第13話「俺の前に、六人」
麻布を解くと、紙のほうが先に匂った。
黴と、古いインクと革鞄に染みた獣脂。8年ぶんの写しが、綴じ紐で年ごとに束ねられている。表紙はない。持ち出すときに外したのだろう。表紙のない綴りは、開くまで中身がわからない。
「持ち出せたのは、付属明細だけです」
リーゼが束の順を直しながら言った。
「決算の本体は院の書庫から出せません。父が扱っていたのは、本体に付く明細のほうでした。歳入と歳出を、項ごとに割ったもの」
「充分だ。本体は要旨しか書かない。嘘が入るのは明細のほうだ」
彼女の手が止まった。
「……父も、同じことを申しておりました」
*
読むのは彼女の役目になった。
俺が言い出したのではない。麻布を開いた晩に、彼女のほうが先に椅子を引き寄せた。
「私が読みます。父の字は、私がいちばん速く読めます」
事実だった。ファルナーの字は小さく、行間が詰まっていて、略記が多い。書いた本人と、その字を見て育った人間にしか読めない速さで書かれている。
俺は読み上げられた数を書き取る側に回った。項目と金額と頁の番号。書き取りながら、体のほうが勝手に癖を出す。桁を3つずつ区切り、区切りの点を肩に打っている。彼女の癖が春からこちらで俺の指に移っていた。
テオが夜通し蝋燭を替え、マルタが麦湯を運んできて、飲まずに冷めた椀が3つ並んだ。
*
歳入の部から始めた。
税と関税。鉱山の運上と王領地の上がり。項の立て方は俺が知っているどの様式とも違うが考え方は同じだ。入ってくる金を出所ごとに分ける。
ファルナーの明細には、項ごとに小さな印がついていた。丸、三角、それに何もなし。
「これは」
「父の印です。丸は、根拠の帳面を自分の目で見た項。三角は、他の部署の報告をそのまま写した項。何もないのは、出所を確かめられなかった項です」
俺は思わず息を吐いた。
自分が確かめた数と、人から受け取った数を分けて書く。当たり前のことだが、当たり前をやり続ける人間は少ない。やり続けると、確かめられなかった項が誰の目にも見えてしまうからだ。
見えてしまうものを、この男は8年ぶん残している。
問題は歳出の部だった。
軍。宮廷。街道と橋。駅逓。官吏の俸給。ここまでは読める。その次に、見慣れない項が1つ立っている。
『西方街道普請費』
俺は書き取る手を止めた。
「額は」
「……入っておりません。項の名だけが立って、欄が空でございます」
書き入れる場所を用意しておいて、そこに何も入れない。歳出の部でそれを見るのは初めてだ。
「その前の年は」
彼女が綴りを繰った。繰る手が途中で止まる。
「……ございません。この名の項は、前の年にも、その前にもございません」
「印は」
「ついておりません」
丸でも三角でもない。出所を確かめられなかった項だ。律儀に打ち分けてきた男が、束の最後の年に立った1行の前で、何も打てずにいる。
「街道の名だけは立派だな」
「父の書き込みがございます。ここに」
彼女が示した余白に、細い字で1行あった。
『西方街道 現況照会 回答なし』
俺はその1行を書き写した。意味のほうは書かなかった。
*
その晩、俺は上着の内から油紙の包みを出した。
没収調書の控えだ。春に王都を出てから、開いたのは数えるほどしかない。
理由は自分でもうまく言えなかった。合わない3箇所を数え直したところで、この写しの束と関係があるわけではない。それでも指が包みを取りに行った。
蝋燭の下で、控えと明細を並べる。
紙の質が違う。書式も違う。書いた人間も違う。それでも数字の合わなさの出方が似ていた。
どこがと問われても答えられない。同じ人間が煮た汁の味を、別の鍋で飲んだときのような感じだ。使っている材料が同じなのだと、舌のほうが先に言っている。
俺はその感覚を帳面の端に書いた。
『似ている。理由不明』
わからないものは、わかるまで置いておく。この癖だけはどの帳場に座っていたときも最後まで抜けなかった。
*
4日目に歳入の部へ戻った。
税でも関税でもない項が1つ、目に留まったからだ。
『処分に係る繰入』
摘要はその一句のみで、家名も理由も書かれていない。日付は年度末の締めから10日以内に入っている。
「前の年にも、これがあるか」
「ございません。この束は、父が王都を出た年で終わっております」
最後の年に1つきり。歳出の側で引っかかった項と、同じ年の紙だ。
「同じ形のものが、ほかの年にもあるかどうかを知りたい」
「1つだけ、当てがございます」
リーゼは外套を取り、テオを連れて丘を下りていった。
戻ったのは昼過ぎだ。二人で抱えてきたのは、紐の解かれていない綴りの束だった。
「法官庁の年次目録です。断罪の宣告が、番号と日付と、国庫へ入った額だけで載ります。毎年1部ずつ、地方の徴税所にも回ってまいります」
「読んだ者は」
「おりません。家名が書かれておりませんので、税の仕事には使えません。父が東へ移されたあとの分も、紐のまま積んでございました」
年ごとに紐を切り、年度末の締めから10日以内に宣告の出たものだけを拾った。読むのはリーゼ、正の字を置くのは俺だ。
「6つあります」
彼女は目録を閉じずに言った。
「父の明細と日付の合うものが1つ。8年前です。次が6年前に2つ。5年前、3年前、去年。額は、どれも大きうございます」
8年。俺は書き取った日付を並べ直した。
貴族が断罪され、財産を没収され、それが国庫に納められる。そこまではこの国の制度そのものだ。制度どおりなら、繰入があること自体はおかしくない。
おかしいのはその位置だった。
「6つとも、年度の締めの直前に宣告が出ている」
「そうなります」
「収穫も税の納付も、締めまでに終わる。締めの10日前になって、あとから増やせる歳入は一種類しかない」
彼女がこちらを見た。理解が追いつく速度が速い。速すぎて、目のほうが先に痛みを含んだ。
「……人を、処分して取る分です」
「そうだ」
*
俺は自分の断罪の日付を思い出した。
霜解けの月。王国の会計年度の締め。
法廷であの次席が付け足した一言まで、耳の形をして残っている。執行は本日中に、年度の締めに間に合わせよ。
あのとき俺は急いでいるのは向こうだと思った。理由は考えなかった。急ぐ理由は敵の側の事情であって、こちらが背負う話ではないと思っていたからだ。
背負う話だった。
締めに間に合わせる必要があるのは、締めまでに歳入を増やしておかなければならないからだ。増やす方法として、貴族の首がひとつ数えられている。
俺は7人目だ。
頭では繋がった。胸のほうはまだ横を向いている。あの広間で膝をついていたのは自分で、笑っていたのは他家の使用人で、壇の上の男はこちらを見もしなかった。あれが個人の憎しみですらなかったのなら、あの日の俺は何だったのか。
処理だ。
年度末に間に合わせる書類の1枚だった。
握っていた炭が折れて、指の腹に黒が食い込んだ。
*
「6つが、それぞれどの家のものかはわからないのか」
「目録は番号だけでございます。父の明細にも家名はありません」
「思い当たる家は」
彼女は少し考えてから、3つの名を挙げた。王都にいた頃に噂で聞いた家だという。1つは領地ごと消え、1つは当主が獄死し、1つは爵位だけ残って地方へ下がった。
テオが墨を摺る手を止めて、小さく口を挟んだ。
「あの……前のお館様が、酔ったときに笑っておられた家がございます」
「笑っていた」
「あの家は潰れた、次はどこだと。……名前は、シュタイベルとおっしゃっていたかと」
俺は書き取った。前領主が笑いながら数えていた列に、この体が自分で並ぶことになったわけだ。皮肉としては出来すぎている。
4つ。残りは2つ。
「取り寄せられるか」
「断罪の記録は、判決の要旨だけなら写しを請求できます。財務院ではなく、法官庁の書庫です」
「請求できる人間は」
「関係する者か、爵位のある者です」
その2つの条件のうち、片方はこの部屋にいる。もう片方もこの部屋にいた。
*
明け方近く、ガルフが帳簿室を覗きに来た。
夜通し灯りがついているのを、詰所の見回りが3晩つづけて報告していたらしい。この男は卓の上の紙の量を見て、それから俺の顔を見た。
「何を数えておられるので」
「王都の勘定だ」
「あなたの勘定ではなく」
「俺の勘定が、向こうの勘定の中に1行として入っている。それがわかった」
ガルフは紙に手を触れず、卓の一歩手前で立っていた。読めない紙を前にしたときの、この男の距離の取り方だ。
「読めんことを承知で申し上げます」
「聞く」
「その紙で、うちの村の冬が温かくなりますか」
答えられなかった。
ならない。この束は麦を1袋も増やさない。坑の水も汲まない。それどころか、読み進めるほどこちらの立っている場所が薄くなっていく。
「ならない」
「では、順番をお忘れなく。冬が先です」
言い置いてこの男は出ていった。扉が閉まってから、俺は自分が3晩ぶん村を見ていないことに気づいた。
*
リーゼは束の一番上の綴りに手を置いたまま動かなかった。
顔が白い。読み上げていたあいだ、彼女は一度も声を震わせなかった。震えは終わってから来る。
「父は、この繰入の照会を出しております。ここに控えが」
指が紙の端を辿る。
「『繰入の原資と、対応する処分の一覧を求む』。……日付は、東の徴税所へ移されるふた月前です」
「……そうか」
「父は、これを見たから死んだのですね」
俺は答えを持っていなかった。持っていない答えを埋めるのが、いちばんやってはいけないことだ。
「わからない。今わかっているのは、あんたの父上が照会を出したことと、そのあとで異動になったことだけだ。順番はわかる。理由はまだ、紙になっていない」
「……紙になりますか」
「する」
言ってから、俺は自分の声の軽さに驚いた。約束の重さと、それを言った人間の力が釣り合っていない。この領には金貨52クローネしかない。
それでも彼女は頷いた。頷いてから、袖で目のあたりを一度だけ拭って、次の頁をめくった。
「ひとつ、お願いがございます」
「言ってくれ」
「この束を読んだことは、村の誰にも言わないでください。掲示板にも貼らないでください」
隠さないと言い続けてきた人間への注文としては正面から来ている。俺は少し考えた。
「理由は」
「読んだ者が増えれば、消される者も増えます。父の周りで起きたのは、そういうことでした」
道理だった。開示は武器だが武器は持たされた側にも重さがかかる。ここに書いてあるものは、まだ村の誰かに背負わせていい重さではない。
「わかった。この綴りは掲示しない。代わりに、読んだ人間の名前は書く。あんたと、俺と、テオだ」
「……なぜ名前を」
「後で誰かが消えたとき、誰が読んでいたかがわからないと、探せない」
彼女の指が紙の上で止まった。
*
窓の外が白み始めていた。
晩秋の朝は霜が降りる。窓枠の内側にまで霜の粒が回って、指で触れると溶けた。冬が来る。坑の水を汲むのは春だ。今年できることはもう多くない。
俺は書き取った紙を上から見直した。
8年前に1つ。6年前に2つ。5年前と3年前と去年に1つずつ。
俺の前に六人。
その六人ぶんの帳面を、この国では誰が数え直したんだ。




