1-3.推しを披露する
ジャンを雇ってから半年が過ぎた頃、シモン子爵家で茶会が開かれた。エリザベートは庭園に集った貴族婦人たちの前で、ジャンに歌を披露させることにした。
よく手入れされた芝生には、庭師によって刈り込まれた低木が並び、その間に季節の花が植えられていた。噴水が吹き上げた飛沫が、きらきらと輝いていた。
茶会が始まってしばらくしたころ、それまで給士として飲み物を提供していたジャンは、噴水の前の舞台に立った。
「エリザベート様、あの方は?」
「使用人のジャンです。彼には歌唱の才能があるので、ご覧に入れようかと思いまして」
エリザベートが舞台脇の使用人に合図を送ると、リュートの演奏が始まった。ジャンは客席をゆっくりと見渡し、小さく息を吸った。
ジャンが声を発した途端、澄んだ歌声は薔薇の香りと混じり合い、庭園全体を包み込んだ。
半信半疑だった婦人は表情を変えた。別の婦人は口をぽかんと開けた。
ジャンの飾り立てない歌声は、真っ直ぐに婦人たちの心へ届いた。
ジャンが歌い終わると、その余韻が完全に消えるまで、誰一人として身じろぎをしなかった。
やがて、婦人の一人が静かに手を叩くと、それを合図に拍手喝采が庭園を満たした。
ジャンは照れたように頷くと、深く一礼した。
「まあ、なんて美しい声でしょう」
「シモン家はどこでこんな逸材を見つけたの?」
婦人たちの賞賛を聞きながら、エリザベートは頬がゆるんだ。
これで、ジャンの才能を信じた自分が間違ってないことが証明された。
**
茶会の成功に満足したエリザベートは、次の段階に進むことにした。
シモン子爵家が運営する王都の劇場――アウレリア劇場でジャンを歌わせること。それは貴婦人たちの茶会とは比較にならない、大きな賭けだった。
エリザベートはジャンをアウレリア劇場に出演させるため、父の書斎を訪れた。
父は珈琲を片手に書類を眺めていた。エリザベートが訪ねてくることに、父は驚かなかった。しかし、父を説得するのは容易ではなかった。
「貧民街出身の少年を、アウレリア劇場に立たせるというのか?」
「お父様、彼の歌は本物です。聴けば分かります」
父は目を細めた。ジャンの歌を聴いたことがないのだから、父の反応は当然の結果だった。
エリザベートはジャンを書斎に連れてきて歌わせた。父は「支配人に訊いてみないと何とも」と眉間にしわを寄せた。
エリザベートはジャンを連れてアウレリア劇場を訪問した。ジャンの歌を聴いた支配人は「シモン子爵が許可されるのであれば」と愛想笑いを浮かべた。
エリザベートは屋敷とアウレリア劇場を往復し、父を説き伏せた。そして、ついに劇場での出演が決まった。
**
公演までの間、ジャンの稽古はさらに厳しさを増した。歌唱教師のベルナールは「アウレリア劇場の名に恥じぬように鍛えます」と鼻息が荒かった。
厳しい稽古に疲労は蓄積し、また、劇場に出演する緊張から眠れぬ夜が続いた。ジャンを見かねたエリザベートは、彼の部屋を訪れた。
「眠れないの?」
月明かりの差し込む部屋で、ジャンはベッドに腰掛けていた。
「……怖いんです。僕なんかが、本当に劇場で歌っていいのか。それに、失敗したらお嬢様に迷惑が掛かります」
ジャンは引きつった笑みを浮かべた。
劇場への出演は、ジャンに相談せずにエリザベートが勝手に決めたこと。それなのに、ジャンは自身の失敗が、エリザベートの失敗になることを恐れていた。
エリザベートはそっと隣に座った。
「失敗しても構わない。私が初めて路地裏で聴いた、あの歌声のままでいい。何も変える必要はないわ」
ジャンは顔を上げ、エリザベートを見つめた。蝋燭の灯りに照らされたエリザベートの瞳には、ジャンへの信頼が宿っていた。
「お嬢様は、どうして僕を気にかけてくれるのですか?」
その問いに、「そうね」とエリザベートは口元に手を当てて天井を見上げた。理由など考えたことはなかった。
「あなたの歌が、私の心に語りかけてきた。それだけよ」
エリザベートが首をすくめると、ジャンの目に涙の粒がこぼれそうに溜まっていた。
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