1-2.推しを雇う
「お嬢様、その子は?」
エリザベートがジャンを連れて屋敷に入ると、駆けてきた執事が目を大きく見開いた。執事の視線の先にはみすぼらしい身なりの少年。擦り切れた麻の上着、袖口の糸がほつれていた。
「屋敷に住み込みで雇います。全身汚れているから、身体を洗って、制服を着せてあげなさい。身支度が整ったら、私の部屋に連れてきて」
ぽかんと口を開けて立ち尽くす執事にジャンを預け、エリザベートは父の書斎に向かった。
訓練を受けていないジャンを歌い手として雇うことはできない。だから、エリザベートはジャンをシモン子爵家に住み込みで雇うことにした。執事は人手不足だと言っていたから、問題ないはずだ。とはいえ、ジャンを雇うためには父の許可がいる。
エリザベートが書斎に入ると、机に座った父は書類から目を上げた。滅多に書斎を尋ねてこないエリザベートに戸惑いながらも、父の表情はわずかに緩んだ。
「お父様、お願いがあります」
「何だ?」
「雇ってほしい者がいます」
貧民街から連れてきたジャンを雇うことに、父は難色を示した。ジャンには屋敷で雇うと言って連れてきたのだから、父を説得できないとまずい。エリザベートは時間を掛けて父を説得した。
やがて、エリザベートの意思が固いことを悟ると、父は「まあ、いいだろう」とジャンを雇う許可を与えた。
何とか父を説得できたエリザベートは、深く息を吐き出した。
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制服に着替えたジャンは「参りました」とひれ伏した。綺麗な金色の髪に整った顔立ち。ただ、背筋が曲がっていて、立ち姿がよくない。
それは狭い路地で身を縮める癖が染みついた姿勢だった。貧民街では目立たないことが身を守る術であり、背筋を丸めて生きてきたのだろう。
貧民街で暮らしていたジャンは、まともな教育を受けていない。ジャンが一流の歌い手になるためには、貴族社会に受け入れられる立ち振る舞い、知識、会話術を学ばせなければいけない。
「私の真似をしてくれる?」
エリザベートはジャンの前へ歩み寄ると、両足を肩幅ほどに開いた。
「こうですか?」
「ちょっと違うわね。足の裏全体に均等に体重をのせて立つの。そして、背筋を伸ばす」
ジャンは足の位置を直し、エリザベートの姿勢を真似した。
「胸を張るのではなく、肩甲骨を近づける。そして、肩の力を抜いて」
エリザベートが肩へそっと手を添えると、ジャンは言われたとおり息を吐いた。姿勢は良くなった。
「視線は地面ではなく、少し遠くを見る」
エリザベートが顎をほんの少し持ち上げると、ジャンの視界が変わった。
「……見える景色が、いつもと違います」
それまで見えていたのは石畳のひび割れや泥水だった。視線を上げると、窓から中庭の噴水、木、その奥にある正門が目に入った。
「姿勢が変わると、見えるものも変わるのよ」
「なんだか、別人になったみたいです」
ジャンは綺麗な服を着て、子爵令嬢と話していた。貧民街で生まれ育ったジャンにとって、初めての経験だった。
「今の姿が、本来のあなたよ。その姿勢を忘れないで」
貧民街で生まれ育った過去は変えられない。しかし、これからの人生は、自分の意思で変えられる。
エリザベートは静かに微笑んだ。
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ジャンの一日は早朝から始まった。水汲み、薪割り、馬小屋の掃除。屋敷の使用人として雑務をこなし、夕刻になると、エリザベートが招いた高名な歌唱教師ベルナールのもとへ通った。ベルナールを紹介してくれたのは、シモン家が運営する劇場の支配人だった。
ベルナールの稽古は苛烈だった。声量を保つための筋力トレーニング、発声練習ではわずかな音の揺らぎも見逃さなかった。エリザベートは何度か稽古に同席したが、その厳しさは想像をはるかに超えていた。貴族令嬢として声楽を嗜んではいたエリザベートであったが、ベルナールの要求する歌唱の水準にはついていけそうになかった。
ある夜、稽古の後に汗だくになって座り込むジャンに、エリザベートは声をかけた。
「ジャン、もう少し優しく教えてもらえないか、先生にお願いしてみましょうか」
「いいえ。他の歌い手は幼いころから練習しています。出遅れた僕には、これでも足りないくらいです」
その言葉には、ジャンの覚悟が現れていた。
路地裏で誰に聴かせるでもなく歌っていたジャン。自分に与えられた可能性を理解していた。
「屋敷の仕事が疎かにならなければ、それでいいわ」
エリザベートが苦笑いをすると、「はい」とジャンは頭をかいた。
エリザベートはジャンに不思議な温かさを感じるようになっていた。それが何であるのか、まだ気づいていなかった。




