第21話「殿下は勘定がお好き」
エッシェンの返事から4日後、丘の下に旅の男が1人立った。
供はなく、馬は借り馬で、外套は上等だが泥がはねている。門の者が来意を尋ねると、名乗る前に「取り次ぎを頼む前に、確かめていただきたいものがある」と言ったという。
俺は帳簿室で会うことにした。応接に使える部屋がないという事情もある。
男は卓の上に小さな革入れを置き、中身を自分で並べた。銅の印章がひとつ。折り畳んだ紙が1枚。それに、駅逓の乗り継ぎ札が3枚。
「ケラーと申します。王太子府の書記官です」
「証明になるものは」
「印章は偽物が作れます。乗り継ぎ札のほうをご覧ください。3枚とも別の宿駅の印で、日付が続いております。私が本当にこの道を通ってきたことだけは、これで出ます」
俺はその3枚を日付順に並べ替えた。王都から北へ、間の空きは1日ずつ。歩いてきた足跡と同じだ。
「感心した。誰に教わった」
「殿下に教わりました。人の身分は疑えるが、宿場の帳面は疑いにくい、と」
俺は札を返した。返しながら、3枚目の宿駅の名を頭に入れておく。後で駅逓の綴りと突き合わせれば、この日にその宿を通った旅人の数が出る。合わなければ、名乗りのほうが嘘になる。
テオが麦湯を運んできて、卓の端に置いた。少年は客の顔を見ずに、革入れの中身の数を数えていた。印章がひとつ、紙が1枚、札が3枚。誰に教えたわけでもないのに、この子は物が卓に出た瞬間に数を取る癖がついている。
「お館様、お客様の外套をお預かりしますか」
「本人に聞け」
「濡れておりますので、乾かしたほうがよろしいかと」
ケラーは少し驚いた顔をして、外套を脱いだ。
*
麦湯を出すと、ケラーは椀を持ったまま用件に入った。
「先月、府の受付にファルナーという姓の申立が届きました」
俺は表情を動かさないよう気をつけた。気をつけたところで、こういうものは相手のほうがよく見ている。
「番号を振っただけで、中身を読む役所ではないと聞いたが」
「振ってから読みます。読む順が後なだけです」
ケラーは折り畳んだ紙を開いた。写しだ。リーゼの書いた申立の、府の書式で写し直されたもの。
「加筆のある没収計算書の件で、原本の照会を財務院へ出しました。府から院への照会ですので、断られる筋合いはございません」
「返事は」
「該当記録なし、と」
俺は椀を置いた。
「ないと言われた紙が、ここにある」
「そちらにあるのは写しでしょう。写しは、ないと言われた紙の存在を証明しません」
「では、なぜ来た」
「府の照会に対して院が『なし』と答えた事実は、府の記録に残ります。私が気になったのは、そこです」
「なしと答えるのは、面倒だからということもある」
「ございます。ですので、同じ照会を別の書式でもう1度出しました。1度目は記録の閲覧を求め、2度目は記録の有無だけを尋ねました」
「答えは」
「2度目も、なし、と。有無を尋ねた照会に、有無で答えております。書き損じではございません」
俺はその手順を頭の中でもう1度なぞった。
断られることを見込んで、断られ方のほうを集めている。1度目で諦めれば紙は1枚しか残らない。2度出せば、同じ答えが2枚になる。2枚あるものは後から気が変わったと言えなくなる。
「そちらの役所は、ずいぶん粘るんだな」
「粘りません。3度目は出しておりません。3度目を出すと、こちらが何を探しているかが向こうに読めます」
*
この人は言葉を選ばずに喋る。急いでいるからではなく、選ぶ習慣がないという喋り方だった。
「殿下は、数字を疑っておられます」
「なぜ」
「府の年費です。王太子の家政にかかる費用は、院が算定して院が渡します。3年前から額が下がっております。理由を尋ねると、王国全体の緊縮によると返ってまいります」
「額の根拠は」
「出てまいりません。3年、出てまいりません」
俺は思わず口の端を上げそうになって、こらえた。
同じ紙を受け取っている人間がこの国にもう1人いる。相手が王太子でも、返ってくる文面は変わらないらしい。
「殿下は倹約が嫌いなのではございません。根拠のない額が嫌いなのです。ご自身で足し算をなさいます。合わないと、卓を指で叩かれます」
「それは、味方になるという話か」
「なりません」
ケラーは即答した。
「殿下は合わない数がお嫌いなだけで、あなたをお好きなわけではございません。数が合っていれば、あなたが誰であろうと同じことをなさいます」
*
そこから、ケラーは御前監査の話を始めた。
紙を出さずに喋る。覚えているものを読み上げているのではなく、何度も人に説明してきた者の順序だった。
「開催を求められるのは、爵位を持つ貴族です。求める者のほかに、連署する貴族が2名——」
「そこは聞いている。冬のあいだに、うちの書記が拾ってきた」
「では、その先を」
ケラーは折りかけた指を戻した。話す順を組み替えるのに、瞬きひとつぶんもかからない。
連署だけでは足りず、物証を添える。物証は開催の10日前までに府へ届き、書式に沿って番号を振られていなければならない。期限を1日でも越えれば、綴りは開かれずに返される。
「書式は」
「財務院の監査規則の様式です。府の様式ではございません」
「相手の書式で出すのか」
「御前監査は院の規則で進みます。開催だけが殿下の権限で、中身は院の土俵です」
俺はそれを聞いて、少しのあいだ黙った。
土俵が違えば勝てない。冬の前にそう学んだばかりだ。今度は違う。向こうの土俵に上がるのは、こちらが数字しか持っていないからではない。向こうが数字から逃げられないようにするためだ。
「もう1つ、お伝えしておくことがございます」
ケラーは椀を卓に戻した。
「一度開いて空振りに終われば、同じ件で二度は開きません。院の規則にそう書いてございます。書いたのは、財務卿です」
俺は指の関節で卓を1度叩いた。
一発勝負の仕組みを、自分で書いて自分の周りに置いている。よくできた設計だ。挑む側は必ず全部を賭けることになり、生半可な材料では誰も手を出せなくなる。8年のあいだ誰も開かなかったのは、開こうとした者がいなかったからではないだろう。
「開催を求めて、途中で取り下げることは」
「できません。連署を出した時点で、名前は院に回ります」
「つまり、連署した2人も同じ賭けに乗る」
「乗ります。空振りに終われば、その2家は次の年度末の候補に並びます」
エッシェンの返事の最後の一行が頭に浮かんだ。来ても署名するとは限らん。あれは老人の意地ではなく、値段のわかっている人間の書き方だったことになる。
*
そして、最後に面倒な話が残っていた。
「あなたは王都への帰還を禁じられております」
「判決に書いてある」
「開催が決まれば、殿下の名で召喚状が出ます。召喚された者は禁を解かれます。ですが、出るのは決まってからです」
「決まる前に王都へ近づいたら」
「捕まります。それだけで、判決の履行違反になります」
つまり、証拠を集める段階のあいだ、俺は王都に一歩も入れない。物証は使いを立てて送るしかなく、送った先で何が起きているかはこちらから見えない。
「使いを1人にしないことです」
ケラーはそう言い足した。
「府に届く前に消える書状を、私は3度見ております」
*
夕方、俺は徴税所へ寄って、リーゼに全部を伝えた。
彼女は申立の写しを受け取り、府の書式で写し直された自分の文面を目で追った。行の割り方が変わり、番号が振られ、余白の位置が動いている。
「私の字が、王都の書式になっております」
「読まれたということだ」
「はい」
彼女は紙を卓に置いた。置いてから、指を紙の上に残した。府の紙は薄い。館で使っているものより目が詰んでいて、指の腹に厚みが返ってこない。
「父が8年、返事をもらえなかった役所です。……返事ではありませんが、番号が振ってあります」
その番号は押し型で入っている。彼女は上から一度なぞった。なぞれば字ではなく凹みが返ってくる。8年のあいだ一度も返ってこなかったものが、指の腹に当たっている。
俺は何も言わなかった。この人が今どんな顔をしているかは、見なくてもわかる程度に一緒に働いている。
「連署は、あと1つでよろしいのですね」
「エッシェンだ。会いに行く」
「日取りを組みます。往復と、向こうでの日数と、物証を府へ出す期限から逆に引きます」
「そうしてくれ」
「戻りが遅れれば、間に合いません。ですので、遅れない日程は組みません。遅れても間に合う日程を組みます」
彼女は炭で線を引き、日を刻んでいった。往路に4日、向こうで3日、復路に4日。物証を府へ送り出す期限から数えて、余りが6日。その6日を、彼女は日程の真ん中ではなく端に寄せて置いた。
「余りを後ろに置くのか」
「前に置くと、使ってしまいます。人は、余っていると思うと使います」
「王都で誰かに教わったのか」
「父の手帳です。旅程の欄がいつもこの引き方でした。……父は、その余りを1度も使わずに東へ移されました」
言い終えると、彼女は炭を置いて手を布で拭った。指の腹の黒は落ちない。落ちないのを知っていて、それでも毎回拭く。
*
ケラーは翌朝に発った。
見送りに出ると、この人は借り馬の腹帯を自分で締めていた。革の傷み方から見て、宿場で借りた古い馬具だ。
「府の費えで来たのではないな」
「私費でございます。府の帳面に載せると、誰がどこへ行ったかが院に読めますので」
「戻せる金か」
「戻りません。当たれば殿下がお得をなさり、外れれば私が消えます。書記官の旅とは、だいたいそういうものです」
言い方に恨みはなかった。損得を並べて、それでも来たという顔でもない。この人にとっては、そこまで含めて仕事の輪郭なのだろう。
馬に乗ってから、ケラーは一度だけ振り返った。
「殿下は、あなたを罪人だと思っておられます。念のため申し上げておきます」
「そうだろうな」
「罪人の出した数が合っていた場合に、殿下がどうなさるかは、私にも読めません」
*
その晩、ガルフが帳簿室に来た。
俺が王都の話をすると、ガルフは当番表を卓に広げて、隊から誰を残すかの算段を始めた。反対はしない。反対はしないまま、指で名前を追っていく。
「私も参ります。隊は副の者に預けます」
「領を空けるのは、あんたのほうが痛い」
「痛みます。ですが、あなたが王都で数を並べるとき、隣に村の人間が立っていないのは、私が我慢なりません」
俺は頷いた。頷いてから、当番表の空いた欄を見た。名前を1つ抜くと、そこに誰かの冬が入る。
「副に預けると、あの男は無理をします」
ガルフは名簿の下のほうを指で押さえた。
「私が居ないあいだ、坑の見回りを削ります。削ると事故が出ます。出たときに判を押す人間が、ここにも王都にもおりません」
「では、判の要らない形にしろ。あんたが行く前に、誰が何をどこまで決めていいかを書いて、掲示に出す」
「書けば済むと思っておられる」
「済まない。だが、書いていないと、済まなかったときに誰の落ち度かがわからん」
ガルフは短く息を吐いた。呆れたのでも同意したのでもない、その中間の音だった。
「あなたは、いつでもそれをおっしゃる」
「他に持っていないからだ」
ガルフは表を巻き終え、扉のところで足を止めた。
「1つだけ、伺っておきます」
「聞く」
「その紙で、村の冬が温かくなりますか」




