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追放された悪役伯爵は帳簿を正しくつけるだけ ~辺境を黒字にしていたら、俺を断罪した王国は粉飾で手遅れになっていた~  作者: 夜凪 蒼


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第22話「取引という名の踏み絵」

街道を南へ4日下ると、雪が消えて土の色が変わった。


エッシェン家の屋敷は、村の外れの丘にある。門柱は残っているが門扉はない。外した跡の金具だけが石に食い込んでいた。庭だったはずの場所は畑になっていて、去年の豆の支柱がまだ立っている。


爵位だけが残るというのは、こういう形なのかと思った。名は残り、名で食えるものは何ひとつ残らない。


道中は4日きっかりだった。リーゼの組んだ日程表を懐に入れて出たが、開いたのは1度きりだ。宿の名と、出立の刻限と、余りの日の置き場所。書いてある通りに歩けば書いてある日に着く。書いた人間が余りを後ろに寄せておいたおかげで、俺は道の途中で1度も慌てずに済んだ。


出迎えたのは家令ではなく、木綿の前掛けをした娘だった。歳は15か16に見える。手に泥がついている。


「エッシェン子爵にお目にかかりたい」


「祖父は畑におります。呼んでまいります」


言うなり、この子は前掛けで手を拭って走っていった。走り方に躾がない。躾ける人間がいなかったのだろう。



ヨアヒム・エッシェン子爵は、鍬を杖のように使って戻ってきた。


背は高い。曲がった背でも俺の目の高さがある。顔の皺が深く、目のほうは白く濁りかけている。俺の書状の字が読めなかった理由がわかった。


「ヴェルンハルトか」


「そうです」


「若いな。7人目にしては若い」


老人は俺の名を確かめる前に順番を数えた。


炉のある部屋へ通された。卓と椅子が2つ。壁に紋章の掛かっていた跡が四角く残っていて、そこだけ煤がついていない。


「掛けてよい椅子は1つしかない。孫は立たせる」


「では、私も立ちます」


「客に立たれると話が長くなる。掛けろ」



俺は数字から始めた。


六家の断罪の日付。判決から国庫に納まるまでの日数。罪状の並び。告発者の名。全部が同じ型で並んでいることを、紙を出さずに順に言った。


老人は目を閉じて聞いていた。


「あんたは、わしが知らんことを言うために来たのか」


「いいえ」


「では、なぜ数える」


「知っていることを、同じ順で言える人間が2人いると、それは記録になります」


老人は目を開けた。


「うまいことを言うな。財務院の若いのも、そういう言い方をした」



俺は続けた。


「6年前、あなたの家の罪状は3つ並んでいたはずです。横領、公金の私的流用、領地経営の怠慢」


「その通りだ」


「1つも身に覚えがない、とはおっしゃらないでしょう」


老人は鼻から息を抜いた。笑ったのだと気づくのに少しかかった。


「怠慢はあった。息子が死んでから、5年は何も見ておらん。帳面も見ておらん。あれを怠慢と呼ばれれば、返す言葉はない」


「では、額は」


「額は知らん。知らんが、屋敷を売って人を売っても、あの額にはならんことくらいはわかる」


俺はその言葉を頭の端に置いた。


自分の家の値打ちを知らない人間が、自分の家の値打ちを書いた紙に署名させられている。6年前に署名した人間は、間違えたのではない。間違えようがなかった。


そこまで考えたところで、聞き流していた一言が遅れて形になった。財務院の若いのも、そういう言い方をした——した、と言った。済んだ話の言い方だ。


背中に冷たいものが走った。


「来ていましたか」


「3日前だ」


老人は炉に薪を1本くべた。火のはぜる音が部屋のほかの音を全部消す。


「6年前に取り上げられたもののうち、屋敷の中身だけを返すと言うておった。家具と、書物と、母の代の食器だ。値にすれば知れておる」


「条件は」


「連署せぬこと。書状が来ても、読まずに焼けと」


「返事は」


「しておらん。しておらんから、あんたが来られた」



俺は自分の呼吸を数えた。数えないと、次に何を言うかを間違える。


こちらが六通を出したのは冬のうちだ。院がその中身を知って人を先回りさせるには、書状の宛先が漏れるか駅逓が読まれるか、どちらかしかない。


どちらでも構わない。構わないが覚えておく必要がある。


「値をお上げになりますか」


老人が言った。皮肉ではなく、値踏みの声だった。


「上げません。私はあなたに返せるものを何も持っていません」


「では、なぜ来た」


「あなたの家に、6年前に何がいくらあったかを書いた紙が残っていないかを、伺いに来ました」


老人の眉が動いた。



「目録には署名した。あれが何に使われたかは、あとで知った」


「その目録の控えは」


「渡されておらん。署名だけさせて持っていった」


やはりそうか。俺は次の手を出した。


「教区の什一の台帳は」


老人が顔を上げた。白く濁った目が初めてこちらを正面から見た。


「……什一か」


「教会は毎年、家の身代に応じて取ります。取るには、いくらあるかを書いておかなければ取れない。院の書式ではなく、教会の書式で」


「あるだろうな。取られておったからな、毎年きっちり」


「6年前の年の分を、写しでいただけますか」


老人は答えず、炉の火を見ていた。間が長い。薪が崩れて灰が舞い、それが落ちきってから、ようやく返事が来た。


「あんたは、金を返せとは言わんのだな」


「言いません。返らないので」


「そうだ。返らん」



孫娘が湯を運んできた。


マグダ、と老人は呼んだ。娘は椅子の後ろに立ち、湯を注いでから動かなかった。話を聞かせないという発想が、この家にはないらしい。


「条件を言う」


老人は椀を持たずに言った。


「わしは署名する。空振れば、この家は次の年度末の列に並ぶ。並んだところで取られるものはもう何もない。あるのは、この子だけだ」


「縁談があると伺いました」


「1つだけあった。3日前に来た男が、話を整えると言うておった。断れば、消える」


俺が娘のほうを見ると娘も俺を見返した。目を伏せなかった。


「わしが署名した後に、この子の行き先を作れ。それが条件だ」



俺は少し考えて、正直に答えた。


「嫁ぎ先は作れません。私に伝手はなく、あっても私の名がついた縁談は、今どこでも歓迎されません」


老人の顔が固くなった。


「では、話にならん」


「作れるのは、仕事です」


「仕事」


「うちの徴税所で、書記の見習いを1人取ります。給金は書記の標準の半分から。字と数が要ります。冬は寒く、麦は不味い。嫁ぐより条件は悪い」


「侮辱か」


「勘定です」


娘のほうが先に口を開いた。


「わたし、数は数えられます」


「マグダ」


「畑の豆の莢も、卵も、祖父様の薬の日数も、わたしが数えております。数えないと、足りなくなりますので」


老人は口を閉じた。閉じてから、椀を持ち上げて一口飲んだ。


「……その、書記というのは、名を出すのか」


「出します。うちの帳面は、数えた者の名を書きます」


「では、この子の名が、王都の役所に残るな」


「残ります。残ったものは、消すのに手続きが要ります。手続きの要るものは、人が消しにくい」



その晩、俺は署名をもらわなかった。


老人が「考える」と言ったからだ。俺のほうも急がなかった。急いだ形で取った署名は、後で本人がどうしてあれをやったのか説明できなくなる。


翌朝、什一台帳の写しを教区へ請う書状に老人は署名した。連署のほうではない。


「先にこちらをやる。あんたの数が本当かどうか、わしも見たい」


「見てから決めていただければ」


「そうする。……ヴェルンハルト」


門の外まで送りに出て、この人は鍬に体重を預けた。


「わしは6年、自分が間抜けだったのだと思うておった。署名などせねばよかった、とな」


「違います」


「わかっておる。今わかった。それでも、6年ぶんは戻らん」



帰路の2日目、宿場で待っていた男がいる。


宿の主人が困った顔で言った。王都から来た方が、昼から一階の隅に座っておられます、と。


外套を脱いだその人は、歳が60を越えていた。髪が薄く、背が低く、手だけが妙に大きい。


「財務院次席、ヴァイスと申します」


俺はその名を知っている。1年前、大広間の壇の上で、計算書に誤りはないと答えた声だ。


「お座りください」


「立って話す用でもありません」



ヴァイス卿は油紙の包みを卓に置いた。


「これは、あなたへの申し出ではございません」


「では、誰への」


「グラウフェルト徴税所の書記、リーゼロッテ・ファルナー殿へ」


俺は包みに手を触れなかった。触れないまま、この人の顔を見ていた。


「中身を申し上げます。故財務官ファルナーについて、職務上の非違はなかったと院が認め、記録を訂正いたします。遺族には8年ぶんの恩給が遡って支払われます。訂正の告示は院報に載ります」


「引き換えは」


「父君の帳簿の写しと、徴税所の綴りの一切を院へお預けいただくこと。それと、府へ出された申立の取り下げ」


「もう1つあるでしょう」


ヴァイス卿は頷いた。


「監査部のドミニク・アシェルの辞令辞退を、なかったことにいたします。あれはわたしが推した男です」



火のはぜる音がして、宿の女が薪をくべに来た。この人はその女が出ていくまで一言も喋らなかった。


「なぜ、私に渡す」


「あなたが取り次いでくださるだけで結構です」


「渡さなければ」


「渡さなければ、書記の方はこの申し出を知らずに終わります。ご自分で決める機会もないままに」


「脅しが上手い」


「脅しではございません。手順です」


ヴァイス卿は卓の木目を指でなぞった。爪が短く、指の腹が硬い。長く紙を繰ってきた手だ。


「わたしは40年、院で書いてまいりました。書いたものが後で何に使われたかを、いちいち追ったことはございません。追わずに済む仕組みになっておりましたので」


「今も追っていないんですか」


「追いました。1度だけ」


この人はそれ以上を言わなかった。言わないと決めた顔で、包みのほうへ視線を戻した。


俺は包みを見た。


渡せば、彼女は8年の答えを手に入れる代わりに、父が正しかったことを証明する紙を全部手放す。渡さなければ、俺が彼女の代わりに決めたことになる。


どちらに転んでも、俺の手が1度は触れる。


「よくできている」


「わたしが考えたのではございません」


ヴァイス卿は立ち上がり、外套を取った。


「もう1つだけ。あの男が孤児院から出られたのは、わたしが数字を教えたからです。……教えなければよかったと、この歳で思うとは考えておりませんでした」


俺は油紙の包みを取り、上着の内ポケットへ入れた。


そこには先客が1つ入っている。1年前の紙と、今日の紙が胸の上で重なった。

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