第17話「閉じた表紙の重さ」
埋葬は宿場の外れの丘で行われた。
冬の土は掘れない。石を積んで冬を越し、雪が解けてから埋めるのがこの街道のやり方だと聞いた。組合の男たちが石を運び、俺も運んだ。手袋の内側が濡れて、指が動かなくなるまで運んだ。
ヨストの母親は最後まで泣かなかった。妹のほうが声を上げて、母親がその肩を押さえていた。
領から出た者は俺とガルフと隊から2人。バルツは石の前に立って、動かなかった。
石を積み終えたあと、俺はバルツに近づいた。近づいて、何を言うかを決めていないことに気づいた。
「店の建て直しは」
「春です。組合の各軒が少しずつ出します」
「うちも出す」
「うちの帳面には、あんたからの受取は書けません」
「なぜだ」
「領主からの見舞いを受け取ったと書けば、うちの組合が北の領と組んでいると読まれます。今それを書けるほど、こちらは太くありません」
正しい。商人として正しく、こちらには返す言葉がない。
「では、荷の代金を先に払う。冬に入る予定だった分を、前払いにする」
バルツは俺の顔を見た。長く見てから、短く頷いた。
「……それなら、書けます」
言い方に温度はなかった。それでもこの男が受け取れる形を俺のほうから探したことは伝わったらしい。
帰り道で、ガルフが一度だけ口を開いた。
「あの若いのが運んだ麦を、うちの村の子が食っております」
「食っている」
「それだけです」
*
館に戻ったのは雪の切れた午後だった。
帳簿室は俺が出たときのままだった。卓の上に割符の綴りと割り当ての表。その脇に、書きかけの数え書きが伏せてある。テオが毎日埃を払っていたらしく、紙の上だけが薄く光っていた。
俺は椅子に座り、帳面を開いた。
被害の記録の頁だ。春の予算会議の後に自分で作った欄がある。日付。品目。数量。損害の原因。そして、失われたものの持ち主の名。
まず数を書いた。
焼失、建物1棟。荷、麦にして40袋相当。獣脂の樽が6つ。組合の帳場の備品一式。損害の見積もり、金貨で212クローネと少し。
そこまでは指が動いた。
名前の欄で止まった。
ヨスト、と書けばいい。指を4文字ぶん動かす話だ。羽根ペンの先はインクを含んでいて、紙の目も乾いている。この体は文字を書くことを覚えていて、20年ぶんのほうの体はもっと覚えている。
書けなかった。
書くと、この欄の意味が決まってしまう。損害の原因の欄に、俺は何と書けばいい。放火。誰の。理由は。
理由の欄まで進めば、そこには俺の名前が入る。
*
俺はペンを置いた。
置いてから、しばらくその頁を見ていた。インクの匂いが濃い。獣脂の蝋燭は煤を吐き、部屋の空気はいつもと変わらず乾いている。何ひとつ変わっていない部屋で、俺だけが手を動かせずにいた。
砂を振って、乾かして、閉じた。
表紙が重い。
革張りではない、いちばん粗末な装丁の一冊だ。指で持ち上げれば軽いはずのものが、閉じるときだけ手首に来た。
俺はその重さを、翌日から3日、味わい続けることになる。
*
翌朝、俺は帳簿室に入らなかった。
代わりに薪を割った。館の裏手で、マルタが集めておいた生木を斧で割る。冬の終わりの薪は湿っていて、素直に割れない。節に当たると刃が食い込んで抜けなくなり、そのたびに体で押し戻す。
腕が痺れる。肩が焼ける。息が白く出て、汗が背中で冷える。
悪くない。何も数えなくていい。
昼過ぎにテオが呼びに来た。徴税所から割符の突合の照会が来ているという。
「リーゼに任せろ」
「リーゼさんが、お館様の判が要ると」
「判だけ押す。読まない」
少年は何か言いかけて、やめて、判をもらって戻っていった。
*
その日の夕方、テオが薪割りの場に立っていた。
手ぶらで、用件があるふうでもない。俺が斧を下ろすまで、雪を踏んだまま待っている。
「なんだ」
「あの……お館様は、もう数えないのですか」
「今は数えない」
「では、割符の番号は、わたしが振っておいてよろしいでしょうか」
「振れ。今までもお前が振っていた」
「はい。ですが、今までは、後でお館様が見ておられました」
俺は斧の柄を握り直した。返事の代わりに、次の一本を割り台に置いた。
少年は動かない。
「わたしは、間違えます。番号を飛ばしますし、日付も間違えます。誰かが見ていないと、そのまま残ります」
「リーゼに見せろ」
「リーゼさんは、徴税所の分で手一杯です」
言い返す材料はあった。並べれば3つは出る。並べてもこの子が言っているのはそこではないこともわかっていた。
俺は薪を割った。テオはそれ以上言わずに、割れた薪を拾って積み始めた。積み方が丁寧で崩れない。
*
3日目に坑を見に行った。
雪の下の坑口は石積みが霜で白く縁取られている。手を触れると、貼りつくほど冷たい。ヘルマンの組んだ石は1つも動いていなかった。
春に水を汲む。それから塩が出る。出れば、村は冬の塩を買わずに済む。買わずに済めば金が残り、金が残れば債務が減る。
そこまで考えて、俺は自分の頭が勝手に勘定を始めていることに気づいた。
やめろ、と思った。
その勘定の先に、麦を運ぶ人間が要る。運ぶ人間は峠を越え、峠の向こうには関があり、関の帳面には名前が載る。
俺は坑口に背を向けて、丘を下りた。
*
ガルフが帳簿室に来たのはその晩だった。
この男は扉を開けたまま、入口に立っていた。手には巻いた紙がある。運搬の当番表だ。
「判をいただきに参りました」
「置いていけ」
「置いていくと、あなたは見ずに押される」
「見ずに押しても中身は変わらない」
「変わります。書いた者が、見られていないことを知ります」
俺は顔を上げた。ガルフは入口から動かない。この人がこういう立ち方をするときは話が長いときだ。
「座って話せ」
「立ったままで結構」
*
「私は、部下を4人凍傷にした年に、名前を書きませんでした」
いきなりそこから始まった。
「書けば、自分がやったことになる。書かなければ、冬のせいになります。冬のせいにして、私はその年を越えました」
「あんたは名前を覚えていた。春に4つ言った」
「覚えておりました。覚えているだけでは、翌年も同じことが起きます。事実、翌年も2人やりました」
ガルフは巻いた紙を握り直した。
「あなたのやり方が人を焼いたのは、事実です。私は慰めに来たのではありません」
「わかっている」
「わかっておられない。あなたは今、自分を罰しておられる。罰は数に出ません。数に出ないものを抱えたまま、数に出る仕事まで止めるのは、罰ではなく手抜きです」
俺は口を開いて、閉じた。
「手抜きか」
「手抜きです。あなたは書ける。書けるくせに閉じている。私は書けなかった。書き方を知らなかったからです」
この男は当番表を卓の上に置いた。置いて、そのまま出ていこうとして、扉のところで足を止めた。
「もうひとつ。数の外側の話をします」
「聞く」
「ヨストの母親には、麦の話をなさったそうですな」
「した」
「あれは良かったと、宿場の女が申しておりました。あの人は、息子が何を運んだかを知りたかったので」
扉が閉まった。
*
翌日、リーゼが徴税所から綴りを運んできた。
彼女は判を押させるためではなく、卓の端に綴りを積むためだけに来たようだった。積んで、そのまま椅子に座った。
「父も、同じ顔をしておりました」
俺は顔を上げた。
「東の徴税所へ移された年です。家で、何日も書きませんでした。母が心配して、机の上に紙を出しておくのですが、父は触りませんでした」
「どのくらいだ」
「10日ほどかと。子どもでしたので、正確には」
彼女は膝の上で手を組んだ。
「私は、父に早く書いてほしいと思っておりました。書いていれば、前の父のままだと思えましたので」
「書いたのか」
「書きました。11日目に、母の縫い物の勘定を書いておりました。針の本数と、糸の値です」
そこで彼女は少し口を閉じた。
「……それを見て、私は安心しました。今から思えば、父にとっては何の解決にもなっていなかったはずです」
「解決していないものを見て、安心したのか」
「はい」
彼女はこちらを見た。目に、責める色はなかった。急かす色もない。
「ですから、あなたにどうしろとは申しません。書けとも、休めとも」
「言われたほうが楽なんだがな」
「存じております」
彼女は綴りの上に手を置いて、少しだけ姿勢を戻した。
「ただ、綴りはここに置いてまいります。読まなくても結構です。置いてあるほうが、部屋が仕事場に見えますので」
*
その晩、俺は帳簿室に一人でいた。
卓の上にはガルフの当番表と、リーゼの積んだ綴り。その手前に、閉じたままの帳面が置いてある。
蝋燭を1本立てた。芯を切ると、炎が伸びて、紙の匂いが立った。インクと獣脂と埃。この部屋の匂いは、春に扉を開けた日から変わらない。
書くべきものは決まっている。損害の原因の欄に書くのは放火の2文字だ。誰がやったかは書けない。書けないなら、書けないと書けばいい。そうやって1年やってきた。
わかっている。指が動かないだけだ。
村ではこの3日も暮らしが動いていた。イルゼの群れが子を1頭産み、水車小屋の新しい石臼が据えられ、産婆の家の屋根に隊の者が板を打った。誰も俺の判を待たずに回している。
回っているのは俺が春から書いてきた紙が、この土地でひとりでに立てるようになったからだ。
そこまで考えて、俺は少し笑った。
自分がいなくても回る仕組みを作った男が、自分がいないことに耐えられずにいる。喉の奥で短く音が鳴っただけの笑いだった。その音を聞いて鼻で笑い返す相手はこの部屋にいない。
俺は帳面の表紙に手を伸ばした。
伸ばして、指の先が革に触れる手前で止まった。
外で風が鳴り、窓の板が一度きしむ。蝋燭の炎が傾いて、表紙の上に自分の手の影が落ちた。
閉じた表紙は開いた頁より重い。中に何が書いてあるかを知っている人間にとってはなおさら重い。
明日になれば書けるのかもしれない。書けないのかもしれない。どちらであるかを、今の俺は数えられない。
俺はまだ、その表紙に手をかけていない。




