第19話「敵陣の正直者」
深冬の街道を、供も連れずに上ってくる馬鹿がいる。
門の見張りに立っていた隊の者が丘を駆け下りてきたのは、雪の止んだ翌朝だった。
「馬が1頭、坂の途中で潰れております。乗っていた男が、そのまま歩いて上ってくると」
俺は外套を掴んで外へ出た。ガルフが槍を持って並んだ。
坂の下から上がってくる影は、外套の裾を引きずっていた。膝から下が雪で白い。顔を上げたその男の頬は、旅の日数のぶんだけ削れていた。
ドミニク・アシェルだった。
*
館に入れるかどうかで、ガルフが真正面から止めた。
「あれは王都の犬です。1度目は粗探し、2度目は取り立てに来ております」
「そうだな」
「3度目に何を持ってきたか、外で聞けばよろしい」
「外で立たせておくと、倒れるぞ」
「倒れさせておけばよろしい」
俺はガルフの言い分を退けなかった。退けずに条件をつけた。
「帳簿室には入れない。食堂で聞く。あんたも同席してくれ」
ガルフは槍を壁に立てかけた。立てかける音がふだんより硬かった。
*
ドミニクは椀を両手で受け取り、麦湯を半分飲んでから口を開いた。
「無許可で参りました」
いきなりそこからだった。
「監査官が処分を受けた領主と私的に接触するのは、監査規律に触れます。院に知られれば、まず職を解かれます」
「知られる前提で来たのか」
「馬が坂で潰れました。あれは駅逓の馬です。帳簿に載ります」
懐から油紙の包みが出てきて、卓の上を滑ってきた。俺のものより厚い。
開くと、写しが11枚あった。
*
1枚目を見て、俺は動きを止めた。
王国決算の付属明細だ。リーゼの父が写した様式と、行の割り方まで同じものだった。年だけが違う。去年と、今年の途中までのものがある。
そして、写しの端に署名がある。
『財務院監査部 ドミニク・アシェル 写取』
日付と、写した場所まで書き込まれていた。
「なぜ、名前を入れた」
「署名のない写しは証拠になりません。誰が取ったかわからない紙は、誰にでも作れます」
ドミニクは椀を置いた。
「それに、名前を入れておかないと、後で他人が疑われます。院の書庫に入れる人間は12人おりますので」
俺は写しの束を卓に並べた。
この男は自分の首をこの11枚に結びつけて持ってきている。院がこの紙を見れば、写した者は一目でわかる。言い逃れの余地を、自分の手で潰してから来ている。
*
「なぜ、そこまでする」
「わたしの名前が使われました」
平坦な声だった。
「秋の未納金請求です。あなたは3日で216クローネぶんを崩された。あの明細は、わたしが作ったものではありません」
「署名はあんたのだった」
「署名だけです。中身は、院の別の部屋で作られて、監査部へ回ってきました。監査官の署名を付けると、実地調査に基づく請求として通りやすくなります」
俺は自分の指が卓の上で1度動いたのを感じた。
「あんたは、それを知らずに署名したのか」
「知らずに署名しました。それが、わたしの落ち度です」
ドミニクは自分の手元を見ていた。爪はあの夏と同じようにきれいに切り揃えられている。
「戻ってから、あの明細の出所を辿りました。辿るなという指示は出ておりませんでしたので、規律には触れません。ひと月かかりました」
「出所は」
「財務卿の執務室です」
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11枚のうち、6枚目を彼は指で示した。
歳出の部だ。晩秋に父の明細で見た項が、去年にも今年にも並んでいる。
『西方街道普請費 金貨8万4000クローネ』
額が1グロッシュも違わない。
普請の額はその年の天気で動く。資材の値で動き、動員した人の数で動く。橋がひとつ流されれば跳ね上がり、雨の少ない年は下がる。何年も同じ額で並ぶ工事など存在しない。
「わたしは去年、西方街道の視察を命じられました」
「行ったのか」
「行きました。5日かけて全区間を見ております。普請の跡はありません。橋は8年前のままで、路面は敷き直されておりません」
「報告書は」
「書きました。院の記録に、その報告書は残っておりません」
指が7枚目に移る。
「これは、支払先の内訳です。8万4000は、王国財務院の特別出納へ支払われています」
「院が、院に払っている」
「そうです。外へ出ていません」
俺は写しを引き寄せた。
金が院の外へ出ていないのなら、その金は誰かの懐にも入っていない。使途を隠すためだけに、この項は毎年立てられている。
隠すのは書けない支払があるからだ。
*
「あんたの見立てを聞かせてくれ」
「見立ては申し上げません」
即答だった。
「わたしが持ってきたのは写しです。写しに書いてある以上のことを、わたしの口で足すと、その分だけこの紙が弱くなります」
「では、数だけ言ってくれ。王国の帳簿は、どれくらい傾いている」
ドミニクは初めてそこで間を置いた。
「明細から立てられる分だけで、歳入の3年ぶんに近い額が、どこにも計上されていない支払として動いております」
3年ぶん。
俺は口の中でその言葉を転がした。この領で言えば、丸3年、麦を1粒も食わずに全部差し出しても届かない額だ。
「破綻しているな」
「はい。……ですから、わたしは辞令を辞退しました」
*
「辞令」
「次席監査官です。財務卿の直下に入ります。この春からの任でした」
ガルフが壁際で身じろぎしたのが視界の端に映った。
「断ると、どうなる」
「監査部には残れません。地方の出納官として飛ばされるのが通例です。それと、縁談がひとつ流れます。推挙してくださった方の姪でしたので」
言い方に、恨みも自嘲もなかった。項目を読み上げるのと同じ調子で、自分の勘定を並べている。
「その推挙した人間は」
「財務院次席のヴァイス卿です。あなたの断罪の場で、計算書に誤りはないとお答えになった方です」
俺はその名を覚えていた。壇の上でこちらを見なかった男の脇に控えていた声だ。
「恩がある相手か」
「あります。孤児院から院の写字生に上げてくださったのは、あの方です」
だから、この男は自分の経歴を全部この卓に置いてきたことになる。
*
「もうひとつ、申し上げておくことがあります」
ドミニクが11枚目を裏返した。
「先月、院に照会が1通届いております。差出人は、ファルナーという姓の方でした」
食堂の空気が止まった。
「処理は止まっております」
「誰が止めた」
「わたしです」
ドミニクは俺の顔を見た。
「監査部を経由する照会は、緊急でないものを月ごとにまとめます。まとめる順は監査官の裁量です。……年度末までは、まとめずに置けます」
「年度末を過ぎたら」
「回ります。わたしが辞令を断った時点で、その裁量も消えます」
俺は椅子の背に体を預けた。息を吐くと、思ったより長く出た。
この男は自分の首と引き換えに、この領の書記を1人ぶん冬のあいだ隠している。
「礼を言うべきなんだろうな」
「不要です。わたしは書記の方を守ったのではありません。あの照会が回れば、あなたが動くよりも先に院が動きます。それでは順番が悪い」
「先に動かれると困る、ということか」
「そうです。証拠がそろう前に相手を動かすのは、監査の下手なやり方です」
*
俺は立ち上がり、帳簿室から紙を1枚持ってきた。
法官庁からの返答だ。所在不明とされた6件目の記録。
「これを埋めたい。名前がわかるか」
ドミニクは日付と繰入の額を見て、すぐに答えた。
「ラウテンベルク家です。5年前。当主が病没した後に、遺族が没収を受けております」
「なぜ知っている」
「わたしの最初の実地監査が、その家でした」
そこで、声がわずかに落ちた。
「あのときは、書式の不備を7点報告しました。誇らしく思っておりました」
俺は紙にラウテンベルクの名を書いた。
これで六家がそろう。書状を出せるのは冬のうちだ。街道が閉まる前に発たせれば、返事は早春に戻ってくる。
リーゼにはその日の夕方に全部話した。
徴税所の卓に彼女を座らせて、ドミニクが持ってきた11枚と、照会が止められていることを順に伝えた。
聞き終えると、彼女は両手を膝の上でそろえた。
「では、私の名は院にあるのですね」
「ある。回っていないだけだ」
「年度末に回ります」
「回る」
彼女は窓のほうを見た。徴税所の壁は日を吸わない。日の落ちかけた光が、床の同じ場所を細く切り取っている。
「あの方は、私を守ったのではないとおっしゃったのですね」
「順番が悪いと言っていた」
「……ええ。父も、そういう言い方をする人と何人か仕事をしておりました」
そこで彼女は少し笑った。この冬に俺が見た、最初の笑い方だった。
「感謝しないでおきます。感謝すると、あの方が困りますので」
「そうしてくれ」
「ひとつだけ、申し上げます」
彼女は立ち上がり、棚から父の束を出して卓に置いた。
「年度末までに私の名が回るのなら。回る前に、こちらから出しておきたいものがございます」
*
その晩から、俺は6通を書き始めた。
文面は6通とも変えた。当主が生きている家、遺族だけが残った家、爵位を保って地方にいる家。同じ文面を送れば、写しを回されたときに束ねて潰される。
書きながら、俺は自分が何を頼んでいるのかを考えた。
御前監査には貴族2名以上の連署が要る。連署するということは、去年から8年前までのあいだに自分の家を潰した相手に、もう一度名前を差し出すということだ。断られるのが当然の頼みごとだった。
6通目を書き終えたのは夜明け前だ。封蝋を溶かす匂いが、あの法廷の隣室の匂いと同じだった。
*
翌朝、ドミニクは丘を下りていった。
馬はない。宿場まで歩き、そこから南へ乗り継ぐという。俺は坂の途中まで見送った。雪の上に、足跡だけがまっすぐ続いていく。
「ひとつ聞かせてくれ」
「どうぞ」
「あんたは、これで何を得る」
ドミニクは足を止めた。答えるまでの間が、夏に別れたときと同じ長さだった。
「得るものはありません。ただ、わたしの署名の入った紙が、この先も他人の道具に使われるのは我慢がなりません」
「それだけか」
「充分です。人が仕事を辞める理由としては」
この男は歩き出し、5歩ほど行ってから振り返った。
「最後に。王都では、あなたの領のことを『次の年度末までに片づける』と申しております」
風が坂を吹き上げて、雪の粒が顔に当たった。
「年度末までに、と申しております。あとふた月ほどです」




