第16話「正しさの値段」
冬至の前に、財務院から3通目が来た。
北辺境物資統制の運用に関する通達。関の検分を強化し、旅の者の携行品についても数量を検める、という内容だ。
つまり、こちらの抜け道は読まれた。読まれたうえで塞ぎに来ている。
俺はその文面を2度読んで、思わず口の端が上がった。
役所が同じ件で3度目の文書を出すときは、1度目と2度目が効かなかったときだ。効いていれば、通達は要らない。この紙は向こうの手が届いていないことの証明になる。
「勝ってはおりませんぞ」
ガルフが横から言った。
「勝っていない。だが、向こうは困っている」
「困った役人が、次に何をするかをご存じか」
その問いに、俺は答えを持っていなかった。
*
通達の写しは掲示板にも貼った。
村の反応は俺が予想していたものと違った。恐れるかと思っていたが、集まった連中はむしろ声が大きくなった。
「3度目だってよ」
「効いてないってことじゃないか」
グレゴールが自分の掌に拳を打ちつけて、笑い声を上げた。麦が届いた翌週だ。峠を越えて背負ってきた本人たちが、王都の紙が届かないことを笑っている。
その笑いを俺は止めなかった。
止める理由が見つからなかったからだ。この冬、この村の人間は自分の足で60日ぶんの食い物を運び入れた。笑う権利くらいはある。
権利はある。だが笑い声が丘の下まで届くのを聞きながら、俺の腹の底では別の勘定が動いていた。
こちらの手が届く場所と、向こうの手が届く場所は同じではない。向こうが関を押さえられないなら、押さえられるところを押さえに来る。押さえられるところとは、王国の側にいる人間のことだ。
俺はその晩、バルツ宛てに手紙を書いた。しばらく荷を止めるべきかもしれない、という趣旨のものだ。
書いて、封をして、駅逓の日を待った。
駅逓が出るのは3日後だった。
*
村の側ではこの冬の運びがひとつの形になりつつあった。
峠が閉まる前の最後の便で、麦が9袋と塩が小樽で4つ入った。テオが番号を突き合わせ、飛びはゼロ。イルゼの束ねた女たちが、宿場までの中継に小屋をひとつ作った。
「来年の冬も、この形でいけますね」
リーゼが割り当ての表を書き換えながら言った。
「来年は禁輸が解けているかもしれない」
「解けても、この形は残ります。運んだ者の名が残る仕組みは、便利ですので」
そう言って、彼女は表の欄外に運び手の一覧を書き足した。ヨスト、と書かれた名前がその中にある。組合の若い行商は、この冬に4度も峠を越えていた。
*
知らせが来たのは、駅逓が出る前の晩だった。
俺の書いた手紙はまだ袋の中にある。
丘の下で犬が鳴き、それから人の声が上がった。テオが階段を駆け上がってくる音で、俺は寝台から降りた。
「お館様、宿場が」
「落ち着け。何が」
「バルツさんの店が、焼けたと」
*
出立の支度をしているあいだ、リーゼは玄関の壁際に立っていた。
「私が名を出したせいでしょうか」
「わからない」
「あの照会が院に着くのは、ちょうどこの時期です」
「わからない、と言った」
俺は外套の紐を締めた。締めながら、自分の声が思ったより硬かったことに気づいた。
「わからないことを、わかることにしてはいけない。あんたの父上がやってきたのは、その反対のことだ」
彼女は口を閉じた。
「それに、名を出せと言ったのは俺じゃないが、止めなかったのは俺だ。順番をつけるなら、俺のほうが先に立っている」
言い切って、俺は扉を出た。慰めになっていないのはわかっていた。慰めの言葉を持ち合わせていないのも、こういうときに毎回わかる。
*
雪の中を俺は関へ下りた。
3日の道を2日で行った。ガルフが隊から4人を出し、そのうち2人が途中で足を傷めている。無理をさせた分は後で書くと自分に言い聞かせて、俺は歩き続けた。
歩いているあいだ、頭の中で組み立てていたのは損害の見積もりだった。
店の建物。土間の荷。組合の帳場。焼けたのが夜なら、人は逃げているはずだ。冬の火事は寝入りばなに起きるから、逃げ遅れる者が出るとすれば2階だ。バルツの家族は2階に住んでいる。
そこまで考えて、俺は自分の思考の順番に気づいた。
建物。荷。帳場。人。その順で数えている。
順番を入れ替えようとしたが、入れ替えたところで足の運びは速くならなかった。
宿場の外れに着いたのは2日目の夕方だ。
建物は土間の柱と、石を積んだ竈のあたりだけが残っていた。屋根と2階が抜け落ち、焼けた梁が斜めに刺さっている。雪が上に積もって、黒と白がまだらになっていた。
匂いが先に来た。焦げた木と油と獣脂、それに混じって何か別のもの。鼻の奥に貼りついて取れない匂いだ。
人が集まっている。組合の男たちと宿場の住人。誰も片づけを始めていない。始める気になれる場所ではなかった。
*
バルツは焼け跡の手前に立っていた。
外套の裾に焦げた穴が開いている。顔の右側が煤で黒く、眉が半分焼けていた。俺が来たのに気づいて、この男はゆっくりと首を回した。
「早いですな」
「知らせを受けた晩に出た」
「そうですか」
バルツは口の中で一度息を切り、焼け跡のほうへ顎を向けた。
「ヨストが中におります。あと、カルルという年寄りが」
俺は口の中の唾を飲んだ。飲んでから、何を言えばいいのか思いつかなかった。
「……逃げられなかったのか」
「逃げました。一度は全員出ました」
バルツの声は平坦だった。
「ヨストが戻ったんです。荷を出すと言って。あいつは自分の運んだ荷の番号を覚えてまして、番号のついた紙が中にあるから取ってくると」
風が焼け跡を渡って、灰が舞い上がった。
「カルルは、あいつを追って入りました。年寄りのほうが足が遅い。梁が落ちたのは、その後です」
*
火の出方は床の油の跡でわかったという。
土間の入口と階段の下の2箇所。どちらも外側から。雪の上に足跡があったが、翌朝には人が踏み荒らして消えていた。
宿場の役人は荷に使う油に火が移ったのだろうと言った。
「証拠はない」
俺が言うと、バルツは短く鼻から息を抜いた。
「ありません。この土地で、証拠のある火事を見たことがありません」
*
俺は焼け跡の周りを歩いた。
歩きながら、数えていた。柱が7本。焼け残った樽が3つ。土間の広さから見て、置いてあった荷は麦にして40袋ぶんほど。損害は金貨で、たぶん200を超える。
数えている自分に気づいたのは、竈の裏まで回ったときだ。
指が動いていた。目が数を拾い、頭が合計を作っている。20年ぶんの体が、こういう場所でもいつもの手順を始めていた。
俺はその手を止めた。
止めても頭のほうは止まらない。死んだのは2人。1人は20を出たばかりでもう1人は年寄り。ヨストの遺族は確か母親と妹だと聞いた気がする。
数えるな、と自分に言った。
数えないのなら、俺はここで何ができる。
*
バルツの妻に会ったのは、隣の宿の一室だった。
ミナという名の、痩せた女だ。両手に布が巻かれている。梁の下から娘を引き出したときに焼いたのだと、宿の女将が小声で言った。
俺は名乗って、頭を下げた。
女は俺の顔を見なかった。見ずにこう言った。
「あの人は、あんたの領の話をするときだけ、機嫌がよかったです」
言い終えると、女の視線は窓の桟に落ちた。それきり何も言わなかった。
娘は部屋の隅で膝を抱えていた。年はテオと同じくらいだろう。俺のほうを一度見て、すぐに目を伏せた。
その伏せ方に覚えがあった。春の馬車で荷袋の陰に膝を抱えていた子が、同じ目の伏せ方をする。
*
ヨストの母親には翌朝に会った。
宿場の南の外れに小屋があり、そこに妹と二人で住んでいる。俺が名乗ると、この人は膝をついて頭を下げようとした。俺のほうが慌てて止めた。
「息子さんは、うちの領に麦を運んでいた」
「聞いております。冬に、いい仕事をもらったと」
そこで言葉が切れた。
「……あの、荷は届いたのでしょうか」
俺は答えられなかった。
届いた。9袋と小樽4つ。番号の飛びはゼロ。数えたのは俺で、突き合わせたのはテオで、記録は帳簿室の棚に綴じてある。
その数を、この人に言うわけにはいかない。息子が死んだ理由が「番号のついた紙を取りに戻ったから」であることもまだ言えない。
「届いた。……あなたの息子さんの運んだ分は、村の3つの家に回っている」
母親は頷いて、それきり何も聞かなかった。
*
組合の男が焼け跡から金属の箱をひとつ掘り出した。
帳場の下に埋めてあったものだという。蓋を開けると、中の紙は端が焦げているだけで読めた。割符の控えだ。番号順に綴じられ、印の半分が並んでいる。
「燃えなかったのか」
「箱に入れておりましたので」
バルツが言った。
「それに、写しは各軒にもあります。うちの店が全部焼けても、番号は6軒に散らしてある」
紙は残った。
俺が設計した仕組みは、設計どおりに働いた。分散して保管したものは、片方が焼けても消えない。理屈は正しく、実務は正しく、結果として紙は1枚も失われていない。
失われたのはその紙を背負って峠を4度越えた男のほうだ。
*
日が落ちて、宿場に灯りがつき始めた。
俺は懐から帳面を出した。出してから、開けなかった。
被害の記録に、誰の何が失われたかを書く欄を作ると言ったのは俺だ。数と一緒に名前を残せば、数えても消えないと言った。あの晩、詰所でガルフに向かってそう言った。
今、その欄に書くべき名前を、俺は2つ知っている。
隣にバルツが立った。この男は焼け跡を見ていて、こちらを見なかった。
「伯爵様」
「なんだ」
「夏に申し上げましたな。正しさってのは、どこかで誰かが値を払ってると」
「言われた」
「あのときは、払ってるのはあんただと申し上げました。訂正します」
俺は帳面を開いた。開いてしまえば、書けることはある。
「損害は領が持つ。建物と荷。それに、二人の家族への手当を領の債務として記帳する。今は払えない。払える日から順に、いくらを誰へ回すかまで書いて残す」
「今年の黒字は、52クローネでしたな」
「52だ」
「焼けたのは、200を超えます」
「超える。だからこそ、何年かかるかまで書く」
バルツは焦げた袖で顔の煤を拭った。拭っても黒は残った。
それから、この男は俺のほうへ一歩寄った。声は商談のときと変わらない調子だった。
「勘定書きを出しましょうか。あんたの正しさの、今日ぶんの」




