伝いいたします」
「今日はもう寝ろ。3度書き直した日は、頭が働かない」
彼女は頷いて、綴りを抱えた。抱えたまま、扉の手前で立ち止まった。
「お願いが1つございます」
「聞く」
「もし、あの場まで行けましたら」
彼女は綴りを持ち直した。声の高さは変わらない。
「父の名を読み上げるのは、私ではなく、あなたにしていただきたいのです。娘が言えば、娘の情になります。あなたが言えば、記録になります」
俺は答えなかった。答える前に、彼女がもう一言足した。
「父の名を、あなたの口から」




