第22話「取引という名の踏み絵」
街道を南へ4日下ると、雪が消えて土の色が変わった。
エッシェン家の屋敷は、村の外れの丘にある。門柱は残っているが門扉はない。外した跡の金具だけが石に食い込んでいた。庭だったはずの場所は畑になっていて、去年の豆の支柱がまだ立っている。
爵位だけが残るというのは、こういう形なのかと思った。名は残り、名で食えるものは何ひとつ残らない。
道中は4日きっかりだった。リーゼの組んだ日程表を懐に入れて出たが、開いたのは1度きりだ。宿の名と、出立の刻限と、余りの日の置き場所。書いてある通りに歩けば書いてある日に着く。書いた人間が余りを後ろに寄せておいたおかげで、俺は道の途中で1度も慌てずに済んだ。
出迎えたのは家令ではなく、木綿の前掛けをした娘だった。歳は15か16に見える。手に泥がついている。
「エッシェン子爵にお目にかかりたい」
「祖父は畑におります。呼んでまいります」
言うなり、この子は前掛けで手を拭って走っていった。走り方に躾がない。躾ける人間がいなかったのだろう。
*
ヨアヒム・エッシェン子爵は、鍬を杖のように使って戻ってきた。
背は高い。曲がった背でも俺の目の高さがある。顔の皺が深く、目のほうは白く濁りかけている。俺の書状の字が読めなかった理由がわかった。
「ヴェルンハルトか」
「そうです」
「若いな。7人目にしては若い」
老人は俺の名を確かめる前に順番を数えた。
炉のある部屋へ通された。卓と椅子が2つ。壁に紋章の掛かっていた跡が四角く残っていて、そこだけ煤がついていない。
「掛けてよい椅子は1つしかない。孫は立たせる」
「では、私も立ちます」
「客に立たれると話が長くなる。掛けろ」
*
俺は数字から始めた。
六家の断罪の日付。判決から国庫に納まるまでの日数。罪状の並び。告発者の名。全部が同じ型で並んでいることを、紙を出さずに順に言った。
老人は目を閉じて聞いていた。
「あんたは、わしが知らんことを言うために来たのか」
「いいえ」
「では、なぜ数える」
「知っていることを、同じ順で言える人間が2人いると、それは記録になります」
老人は目を開けた。
「うまいことを言うな。財務院の若いのも、そういう言い方をした」
*
俺は続けた。
「6年前、あなたの家の罪状は3つ並んでいたはずです。横領、公金の私的流用、領地経営の怠慢」
「その通りだ」
「1つも身に覚えがない、とはおっしゃらないでしょう」
老人は鼻から息を抜いた。笑ったのだと気づくのに少しかかった。
「怠慢はあった。息子が死んでから、5年は何も見ておらん。帳面も見ておらん。あれを怠慢と呼ばれれば、返す言葉はない」
「では、額は」
「額は知らん。知らんが、屋敷を売って人を売っても、あの額にはならんことくらいはわかる」
俺はその言葉を頭の端に置いた。
自分の家の値打ちを知らない人間が、自分の家の値打ちを書いた紙に署名させられている。6年前に署名した人間は、間違えたのではない。間違えようがなかった。
そこまで考えたところで、聞き流していた一言が遅れて形になった。財務院の若いのも、そういう言い方をした——した、と言った。済んだ話の言い方だ。
背中に冷たいものが走った。
「来ていましたか」
「3日前だ」
老人は炉に薪を1本くべた。火のはぜる音が部屋のほかの音を全部消す。
「6年前に取り上げられたもののうち、屋敷の中身だけを返すと言うておった。家具と、書物と、母の代の食器だ。値にすれば知れておる」
「条件は」
「連署せぬこと。書状が来ても、読まずに焼けと」
「返事は」
「しておらん。しておらんから、あんたが来られた」
*
俺は自分の呼吸を数えた。数えないと、次に何を言うかを間違える。
こちらが六通を出したのは冬のうちだ。院がその中身を知って人を先回りさせるには、書状の宛先が漏れるか駅逓が読まれるか、どちらかしかない。
どちらでも構わない。構わないが覚えておく必要がある。
「値をお上げになりますか」
老人が言った。皮肉ではなく、値踏みの声だった。
「上げません。私はあなたに返せるものを何も持っていません」
「では、なぜ来た」
「あなたの家に、6年前に何がいくらあったかを書いた紙が残っていないかを、伺いに来ました」
老人の眉が動いた。
*
「目録には署名した。あれが何に使われたかは、あとで知った」
「その目録の控えは」
「渡されておらん。署名だけさせて持っていった」
やはりそうか。俺は次の手を出した。
「教区の什一の台帳は」
老人が顔を上げた。白く濁った目が初めてこちらを正面から見た。
「……什一か」
「教会は毎年、家の身代に応じて取ります。取るには、いくらあるかを書いておかなければ取れない。院の書式ではなく、教会の書式で」
「あるだろうな。取られておったからな、毎年きっちり」
「6年前の年の分を、写しでいただけますか」
老人は答えず、炉の火を見ていた。間が長い。薪が崩れて灰が舞い、それが落ちきってから、ようやく返事が来た。
「あんたは、金を返せとは言わんのだな」
「言いません。返らないので」
「そうだ。返らん」
*
孫娘が湯を運んできた。
マグダ、と老人は呼んだ。娘は椅子の後ろに立ち、湯を注いでから動かなかった。話を聞かせないという発想が、この家にはないらしい。
「条件を言う」
老人は椀を持たずに言った。
「わしは署名する。空振れば、この家は次の年度末の列に並ぶ。並んだところで取られるものはもう何もない。あるのは、この子だけだ」
「縁談があると伺いました」
「1つだけあった。3日前に来た男が、話を整えると言うておった。断れば、消える」
俺が娘のほうを見ると娘も俺を見返した。目を伏せなかった。
「わしが署名した後に、この子の行き先を作れ。それが条件だ」
*
俺は少し考えて、正直に答えた。
「嫁ぎ先は作れません。私に伝手はなく、あっても私の名がついた縁談は、今どこでも歓迎されません」
老人の顔が固くなった。
「では、話にならん」
「作れるのは、仕事です」
「仕事」
「うちの徴税所で、書記の見習いを1人取ります。給金は書記の標準の半分から。字と数が要ります。冬は寒く、麦は不味い。嫁ぐより条件は悪い」
「侮辱か」
「勘定です」
娘のほうが先に口を開いた。
「わたし、数は数えられます」
「マグダ」
「畑の豆の莢も、卵も、祖父様の薬の日数も、わたしが数えております。数えないと、足りなくなりますので」
老人は口を閉じた。閉じてから、椀を持ち上げて一口飲んだ。
「……その、書記というのは、名を出すのか」
「出します。うちの帳面は、数えた者の名を書きます」
「では、この子の名が、王都の役所に残るな」
「残ります。残ったものは、消すのに手続きが要ります。手続きの要るものは、人が消しにくい」
*
その晩、俺は署名をもらわなかった。
老人が「考える」と言ったからだ。俺のほうも急がなかった。急いだ形で取った署名は、後で本人がどうしてあれをやったのか説明できなくなる。
翌朝、什一台帳の写しを教区へ請う書状に老人は署名した。連署のほうではない。
「先にこちらをやる。あんたの数が本当かどうか、わしも見たい」
「見てから決めていただければ」
「そうする。……ヴェルンハルト」
門の外まで送りに出て、この人は鍬に体重を預けた。
「わしは6年、自分が間抜けだったのだと思うておった。署名などせねばよかった、とな」
「違います」
「わかっておる。今わかった。それでも、6年ぶんは戻らん」
*
帰路の2日目、宿場で待っていた男がいる。
宿の主人が困った顔で言った。王都から来た方が、昼から一階の隅に座っておられます、と。
外套を脱いだその人は、歳が60を越えていた。髪が薄く、背が低く、手だけが妙に大きい。
「財務院次席、ヴァイスと申します」
俺はその名を知っている。1年前、大広間の壇の上で、計算書に誤りはないと答えた声だ。
「お座りください」
「立って話す用でもありません」
*
ヴァイス卿は油紙の包みを卓に置いた。
「これは、あなたへの申し出ではございません」
「では、誰への」
「グラウフェルト徴税所の書記、リーゼロッテ・ファルナー殿へ」
俺は包みに手を触れなかった。触れないまま、この人の顔を見ていた。
「中身を申し上げます。故財務官ファルナーについて、職務上の非違はなかったと院が認め、記録を訂正いたします。遺族には8年ぶんの恩給が遡って支払われます。訂正の告示は院報に載ります」
「引き換えは」
「父君の帳簿の写しと、徴税所の綴りの一切を院へお預けいただくこと。それと、府へ出された申立の取り下げ」
「もう1つあるでしょう」
ヴァイス卿は頷いた。
「監査部のドミニク・アシェルの辞令辞退を、なかったことにいたします。あれはわたしが推した男です」
*
火のはぜる音がして、宿の女が薪をくべに来た。この人はその女が出ていくまで一言も喋らなかった。
「なぜ、私に渡す」
「あなたが取り次いでくださるだけで結構です」
「渡さなければ」
「渡さなければ、書記の方はこの申し出を知らずに終わります。ご自分で決める機会もないままに」
「脅しが上手い」
「脅しではございません。手順です」
ヴァイス卿は卓の木目を指でなぞった。爪が短く、指の腹が硬い。長く紙を繰ってきた手だ。
「わたしは40年、院で書いてまいりました。書いたものが後で何に使われたかを、いちいち追ったことはございません。追わずに済む仕組みになっておりましたので」
「今も追っていないんですか」
「追いました。1度だけ」
この人はそれ以上を言わなかった。言わないと決めた顔で、包みのほうへ視線を戻した。
俺は包みを見た。
渡せば、彼女は8年の答えを手に入れる代わりに、父が正しかったことを証明する紙を全部手放す。渡さなければ、俺が彼女の代わりに決めたことになる。
どちらに転んでも、俺の手が1度は触れる。
「よくできている」
「わたしが考えたのではございません」
ヴァイス卿は立ち上がり、外套を取った。
「もう1つだけ。あの男が孤児院から出られたのは、わたしが数字を教えたからです。……教えなければよかったと、この歳で思うとは考えておりませんでした」
俺は油紙の包みを取り、上着の内ポケットへ入れた。
そこには先客が1つ入っている。1年前の紙と、今日の紙が胸の上で重なった。




