第12話「祝杯と父の鞄」
収穫締めの日は王国のどこでも同じ日に来る。
麦が納屋に入り、税が確定し、その年の勘定を閉じる。王都では財務院が国全体の決算に入る時期でもある。俺にとっては暦を見るより先に肩の裏が強張る季節だ。
グラウフェルトの帳簿室では、蝋燭が3日連続で朝まで燃えた。
*
数を締める作業は、足し引きよりも突き合わせのほうが長くかかる。
税として入った麦と、徴税所の受取書きの控え。倉庫の現物とテオの数え書き。バルツとの割符。詰所の受け取り。同じ出来事を書いた紙を2枚ずつ並べて、食い違いの出た箇所に印をつけていく。
食い違いは11箇所出た。うち9つは書き間違いで、2つは現物のほうが多かった。多い側の食い違いは、たいてい誰かが黙って足したものだ。理由がわかるまで、俺はその2箇所を宙に浮かせておいた。
片方は2日目に片づいた。倉庫の麦が2袋多かった件で、置いていったのはイルゼだという。羊飼いの女は隠す気もなく認めた。
「春に種籾を借りた家が2軒ある。返しに来たのを、私が受け取って置いといたよ」
「受け取ったなら、受取書きを切ってくれ」
「面倒なことを言うね」
「面倒なほうが、あんたが疑われずに済む」
イルゼは鼻の頭を掻いて、翌日ちゃんと切って持ってきた。
もう片方は最後まで理由がわからなかった。俺は帳面の余白に、わからないと書いた。
3日目の夜明け前に、リーゼが最後の列を読み上げた。
「収入、金貨で395クローネと12グロッシュ」
「支出を」
「冬支度218。守備隊の俸給72。坑に12。財務院への分割払い19。前領主の代の未払いの整理と、水車小屋の石臼と、種籾。その他を締めて22です」
俺は炭を握ったまま、最後の引き算をした。
52。
もう一度、上から足し直した。答えは動かない。
顔を上げると、リーゼが卓の向こうで背筋を伸ばしていた。3晩とも彼女はここにいる。目の下が落ち窪んで、羽根ペンを持つ指の関節にインクが層になっていた。
「もう一度、読み上げましょうか」
「要らない。3度目は、間違っていてほしいときにやるものだ」
「……間違っていてほしくない数、ということですか」
「そうだ」
彼女は何も言わずに、帳面の頁の角を指でそろえた。
*
金貨52クローネ。
この額で買えるものを並べてみると、われながら笑いたくなる。守備隊の兵は1人あたり年に6クローネで働いている。つまりこの黒字は、兵9人を1年雇うのにわずかに届かない。
王都の貴族が仕立屋に払う額でもない。前領主なら、賭場でひと晩で溶かした。
それでもこの領で黒が出たのは俺の知る限り初めてだ。
古い帳面の残っている15年前まで遡っても、収支の締めが記録された頁そのものがない。締めていないのだから、黒も赤もない。この土地はずっと、勘定を閉じずに走ってきた。
俺は白紙の帳面の新しい頁にその1行を書いた。
『412年 収穫締め 差引残 金貨52クローネ』
インクが乾くのを待つあいだ、指の震えが止まらなかった。寒さのせいだと自分に言い聞かせて、窓の外が白むまでそこに座っていた。
*
「掲示板に貼ります」
朝、俺がそう言うと、ガルフの声が跳ねた。
「未納の額もですか」
「全部だ。収入も支出も、黒字の52も、賦課の未納も」
「420クローネの未納を村に読ませて、何になります。冬に人が逃げますぞ」
「逃げるなら、逃げる先で聞かせてやってくれ。うちの領主は、払えないものを払えないと書く男だと」
「そんな評判で麦は増えません」
「増えない。だが、隠した年の翌年に何が起きるかは、あんたも俺も知っている」
ガルフは口を閉じ、卓の縁を指で3度叩いた。反論を諦めるときのこの人の癖だ。それから、掲示板の柱が傾いているから直しておくと言って出ていった。
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貼り紙の前には人が集まった。
字が読める者が声に出し、読めない者が聞いている。読み上げているのはテオだった。少年の声は途中で裏返り、そのたびに誰かが笑う。
「差引残、金貨52クローネ」
そこで声が途切れた。
「……52って、多いんですか」
グレゴールが聞いた。答えたのはイルゼだ。羊飼いの女は腕を組んだまま、乾いた声で言った。
「羊にすれば、20頭ちょいだね」
「たいしたことないな」
「ないよ。去年は赤だった。一昨年もだ。数えてなかっただけでね」
言い方は素っ気ない。それでも人垣は散らなかった。
俺は隣の柱にもう1枚を貼った。冬に村へ回す麦と塩の割り当てだ。坑の塩はまだ量が知れない。当てにできる分だけを書いた。
貼り終えると、後ろから声がかかった。馬を飼っているブレントだ。春に取り分の決め方で揉めて、捨て台詞を残して帰った男だった。
「未納の420は、来年うちらから取るんですかね」
「取らない。取れば来年の未納が増える」
「じゃあ、どこから」
「まだ決まっていない。決まったら、この柱に貼る」
ブレントは貼り紙を睨んで、何も言わずに人垣から抜けた。納得はしていない。それでも今年は去年までと違って睨む先に数字がある。
*
その晩、館の食堂に卓を出した。
宴と呼ぶには質素で、集まりと呼ぶには酒がある。マルタが塩漬けの肉を切り、去年より厚く盛った。塩は北坑の欠片を砕いて使ったもので苦みが強い。それでも肉は保つ。
俺はまず、ヘルマンに石臼の受取書きを渡した。
「切り出しの手配は済んだ。据えるのは雪の前だ」
水車小屋の親方は紙を両手で持ち、日の落ちた窓のほうへ透かした。透かしても何も見えないのにそうしていた。
「春に、紙は石を挽かんと申し上げました」
「言われた」
「訂正しません。紙は挽かん。ですが、この紙がなけりゃ、おれは今日まで待てませんでした」
次にテオを呼んだ。俺は銀貨を18枚、卓の上に並べた。
「未払いの9ヶ月ぶんのうち、3ヶ月ぶんだ。月6グロッシュで3ヶ月。残りは来年に繰り越す。台帳の書き換えは自分でやれ」
少年は銀貨を見て、俺を見て、それから両手を後ろに回した。
「……いただけません」
「なぜだ」
「その分があれば、坑の飯が8日ぶん出ます」
「出る。だが、それはお前が決めることじゃない。お前が受け取って、それから坑に寄付するなら、それは別の行として書く」
テオは長く黙って、銀貨を1枚ずつ拾った。指がまだ細い。この子が自分の名前で受け取った金は、たぶんこれが最初になる。
最後にガルフを呼んだ。差し出したのは銀貨ではなく、1枚の紙だ。
「春に書いた残債の40グロッシュ。今年の勘定で消した。隊の者に配る割り振りは、あんたが決めてくれ」
この男は紙を受け取ったまま、しばらく卓の一点を見ていた。指が紙の縁を往復している。
「……ヨナスが、これで娘の靴が買えると言うでしょうな」
「言わせておけ」
「言わせます。あれは口が軽い」
そう言って、ガルフは紙を胴当ての内側にしまった。杯には手を付けずに、それきりその話をしなかった。
*
バルツの荷車が着いたのは宴の途中だった。
この男は雪の前の最後の荷を運んできて、そのまま卓の端に座り、マルタの肉を3切れ食べてから話を始めた。
「割符の様式ですがね。南の宿場の連中が、うちの真似を始めました」
「広まるのは構わない」
「構わんどころか、こっちは儲かってます。うちの組合と取引すると帳面が揃うと言われて、荷が増えました」
「そちらの手柄だ」
「あんたの手柄でもある。だから言っておきます」
バルツは杯を置いた。指の短い手が卓の上で組まれる。
「王都の宿場で、あんたの領の名を出す役人が増えました。褒める言い方じゃありません。北の田舎が余計な紙を作って、院の手間を増やしていると」
「手間を増やしている自覚はある」
「それとですな。あんたのところの賦課が払われていないのを、なぜあの領だけ許すのかと言い出した領主が2人いるそうです」
俺は杯の中身を見た。麦の酒は濁っていて、底に澱が沈んでいる。
払わないことが目立ち始めた。目立つのはこちらが数字を出して戦っているからだ。黙って絞って納めていれば、誰もこの領の名を覚えない。
「値の話に戻すぞ。目立つ相手と組む商人は、高い値をつけるんだったな」
「覚えておいででしたか」
「今年の分は、まだ上がっていない」
「来年は上げます」バルツは笑わずに言った。「上げる理由が、そのうち向こうから来ますよ」
*
人が帰り、食堂の卓が片づいた後も、リーゼは残っていた。
彼女は徴税所へ戻らずに、脇に鞄を置いて椅子に座っている。革の古い旅鞄だ。この土地へ移ってきたときに持ってきた1つきりの荷だといつか聞いた。
「お話があります」
「聞く」
「その前に、確かめさせてください」
彼女は膝の上で指を組み、ほどき、また組んだ。声を出すまでの間が長い。
「あなたは今日、未納の420クローネを掲示板にお貼りになりました。94クローネの請求も、争わずにお認めになった。……都合の悪い数を出す人だというのは、もう存じております」
「褒められている気がしない」
「褒めております。私は、そういう人を1人しか知りませんでした」
蝋燭の芯が跳ねて、卓の木目に影が走った。
リーゼは鞄の留め金を外した。中身は衣類ではない。麻布に包まれた紙の束が、鞄の底いっぱいに詰まっている。厚みは指2本ぶん。角が擦り切れて、綴じ紐が3度替えられている。
「父が、王都を出るときに写したものです。私が持って移りました」
俺は手を伸ばしかけて止めた。触れる前に確かめておくことがある。
「これを俺に見せると、あんたはどうなる」
「わかりません」
「持っていることが知られたら、どうなる」
「父と同じ罪状がつきます。院の文書を許しなく写して持ち出すのは、公金の不正と同じ扱いですので」
淡々と言った。何度も自分に確かめてきた文章の読み上げ方だ。
母の死んだ年に、この娘は20歳にもならない体でこの束を鞄に詰めて、8日の馬車に乗ったことになる。捨てれば安全だと、道中で何度考えたかは聞かない。
「わからないものを、なぜ出す」
彼女は束の上に手を置いた。守るような置き方ではなく、押し出すような置き方だった。
「父の帳簿です。……王国の決算と、合いません」




